#2『薄明』第一章バレンタインの夜②
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白いテーブルクロスに乗せられた一幅の絵画のような前菜。
透明なコンソメのジュレに閉じ込められた、オマール海老とキャビア。金箔が散らされたその一皿は、食べるのが惜しいほど美しい。
「君のところの執事は相変わらずだね。まるで感情のないロボットみたいだ」
稜真はフォークとナイフでそのジュレを切り分けると、それをスマートに口に運んだ
「そうですか?まぁ確かに感情の起伏はあまり無い方かな」
茉莉もその繊細なひとかけらを口にする
ホテル最上階、地上二百メートルの窓の外には宝石を散りばめたような夜景が滲んでいる。
「そうだよ。特に僕に対しては、
…何ていうか時々、目の奥に青い炎のような敵意を感じる。
お嬢様を傷つけたら承知しないぞ、みたいなね。」
稜真は肩をすくめて、少しおどけた口調でそう言った。
茉莉はそれを聞いてクスクスと笑う。
「ちゃんと人間らしい部分、感じていらっしゃるじゃないですか。
そう、櫂はああ見えて感情豊かなんです。わかりにくいけれど。
長年一緒にいるせいか、私にはよくわかってしまうの」
例えば今日、玄関先でフォンダンショコラの箱を渡した時。
櫂はポーカーフェイスを貫こうとしていたけれどあれは相当、喜んでいたと思う。
「だから私は櫂を喜ばせることが半分趣味みたいになってしまっているんです。あの無表情を崩してみせたくて。
ん、美味しい」
茉莉はオマール海老を口にして得意げにそう言った
「ふぅん……そう。君だけが知っている彼の顔、というわけだ」
稜真は重厚な赤ワインを一口啜り、わずかに目を逸らせ、話題を変える
「そういえば彼、昨日茉莉さんがあまり寝ていないと言ってたけど。」
(……っ!櫂ったら余計なことを…)
茉莉は斜め上に視線をずらして言い訳をした
「………。ごめんなさい。デートの前夜に夜更かしなんて…恋人失格ね。
実はジュリアン・ド・ラクロワの新作本を読んでいて…面白くて止まらなくなってしまって。」
「ラクロワ?あの大ヒット中のミステリー小説かな。もう続編が出たんだ?」
「ええ、翻訳本が出るまで待てなくて、原書を取り寄せて…」
稜真は驚いて、メインの和牛フィレを切る手を止めた
「原書って…フランス語?
相変わらずすごいな、茉莉さんは。僕も学生時代に第二外国語でフランス語を選択したけど、あんなに厚い本を読むとなると。」
茉莉はそう言われて少し照れてしまう
「そんなことは…。でも語学って面白くて。音や文字の羅列に過ぎなかった言葉が、意味を持つようになる過程がすごく楽しいんです」
稜真は茉莉の言葉を聞いてカトラリーを置くと、その手を彼女の手の上に重ねた
視線が絡む。
「茉莉さん。…貴女は明るく聡明で、本当に優秀な人だと思う。
君をあの家に大事に閉じ込めておきたくなる気持ちも分からなくはないが、君のお父様もあの執事も少し過保護すぎる気がするよ。
僕ならもっと、君の可能性の翼を大きく羽ばたかせてあげられるのに。」
どきっとした。
「……そんなふうに、思ったことはなかったです。」
少しだけ、薄く笑う
茉莉は父と亡き母、そして櫂からの大きな愛情に守られながら惜しみなく手をかけられて育った。
礼節も教養も芸事も、すべては自分の未来を豊かにするためのものだと信じて疑わなかった。
その未来が、「誰かの完璧なお嫁さん」であるためであったとしても。
そして茉莉もまた、それを誇りとして身に纏ってきたのだ。
自由を奪われているとは、一度も思ったことがない。
翼を折られているなどと、考えたこともなかった。
ただ
今一瞬戸惑ったのは
“可能性”という言葉を、初めて自分に向けられたからだった。
茉莉が少し言葉に詰まっていると、稜真はそれ以上の深掘りはしなかった。
「そういえば明日、予定があるって聞いたけど?」
それもまた櫂に聞いたのだろうか。
あぁ、何てことだ
黙っておきたかったのに
「あ…、ええ…。
実は…父が入院していて、午前中病状を聞きに病院に行くんです。」
「…!ええっ?!入院?
