#6薄明スピンオフ『九条稜真の恋』
こちらの物語は、先日完結した長編恋愛小説『薄明』の番外編(スピンオフ)ですが本編をお読みになっていない方でも単体でお楽しみいただける内容になっていますので、本編未読の方もぜひ気軽にお読みください。
前回のお話はこちら
薄明スピンオフ
九条稜真の恋 第6話
稜真が案内したイタリアンの木製の扉を開けると、外の冷たい夜気が嘘のように、温かみのあるオレンジ色の光が二人を迎えた。
街の喧騒から少し外れた路地裏にある、隠れ家のようなアットホームな雰囲気のビストロ。
過度な装飾はなく、磨かれたワイングラスが温和な光を反射してきらめいている。
オープンキッチンの奥からは、にんにくとオリーブオイルがじっくりと爆ぜる芳醇な香りが漂っていて、それが緊張している稜真を少しだけほっとさせた。
奥の落ち着いたテーブル席へと案内され、二人は向かい合って腰を下ろす。
手渡された温かいおしぼりで指先を拭いながら、先に口を開いたのはエリカだった。
「なんだか今日は本当に、びっくりすること続きの夜ですわ。
九条様にこうして偶然出会えたこともですし、私のことを知っている方に、あんな風にサインを求められるなんて……」
ふふ、と微笑む彼女は、カシミヤのコートを脱ぎ、上質なグレージュのリブニットに身を包んでいた。
胸元にはヴァンクリーフ&アーペルのアルハンブラのオニキスが控えめに華を添えている。
稜真はハッとして一瞬左手の薬指を確認したが、そこに指輪は無く、思わず密かに胸をなで下ろした。
彼女の服装は、露出が一切ない品のある大人のファッションだった。
しかし伸縮性のあるリブニットは、彼女のしなやかで女性らしいボディラインを静かに強調していた。
細いウエストから、なだらかな曲線を描いて膨らむ、形の良いバスト。
(……っ、)
かつて、その美しい果実をこの手で包み込み、その極上の柔らかさに溺れた記憶が、稜真の脳裏に鮮やかに蘇る。
彼女のプロポーションは隠されていて尚、夜の薄暗いベッドの上で触れたとき以上に完璧で、艶やかに感じられた。
稜真はどこを見ていいかわからず、慌てて視線を上に逃がす
「……明るくて、とても魅力的な女性でしたね。九条様の会社の方とおっしゃっていましたけれど、いい社員をお持ちなんですね。羨ましい。」
エリカが滑らかに紡ぐ言葉を、稜真はまだ完全に整理しきれていない頭で受け止めていた。
頭上にはまだたくさんの疑問符が消えないままだ。
「あ……ああ、うん。
加納……彼女がとても有能なトラベルコーディネーターとして活躍していたときに、その交渉術やコミニュケーション能力に惚れて、僕が引き抜いたんだ。
……いや、そんなことより……」
稜真は視線をわずかに彷徨わせたあと、意を決して正面の彼女を見つめた。
「その……、さっき加納が言っていた、『社長』というのは……」
戸惑いながら、しかしこれ以上誤魔化したままでいたくないという遠慮がちな問いかけに、エリカはほんの一瞬だけ、背筋を硬くした。
悪戯が見つかった子供のような、あるいは覚悟を決めた大人のような……
少しだけかしこまった空気を纏い、彼女はバッグの中から、エルメスの上質な革の名刺入れを取り出し、稜真の前へとスッと差し出した。
「……富裕層向けの、ライフスタイル型コンシェルジュ会社を経営しております。
『リュクスゲート』の藤江理華、と申します…」
稜真は、差し出された真っ白な紙片を受け取った。
藤江理華
Fujie Rika
Luxe Gate 代表取締役
端正なフォントで印字されたその文字を見つめながら、稜真の頭の中でようやく「エリカ」と「藤江理華」という二つの存在が結びついていく。
「あの……」
理華は少し気まずそうに、しかし毅然とした口調で付け加えた。
「……こちらの会社では、性的なサービスは、一切行なっておりませんので…」
「……あ」
その業務内容の補足に、稜真は思わず喉を詰まらせた。
もちろんそんなつもりはないのだが、かつて自分が金を払って、彼女のその『サービス』を買い、心も身体も深く癒やされた張本人である。
突然その過去を突きつけられたようで少し気まずい。
「そ、そうなんだ……。ええと……」
思考回路が完全に泥沼にハマり、気の利いた言葉が何も出てこない。
焦った稜真は、記憶の引き出しからとにかく無難そうな話題を引っ張り出そうとして、そのまま口にしてしまった。
「あの……そういえば、お母さんは元気?」
「え?」
理華が、キョトンとした顔で瞬きを繰り返した。
「あ、いや。前に君が……エリカさんが、あの仕事を辞めるとき、病気のお母さんの治療費と、当面の生活費が貯まったから、と言っていたから……」
僕が勝手に心配していただけなんだけど、と消え入るような声で結んだ稜真の前で、理華は数秒ほど固まっていたが──。
「……っ、、ふふっ、あはははは!」
次の瞬間、彼女はこらえきれずに、声を上げて笑い出した。
ビストロの静かな空間に、手で口元を押さえながらコロコロと澄んだ笑い声が響く。
「……え?」
呆気にとられて座る稜真の前で、理華は目元に浮かんだ涙を指先で拭いながら、おかしそうに笑いを噛み殺している。
「ごめんなさい、九条様……!
あぁ、そうでしたね。やだ、あれウソですよ」
「えっ?! ……嘘?!」
「はい。母はずっと、とても元気です」
あっけらかんと言い放った理華に、稜真の顔が中心から耳の付け根にかけて、見る見るうちに真っ赤に染まっていく。
「う、嘘って……」
「……ごめんなさい。でもあんな古典的な嘘を額面通りに信じてくださるの、後にも先にも九条様だけでした。
大抵のお客様はね、分かっていてわざと騙されて下さったんですけれど……」
………なんてことだ。
笑われた恥ずかしさと、自分の世間知らずさに、稜真は穴があったら入りたい気持ちで目を閉じて天を仰いだ。
稜真の真っ赤になった耳元が、照明の光に透けている。
そんな彼の様子を愛おしそうに見つめながら、理華はふと声を柔らかくして、テーブルの上に少しだけ身を乗せた。
「本当にすみません……でも、私、嬉しかったんですよ。
九条様が、あんなに真っ直ぐに私のことを心配して、心を痛めてくださっていたの、ちゃんと伝わっていましたから…」
不意に、からかうような口調から、あの夜に自分を優しく包み込んでくれた『エリカ』の温度が混ざる。
稜真が驚いて顔を下ろすと、理華は再び悪戯っぽく微笑みながら、テーブルの上のメニューを手に取っていた。
「まぁ…まずは先に飲み物と、
──メニュー決めちゃっていいですか?
それから…」
稜真を見つめ、目を細めて続ける
「もう私は『エリカ』ではないですし……
あなたも私にとっては『お客様』ではありませんから
これからは、お互いに名前で呼び合いませんか? 稜真さん」
続く
次回は明日21時頃更新予定です
ちなみに理華が着けていたヴァンクリのアルハンブラはこちら

グレージュのニットに黒オニキスのアルハンブラ、素敵ですねぇ
高っか。
名刺入れはこれ!

こういうのいろいろ考えるの楽しい〜
明日もお楽しみに♣
