#1『薄明』第一章バレンタインの夜①
薄明あらすじ
名門西園寺家に引き取られた孤児・櫂は、令嬢茉莉の執事として彼女を支えながら、密かに想いを募らせていた。やがて茉莉は誠実な御曹司九条稜真と恋に落ち婚約。しかしある事件から3人の運命は思わぬ方向に進んでいく。
葛藤と再生の中で、茉莉は自らの使命を見出し、未来を切り拓いていく――それは、闇と光が交わる“薄明”の物語──
暗い。
まだ午前のはずだが、降りやまない雨が闇を引き留めている
視界を塞ぐ霧雨の向こうに、幽霊のように浮かび上がる白い花があった。
葉を落とした黒い枝先に、祈るように閉じられたままの、重たげな木蓮。
冷たい雨を吸って、その花びらは今にも崩れそうに白く、痛々しい。
――ああ
両親を事故で亡くしたばかりの僕は
虚ろな瞳でそれを見た
この花は、自分だ。
根を張る場所を失い、冷たい雨の中で朽ちていくだけの存在
ここで無価値と判断されれば、自分にはもう行く場所がない。
――泣くことも、甘えることも忘れて、ただ役に立つ駒になろう
ぼんやりとそう決意する。
「これからここが君の家だ」
喪服代わりの黒い学生服を着た少年に紳士が声を掛ける
「茉莉、ご挨拶をしなさい。今日から一緒に暮らす黒崎櫂くんだよ。お前のお勉強をみてくれる。」
柱の向こうで幼い少女がこっそりとこちらをうかがっていた
モノクロームの世界に突如現れた色彩そのもののようなワンピースを着た無垢な眼差しが、興味深そうに僕を見つめている
「茉莉にお兄ちゃまが出来るの?」
あどけない表情でそう言った少女は柱の陰から走ってきて僕の氷のような手を握って笑った
「あそぼう!」
輪郭がぼやけた記憶の中で、雨音だけが妙にリアルに響いている
木蓮が崩れるように散る雨の日は、
決まって、私の指先が微かに震えるのだ──
✣
「──お嬢様失礼します。いつまで寝ていらっしゃるんですか」
櫂はノックをして茉莉の部屋へ入ると、白いリネンのカーテンをシャッと開けた
窓の外は弱い雨が降っていたが、それでも雲は午前の明るさをたたえて白く光っている
「ん…」
茉莉はその弱い光を感じながら枕に顔を押し付けてまだ眠そうな声をあげた
サイドテーブルには読みかけの本と、フランス語の辞書
櫂はその本を手に取ってパラパラとめくった
「…ラクロワの続編新作ですか。原書を取り寄せたんですね。
英語、ドイツ語、韓国語に続いて次はフランス語ですか…。
相変わらず勉強熱心なことで」
茉莉は大きくあくびをしながら、長く艷やかな黒髪をかきあげると上半身を起こして伸びをした
「だって続きが気になるんだもの。翻訳本を待っていたら半年後よ?
待ちきれないわ」
彼女の瞳は、知的好奇心と無邪気な愛嬌が同時に宿り、その奥で微かな遊び心がきらきらときらめいている。
「もう、面白くて面白くて。止まらなくなっちゃったのよ」
ふふっと微笑むと瞳は宝石のように光を反射し、周囲を魅了せずにはいられない不思議な魔力を帯びている
櫂は ふぅ、とため息をひとつつくと、その本をサイドテーブルにそっと戻した
「…それは結構ですが、夜更かしはほどほどに。
今日は午後から九条様とコンサートの後、ホテルで食事の予定でしょう」
私の言葉を聞くやいなや、「そうだった!」と茉莉は跳ね起きた
「コンサートは16時からよね。まだ時間はあるわ。
櫂、お菓子作るの手伝ってちょうだい。材料はもう買ってあるの。
だって今日はバレンタインだもの」
櫂は眉をひそめて「バレンタインのお菓子…ですか」と抑えた声でつぶやいた
西園寺家の一人娘である茉莉は、「どこに出しても恥ずかしくないように」と多くの芸事を身につけさせられていた。
そのどれもを師範レベルで修得しているにも関わらず、お菓子作りだけはあまり得意ではない。
感覚で作ってしまうため、時間や温度などが途中からどうでもよくなって来るらしい
その点、几帳面な櫂はそのあたりがキッチリしているため、レシピ通りに作ればまず失敗することはなかった
「ちょっと、そんなにイヤそうにすることないじゃない。
だって櫂の方が上手なんだもの」
茉莉は可愛らしい唇をむうっと尖らせて抗議する
「イヤそうになどと……。
それで何を作られるんですか」
櫂は仕方なく観念したように聞く。
他の男に食べさせるチョコレートをなぜ自分が手伝わなければならないのだ。
「そうね、櫂は何がいいと思う?」
「…私の意見が要りますか?」