大変じゃないか…、大丈夫なの?」
稜真が驚いて心配そうに聞く
茉莉は慌てて答えた
「あっ大丈夫です!
命に関わる深刻な病気とかじゃなくて…帯状疱疹なんです。
ただもう高齢なので、大事を取って治療をしてもらっていて。」
茉莉はつとめて明るく言った
「…最初は、頭を鉄串で突き刺されるような痛みだと言うので、脳に何か起きたのかと思って、生きた心地がしませんでしたけど」
少し視線を落として、赤ワインの入ったグラスを揺らす
「でも、原因がわかって、今は専門の先生に診ていただいていますから。
……せっかくのディナーなのに、こんなお話をしてごめんなさい。
もう大丈夫なんです」
「何言ってるんだ」
稜真が少し語気を強めたので茉莉はハッとして稜真の目を見る
「茉莉さん。……こんな話をしてごめんなんて、思わないでほしい。
怖かっただろう。
そんなに心細い思いをしていた時に、なぜ僕のことを頼ってくれなかったんだ。
お父さんのことも、君の不安も、これからは全部半分にさせてほしい。
……もう、どんなことも一人で抱え込まないでくれ」
稜真は茉莉の左手を両手でつつみ込んで続けた
「ねぇ、茉莉さん。
『大丈夫』なんて強がったりしなくていい。
僕の前では弱くても、みっともなくてもいいんだ。
君を支えたいし、どんな君も愛したい。」
「稜真さん…」
“どんな君も”
その言葉に思わず、
泣きそうになってしまった
今まで、自分に勝手な理想を押しつけて去っていった人は何人もいたが、こんなふうに言ってくれる人は誰もいなかった
弱い私も、みっともない私も、全部愛してくれる──
ああ、私はやっと見つけたのだ
─『櫂以外』の居場所を。─
茉莉が嬉しくてこくりと頷くと、稜真は微笑んで私の頭をぽんぽんと優しくたたいた
「さぁ、顔を上げて。ほら、デザートが来たよ」
給仕が運んできたのは漆黒の球体のチョコレートだった。
「バレンタイン特別メニューでございます」
給仕がにこやかに告げる
「僕にやらせて」
稜真は給仕から小さな銀のソースポットを受け取ると、いたずらっぽい瞳で茉莉を見つめた。
「……いくよ」
彼の低い声とともに、真っ赤なフランボワーズのソースが、冷たく閉ざされたドームに落ちる。
熱い液体が触れた瞬間、完璧だった球体がゆっくりと溶け崩れていった。
中から現れたのは、真っ白なフロマージュのムースと鮮血のようなベリー。
かたく守られた殻を、熱によって溶かされ、中にある柔らかな本性を晒される――。
(……あ)
茉莉はなぜか、自分の肌が直接熱いソースに触れられたような、妙な気恥ずかしさに襲われて、思わず視線を泳がせた。
「美しいね…
食べよう」
稜真はそんな茉莉に気づいているのかいないのか、それを取り分けて彼女のお皿へ移した
「……このあとのことだけど」
少し間を空けて稜真は続けた
「下に部屋を取ってあるんだ。
黒崎さんには今夜は遅くなると断りを入れてある。」
稜真の静かな、有無を言わせない響きを含んだ声。
その言葉が持つ意味を理解出来ないほど子供ではない
「……。はい。」
茉莉は頬を染めて、目を伏せた
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