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#51『薄明』第9章:楽園⑧

前回のお話はこちら

​​五年前、インドネシア・ジャカルタ。

ねっとりと肌にまとわりつく熱帯の空気と、排気ガスの匂い。

征嗣から「修行」の名目で送り出されたこの地で、櫂はインフラ開発プロジェクトの戦略サポートとして最前線に立たされていた。

メンバーはベテラン数人の他、新進気鋭の若手が揃っている。

​「黒崎さんは、本当にサイボーグみたいですね」

通訳として隣に立つ加納麗奈が、冗談めかしてそう言ったことがある。

現地の業者や官僚を相手に、一切の妥協を許さず、完璧なロジックで論破していく櫂の姿は、周囲に畏怖の念さえ抱かせていた。

​「結果を出すのが俺の仕事です。感情は必要ありません」

​突き放すような櫂の言葉にも、麗奈は「怖!またそんなこと言って」と、ひまわりが咲いたような笑顔を返し、懐いた。

この過酷な現場で、彼女の底抜けの明るさと、時折見せるプロとしての鋭い視点に、櫂は密かに救われていた。

​プロジェクトは順調だった。

だが、最大の危機はある日突然訪れる。

現地の根深い宗教的な文化、その聖域に、工区の一部が触れてしまったのだ。

​「論理的に説明すれば、理解してもらえるはずだ。補償額を上乗せし、移転を――」

​「黒崎さん、それだけじゃ無理です。ここは論理じゃなくて、『ハート』で行きましょう!」

​行き詰まる櫂の前に、麗奈が言った。

彼女の提案は、現地の屋台のおばちゃんたちを巻き込み、伝統的な踊りや食事を振る舞う「祭り」を開催し、まずは彼らの懐に飛び込むという、回りくどくて非効率なものだった。

