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やっぱりたばこが好きだ


禁煙を断念した

7月25日に禁煙外来を受診した。
チャンピクス(禁煙補助薬)を処方され、その日から飲み始めた。
準備期間を経て、一週間後の8月1日から禁煙を始めた。

8月1日から4日までは、一本も吸わずにいることができた。


このまま順調に進むかと思えたその時、チャンピクスの副作用に見舞われた。

服用11日目。
無気力、集中力のなさ、そわそわする感覚に襲われた。
そのときは、「きっと疲れているのだろう」程度に思っていた。

しかし、十分に休んでも、症状は治まらない。
それどころか、翌日の服用12日目には、吐き気や腹部膨満まで加わった。

そこでようやく気付いた。
これは、チャンピクスの副作用だ、と。


そもそも、なぜ禁煙を始めたのか。
前職を辞め、無職になったのを機に、転職活動のついでに禁煙もできないかと考えたのだ。

ただ、メインはあくまで転職活動であり、禁煙はサブでしかない。

その副作用で肝心の転職活動ができないのでは、本末転倒である。
副作用は、これから約2週間続くという。

過去にひきこもりを経験している私にとって、ここで生活リズムを崩すわけにはいかない。

そう考え、医師に電話し、このたびの禁煙は断念することにした。


禁煙できるかではなく、禁煙したいか

禁煙して数日が経った頃、ひとつの疑問が浮かんだ。

私は本当にたばこをやめたいのだろうか


禁煙前に心配していたのは、30年間吸い続けたたばこをやめられるかどうかだった。

ところが禁煙してみると、問題はそこではなかった。

吸いたくなることはある。
だが、我慢はできる。

ただ、我慢してまで禁煙することに、どれほど意味があるのか。


一般的に禁煙のメリットと言われるものの多くが、私には響かない。

私は健康のため何かを我慢してまで、長生きしたいと思っていない。
喫煙が身体に悪いのは分かっている。
それでも、寿命を縮めてでも好きなものを味わう方が私には性に合っている。

禁煙でもっとも大きなメリットである健康ですら、こんなもんだ。

私にとって禁煙するメリットは、たばこ代が浮くことと、外出先で喫煙所を探さなくてよくなることくらい。


結局、私は「やめられるか」で悩んでいたのではなかった。
「やめたいのか」が分かっていなかった。


たばこが与えていた「ほんの少しの豊かさ」

禁煙してみて初めて分かったことがある。

たばこを吸えないと、つまらなくて仕方がないということだ。


たばこは、私の生活にほんの少し豊かさを与えていた。

寝起きの一服。
食後の一服。
イライラしたときの一服。
そして、良いものに触れたあとの一服。

先日、大河ドラマ「真田丸」を観ていた。
とても良い回で、観終わったあと、無性にたばこが吸いたくなった。
イライラを紛らわせたいわけではない。
感動や高揚の余韻を、一服しながら味わいたかったのだろう。

たばこは、イライラしたときに心を落ち着かせるだけのものではなかった。

一日の始まりに置くスイッチであり、食事の終わりに打つ句点であり、良い時間を締めくくる余韻でもあった。

そのささやかな何かが、一日のあちこちに置かれていた。

たばこは、人生を大きく豊かにしていたわけではない。
ただ、ほんの少しだけ豊かにしていた。

そして私にとって、その「ほんの少し」は思っていた以上に大きかった

私は、このたびの禁煙を通して、たばこの害ではなく、たばこの大切さを身をもって知ってしまったのだ。


健康という名の不寛容

たばこの大切さを知ってしまった私だが、世間の風当たりは年々強くなっている。

喫煙者は肩身が狭い。

吸える場所は減り、値段は上がり続け、パッケージには「あなたにとって害となる」と大書されている。

分煙は進み、たばこは公共の場からほとんど姿を消した。

それ自体を悪いとは思わない。
吸わない人にとって、煙や匂いが不快なのは当然だ。

ただ、ときどきその圧力が個人の生き方にまで踏み込んでくることがある。


叔父から聞いた話がある。

叔父が通院していたときのことだ。

診察中、担当の医師に、何気なく喫煙所の場所を尋ねた。

すると医師は、こう言ったという。

「それなら、もうあなたの治療はしません」

ここで聞く方も聞く方だが、叔父はただ、喫煙所の場所を知りたかっただけだ。
しかし医師は、その一言を「治療方針に従わない患者」の意思表示として受け取ったのかもしれない。

これは、あくまで叔父から聞いた話だ。
その場に、私はいない。

医師にどんな事情や意図があったのかは分からないし、叔父の受け取り方が正確だったとも限らない。


でもこの話を聞いたとき、私はある問いが頭から離れない。

健康とは、そこまでして守らなければならない絶対の善なのだろうか

本人が選んだ生き方よりも長く生きることのほうが、常に優先されるべきなのだろうか

同じ問いを、一冊かけて論じている本がある。

精神科医の熊代亨による『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』だ。

この本は、清潔で、健康で、秩序ある社会が実現した結果、私たちがかえってその「健康」や「清潔」に囚われ、不寛容になっていったのではないか、と問いかける。

かつての日本は、たばこにずっと寛容だった。
それが今では、喫煙者に厳しい視線が向けられる社会になった。
健康はいつのまにか、個人が従うべき「正しさ」になっている。

面白いのは、この問いを立てているのが医師だということだ。

叔父を追い詰めたのも医師なら、その空気に疑問を投げかけるのも、また医師である。

だから私は、これを単なる「医者への恨み言」にはしたくない。
これは、健康という正しさが、いつのまにか個人を追い詰める刃にもなりうるという話だ。

もちろん、健康は大切だ。
それを否定するつもりはない。

ただ、私は思う。

どう生きるかを決めるのは、最後は本人であるべきだ

寿命を縮めてでも、好きなものを味わって生きる。
そういう選択も、あっていいはずだ。

私は、たばこを吸う。

それは誰かに強いられて手放すものではなく、私が選んで手にしているものだ。



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