「だって男の人の意見も聞きたいじゃない?」
さっき見た冷蔵庫の中には確かに生クリームや板チョコレート、卵などひと通りの材料が揃っていた
「そうですね…」
ボンボンショコラやブラウニーであれば外出先でもつまめるかもしれない。
しかし心の奥に渦巻くどす黒い邪心が意地の悪い提案をしてしまう
「……フォンダンショコラなどいかがですか。
中からトロリととろけるチョコレートは、甘党の方なら嬉しいかと。」
それらしい理由を口にしたが、本当は焼きたてを一番美味しく食べられるそれを、相手が家に戻ってから1人、冷めたものを食えばいい、と考えていた。
我ながら浅ましい。
「フォンダンショコラ!いいわねそれにしよう」
そんな櫂の思惑には微塵も気づかず茉莉はいそいそとキッチンへ向かった
✣
湯煎の熱気で、マンションのキッチンが少し曇っている。
エプロンの紐を結び、茉莉は目の前のチョコレートの塊と格闘していた。
日常を纏ってなお、彼女の背筋は凛として、溢れ出す気品が光のように宿っている。
西園寺の家が長い年月をかけて磨き上げてきた、天性の高貴さ。
それは彼女の紡ぐ指先ひとつの動き、睫毛の瞬きにまで宿り、周囲の空気を清廉なものへと書き換えてしまう。
汚れぬよう捲り上げられた袖口から覗く手首は、一点の曇りもない白磁の肌。
血色の透ける薄い皮膚は、温かな熱を帯びていて、見る者を狂わせる。
「お嬢様。……温度が上がりすぎています。一度火を止めましょう」
櫂は後ろからコンロのスイッチを切った。
「うーん、やっぱりうまくいかないわ」
高温にさらされたチョコレートは見事に分離していた
「拝見しているだけでは、心臓が持ちませんね」
櫂は茉莉からスパチュラをそっと取り上げると新しいボウルに刻んだチョコレートを入れた
適温で湯煎したチョコレートは少しずつとろりとろりと溶けていく
「さすが櫂。上手だわ、魔法みたい」
くりくりした瞳をさらに大きくして茉莉は感心している
…お嬢様が大雑把すぎるんですよ、とは言えない。
何でも完璧にこなすかと思えばこういう抜けたところもある。
それがまた茉莉の人間らしい、たまらない魅力のひとつになっていた
「それではあとは焼くだけです。この失敗したのも入れてみますか?」
「……なんだか岩みたいね…」
茉莉が作ったそれは確かにどろどろしすぎていて重たい
「…九条様なら、あなたの真心がこもっていればどんなものでも喜ばれるでしょう」
口に出すのも反吐が出そうになる台詞を、櫂は無表情で言ってのける
もう慣れてしまった。
心が潰れることに。
甘い香りを漂わせ、フォンダンショコラが焼き上がる
粗熱が取れると、茉莉は櫂が作った形の良いものも、自分の作った不格好なものも全て箱に詰め、綺麗にラッピングしていった
「これで良し!いけない、そろそろ準備しなくちゃ」
茉莉はバタバタとドレッサーへ向かった
(…慌ただしいことだ)
櫂はそれを横目で見届けると静かにキッチンの後片付けを始めた
…茉莉が、失敗したフォンダンショコラまで全て箱詰めしたのには少し驚いていた
(それだけ、すべてを見せられる相手ということか)
鉛が喉に詰まっているような、重苦しい気持ちになる
今度の男、九条稜真はこれまで茉莉に近づいてきた連中とは違っていた
春の陽だまりをそのまま形にしたような、柔らかな雰囲気。
端正な顔立ちには一寸の乱れもない清潔感と、名門九条家の血筋が育んだ揺るぎない品格が宿っていた。
何より茉莉のことを家柄や上部だけでなく、一人の女性として対等に見ている
(…非の打ち所がない)
厳格な茉莉の父親も、彼なら結婚相手として反対しないだろう
櫂はぞくりと背筋に冷たいものが走るのを感じる
茉莉をこの手の中から放つ時が近づいているのだ
「ねぇ櫂、このワンピースどう?少し地味?」
パウダーグレーのシンプルなドレスに身を包んだ茉莉は櫂の前でくるりと回ってみせた。
余計な装飾が無い分、茉莉自身の清楚な美しさが際立っている
「いいえ、とても素敵ですよ。
…あのペンダントをお付けになりますか?」
茉莉はその言葉を聞いて目を細めた
「ええ。…私もそう思っていたの」
かしこまりました、と静かに呟いて櫂はアンティークの重厚なチェストの鍵を開け、ひとつのペンダントを取り出す
大きなホワイトオパールの周りにメレダイヤがぐるっと囲んだデザインの美しいペンダントは、彼女の母の形見である