​「……馬鹿げている」

​最初は一蹴した櫂だったが、麗奈の真っ直ぐな想いに押し切られる形で、メンバー全員がその「祭り」の輪の中にいた。

慣れない現地の食事を囲み、言葉を超えて笑い合う。 

結果、頑なだった地元の有力者たちが「お前たちの情熱を信じよう」と、奇跡的に合意に応じたのだ。

​その夜。
成功の熱気に包まれた屋台の片隅で、櫂は素直に自分の非を認めた。

​「……加納さん。……すみません。俺が間違っていた。あなたはすごいです。」

​不意に見せた、その優しい横顔。

完璧な櫂に認められ、褒められた。
麗奈は、その瞬間、言葉に出来ない胸の高まりを感じた。

それは、尊敬が恋へと変わった、決定的な瞬間だった。

​だが、麗奈は知らない。
櫂がどれほどの苦悩の中に生きているのかを。

​日本を離れて一年。
離れていれば、少しは茉莉のことを忘れられるのではないか。そんな淡い期待は、海の外の夜空を見上げる度に砕かれた。

離れることで、かえって茉莉の存在の大きさが、鋭い痛みとなって際立っていく。

​ふとした瞬間に、彼女の笑顔を、声を、その優しさを思い出し、喉の奥が焼けるように乾く。

どんなに仕事で成功を収めても、心の奥は満たされない。

​彼女を想うほどに、自分は汚れていく。

彼女に触れられないほどに、自分は壊れていく──

​打ち上げ、最後の夜。

プロジェクトを共に乗り越えた仲間たちの歓声の中で、櫂は久しぶりに酒を飲んでいた。

年の近いメンバーが多く、いつの間にか下の名前で呼び合うような固い団結力が生まれていた

賑やかな笑い声。

仕事への自尊心に満たされる一方、酒が入ると茉莉への想いで櫂の心は潰れそうになる。

頭を冷やそうと、川沿いを歩いている、その時だった

​「珍しいですね、櫂さん、そんなに飲むなんて」

​振り向くと、そこにはいつも太陽のような明るさで自分を救ってくれた、麗奈がいた。

​「……麗奈さん。……お疲れ様でした。このプロジェクトの成功はあなたのおかげです」

​「何を言ってるんですか!私じゃなくて、櫂さんや…とにかく皆の努力の結果ですよ!」

2人は川べりに座ってこの1年のことをとりとめもなく話した。

「……ねえ、櫂さんなんでいつもそんなに寂しそうな顔してるんですか?大成功して帰れるんですよ?」

​酔いに任せてふと彼女がそう漏らし、自分の肩に手を置く。

その温もりに、凍りついていた何かが一気に溶け出しそうになる。

分かっている。この手は、自分が求めている人のものではない。

「…そんな顔、してましたか」

「うん、してる。時々。…すごく寂しそう。
わかるんです。
……だって、ずっと見てたから。」

麗奈はじっと櫂を見つめた。

「好きです」


突然のことで、最初は何のことか分からなかった

麗奈はもう一度しっかりと、櫂の目を見て告白した。

「櫂さん。…好きです。
この1年、あなたと過ごして、あなたのこと…すごく……とても…

すごく、すごく、すっっっごく

……、好きになりました。」

ひと息にそう言うと、麗奈は一度だけ目を伏せ、

──今度は静かに想いを伝える

「……このまま離れるなんて私、耐えられません。……私と…付き合ってくれませんか」

麗奈が真っ直ぐにそう言うので、櫂は目をそらせなくなってしまった。

「………。」

沈黙が続く。

麗奈は素敵な女性だった。

しかし、自分の心に茉莉がいる状態で誰かと付き合うことは、どうしても出来なかった

「……ありがとう。……でも、

…すみません…。」

麗奈はまだ自分を見ている。

「………。理由…。聞いてもいいですか」

くちびるを噛んで泣くのをこらえた、低く震える声。

この人に嘘をつくのは失礼な気がした。

「……好きな人が、いるんです」

​櫂の口からこぼれたその言葉は、湿った夜気に溶けていく。

ずっとずっと、誰にも知られないように悟られぬように、胸の奥の心室に鍵をかけて閉じ込めてきた想い。

それを今、目の前で真っ直ぐな瞳を向けてくる麗奈に、生まれて初めて差し出した。

​「……ずっと、報われない恋をしています。……その人のことを思わない日は、一日たりともありません。

──そんな私が、あなたのような素晴らしい女性を『代わり』にするような真似は、……できません」

​麗奈の瞳に、みるみるうちに涙が溜まっていく。

「…そんなに寂しい目をさせるのに?そんなに、……孤独な想いを…してるのに?」

驚くことに麗奈は信じ難い言葉で食い下がった

「私、2番でもいいです。」

櫂は驚いて彼女を見た。

「報われない…んでしょう?
…今は、その人の『代わり』でもいい。

私がその人のこと、忘れさせてあげたいです。私が、櫂さんを幸せにしたい。」

麗奈は櫂の腕をぎゅっと握り、涙をためた瞳で切実に訴える

「あなたの孤独を、私が……

癒してあげたいんです……」

彼女の献身的な言葉を聞いて、櫂は目を閉じる

「……ありがとう。でも……」

櫂は一度言葉を飲み込み、静かに首を振った。


「“2番でもいい”なんて、そんなことをあなたみたいな素晴らしい人が言ってはいけない」

夜風が二人の間をすり抜けた。

「あなたは、誰かにとってのたった一人で、大切にされて。
迷いなく選ばれるべき人だ。
……代わりでいいなんて、自分をそんなふうに扱っていい人じゃない」

麗奈の指先が、かすかに震える。

「俺は――その席を、あなたに渡すことが出来ない」

ほんのわずかに視線を落とし、それでも櫂は逃げずに続けた。

「心がそこにないまま、そばにいるなんて……あなたを傷つけるだけだ。

だから……だめだ。
俺じゃない。
あなたを一番に選ぶ人のところで、ちゃんと幸せになってほしい」

「櫂さん…、」

​「……ごめんなさい。……あなたを、これ以上傷つけたくない」

櫂が苦しそうにそう吐いて下を向いたので、

麗奈はそれ以上縋ることは出来なくなった。


​「……。……だったら」


ぽろぽろ、と、涙がこぼれる


「……最後に、ひとつだけ。……わがままを言ってもいいですか」


​麗奈は震える手で、櫂のシャツの袖を掴んだ。

仲間として隣にいた一年。一度も踏み越えなかった一線。


それを今、彼女は自ら壊そうとしていた。


​「……抱いてください。……一度だけでいい。思い出をください。

……これからの私の、人生のお守りにさせて。

……私を哀れだと思うなら、……最後の……お願いです」


ぼろぼろと涙を流しながら頼む彼女を前にして、櫂の理性が、初めてきしんだ。


本来、仕事関係の人間と一線を越えるなど、彼の中では万死に値する禁忌だ。

女性と肌を重ねることはあっても、そこだけは絶対に貫いてきた。

​けれど、……目の前のこの女性は、混沌とした日々の中で、自分の頑なな心を幾度となく救ってくれた人だった。

自分を、その明るさで人間へと繋ぎ止めてくれた、大切な「戦友」。

櫂は、すぐには答えなかった。

それがどんな意味を持つのか、分からないはずがなかった。


遠くで聞こえる仲間の歓声

夜の川のせせらぎ


すべてが真空の中に吸い込まれるような静寂に消えた

​櫂はゆっくりと手を伸ばし、泣いている麗奈の肩を抱き寄せた。

それは愛ではなく、限りなく慈愛に近い、救済だった。



続きは明日21時頃更新予定です


『2番』に甘んじている全ての女性に贈りたい櫂のセリフ。
みんなかけがえのない素晴らしい人。
誰かの一番で、幸せになってください。そのためには自分をだいじにするんだよ♡

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