亡くなった時に全ての宝飾類を引き継いだが、これだけは幼い茉莉があまりにも気に入って欲しい欲しいとねだるので『じゃあこれは茉莉ちゃんにあげる』と生前手渡されていた特別なものだ
✣
彼女の母親は病弱で、私が西園寺家に引き取られて1年も経たないうちに亡くなった
母親が過ごす寝室に、幼い茉莉はよく行きたがった。
少年だった自分は「奥様の体に障るといけないから」と困ったように注意したが
「いいのよ、櫂もおいで」と私までベッドサイドに座らせて茉莉に絵本を読んでやり、時には私の頭を撫で、手をさすってくれたりもした。
自分が両親を亡くしたばかりだったから気を遣ってくれていたのだろう。
優しい人だった。
葬儀の夜、私の膝の上で泣きつかれて眠る茉莉の頭を撫でながら私は誓った
同じ痛みを共有するこのひとのことを、絶対に一生守っていこうと
自分の周りにこびりついて離れない死の影を振り払い、この無垢で美しい魂を、何からも守ってみせる
もう枯れたと思っていた涙が、ひとすじ、またひとすじと溢れ出し、
誰にも気づかれないように嗚咽した
✣
茉莉が鏡の前で長い黒髪をかき上げると、露わになったうなじが月光のように白く、目に刺さる。
櫂は、その一点の曇りもない肌を汚さぬよう、指先に細心の注意を払ってチェーンを回した。
触れたい、と指が微かに震える。けれど、『私』がそれを許さない。
自分の汚れた指で彼女の完璧な白さを損なうことを、櫂自身が誰よりも恐れている
「…綺麗です。お嬢様」
目を伏せてそれだけ言うと、櫂は下がった。
「もうすぐ時間ですね。準備が整いましたら車を出しますので」
「ありがとう、お願いね。あとはバッグと…」
茉莉はあれこれ小物を取り出し小さなバッグに入れ、最後に高級そうな紙袋を腕にかけた。
「行きましょう」
玄関に向かおうとする茉莉を引き留める
「お嬢様、さっき作ったチョコレートをお忘れですよ」
やっぱり茉莉は少し間が抜けている
「あ」
茉莉は振り向くとフォンダンショコラが入った箱を手に取り、いたずらっぽく笑った
「ふふ。これ、大事なもの。忘れてなんかいないわよ。」
そう言って「はい」と櫂に向かってそれを差し出したのだ
「……え?」
「これ、櫂にあげるために作ったの。いつもお世話になってるから。
稜真さんにはこっち」
茉莉は先ほど腕に掛けたフランスの老舗ショコラブランドの紙袋に目配せる
「これ限定品で手に入れるの大変だったのよ」
ふふふと笑って肩をすくめる
「だって櫂なら失敗しても許してくれるでしょ?明日一緒に食べようね。
私が作ったほう、どんな味かな〜」
愉快そうに言うと、茉莉は玄関へ向かい、シュークローゼットから白いパンプスを取り出した
櫂は鳩が豆鉄砲をくらったような顔でその場に立ち尽くし、胸を掻き毟るような愛おしさがこみ上げてくるのを抑えるのに必死にならざるを得なかった。
まるで世界で一番甘くて苦い毒を不意打ちで飲み込まされた気分だ
「……。ありがとうございます。まったく…貴女という人は…」
『明日、一緒に』
その約束が、これから彼女を別の男に送り出す自分への、何より残酷な報酬となった。
✣
櫂の運転する車でコンサート会場のホールまで茉莉を送る
ゲートの前には稜真が立って待っていた。
仕立てのよいスーツと高級そうな時計が嫌味なく似合っている。
「それでは九条様、よろしくお願いいたします。
後ほどお嬢様をお迎えにあがりますので。」
櫂は無表情で茉莉を送り出した
稜真はこちらを見ると、茉莉に何かひと言言ってから私の方へ近づいて来た
「黒崎さん、いつもありがとうございます。
コンサート会場から食事の予約をしているホテルまではタクシーを使います。それから…」
稜真は一瞬言い淀んだあとに真っ直ぐこちらを見据えて続けた
「…今夜は少し遅くなります」
刹那、全身が硬化する
顔が引きつりそうになるのをかろうじてこらえた
「……承知いたしました。
ただ、お嬢様は昨夜あまり寝ておられず疲れています。
それから、明日の予定もありますので、なるべく、遅くなりすぎないように…」
「わかりました。」
稜真は踵を返して茉莉の元へ戻り、彼女の腰辺りに手を添えてエスコートすると、振り返ることもなくホールの中へ消えていった
『遅くなる』
その短い言葉が、茉莉の白い肌に稜真の指が触れる時間を意味しているのだと、想像しただけでどろりとした殺意がせり上がってくる
耳鳴りがする。
ハンドルを握る指先は白く強張り、爪が手のひらに食い込んでいた。
※続きはこちら
