#96『薄明』17章:開花①
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「西園寺交通遺児支援事業(S-CEF)」設立記念チャリティーパーティー。
理事会を経てその開催が正式に決定した。
その日から茉莉のスケジュール帳は分刻みの打ち合わせと膨大な確認事項で、文字通り真っ黒に塗り潰されていった。
パーティーの成功は、今後の寄付金や協賛企業の獲得を左右する重要な試金石となる。絶対に失敗は許されない。
しかし櫂に心の内を全て打ち明けたあの日以降、茉莉は驚くほどクリアに、そして気負いすぎず、晴れやかな気持ちで仕事に向き合うことが出来るようになっていた。
そしてここから茉莉は、これまで西園寺の令嬢として培ってきた経験と人脈という強大な武器を、遺憾無く発揮し開花し始める。
彼女が一本電話をかければ、手配困難と言われる幻のヴィンテージワインのボトルがチャリティーオークション用に用意され、
数年先まで予約が埋まっている人気の弦楽四重奏団も、「お嬢様の頼みとあらば」と、スケジュールの合間を縫って特別に出演を快諾してくれた。
さらに、社交界の重鎮たちの顔ぶれや力関係、複雑な派閥から個人の嗜好に至るまで完璧にその詳細を把握している彼女だからこそ組める、人間関係の機微を網羅した座席表。
誰が誰と犬猿の仲で、誰の隣に誰を配置すれば最も心地よくいられるか――。そんな生々しい駆け引きすら、彼女は見事に采配していく。
「メニューの変更を。…ええ、アレルギー対応はもちろんですが、今回のゲストにはベジタリアンの投資家が3名いらっしゃいます。
彼らの国の宗教的タブーにも配慮したコースを再構成してください」
電話で茉莉は迷いのない声で指示を出す。
それらは周囲のスタッフが舌を巻くほどの、圧倒的な手腕だった。
またパーティーの準備と並行して、S-CEFの第一期奨学生となる候補者たちの面談も行われていた。
事務局のスタッフたちは、限られた予算の中で確実に成果を出すため、どうしても提出された学業成績の順位を基準に選考を進めようとする。
それが最も合理的で、公平な判断だからだ。
しかし茉莉はその範囲を少し広げ、面談人数を増やしていた。
ある少女が面談室に入ってきた時である。
成績は多少見劣りしたが、学校からは申し分のない推薦文が添えられている。
書類の上では完璧なその少女に、茉莉は大人の顔色を過剰に窺うような、面談の緊張とはまた質の違う違和感を感じた。
形式的な質問が飛び交う中、茉莉はそっと身を乗り出し、真っ直ぐに少女を見つめ優しく問いかけた。
「――あなたが最近、心から笑ったのはいつですか?」
少女の顔が凍りついた。
唇を震わせ、何も答えられない彼女の様子に、面談室に微かな波が生じる。
「……あの子、少し気になります。追加の調査をお願い出来ますか」
言葉にならない悲鳴を察した茉莉は、面談の終了後、すぐにスタッフへその少女の追加の環境調査を依頼した。
──後日もたらされた報告は、胸を締め付けられるようなものだった。
夫を突然の事故で失った母親は、激しい喪失感と終わりのない生活不安から精神的に追い詰められ、そのストレスと恐れを、従順な娘にぶつけていた。
模試の成績が少しでも下がれば娘を罵倒し、叩き、狂ったように 泣く――。
そんな歪んだプレッシャーの中で、少女は母親をこれ以上悲しませまいと、必死に勉強を続け、推薦をもぎ取っていた。
……
深夜0時。
帰宅した櫂が、ふと書斎のドアを開けると、そこにはまだデスクランプの明かりが灯っている
「……茉莉。まだ起きているんですか」
ノックをして声をかけると、デスクいっぱいに広げられた書類の山から、茉莉がはっと顔を上げた。
目の下にうっすらとクマを作った彼女の前に積み上げられているのは、支援対象となる子供たちの家庭環境や学業成績が詳細に記された、膨大な個人情報の束。
櫂は小さく息を吐き、彼女の後ろに回って、凝り固まった華奢な肩にそっと手を置いた。
「データの精査やリスト化なら、AIや事務局のスタッフに任せればいいと言ったでしょう。あなたが夜を徹して、ここまで一人で抱え込む必要はないんですよ」
「わかってるわ。でも……」
茉莉は、手元にある調書の束に視線を落とした。
「どうしても、一人ひとりの人生を自分の目で確かめたいの。
……この事業は、ただお金を配るだけのものじゃない。私たちは、この子たちの人生の分岐点を預かることになるのよ。
…責任が重いわ」
茉莉は書類の束をそっと両手で包み込んだ。
「AIを通せば、ただの『条件に合致した数字』になってしまう。でも、数字の裏には、理不尽な環境の中でも歯を食いしばって頑張っている一人ひとりの事情があるの。
誰よりも私が、その背景を把握しておきたいのよ。
……私自身が、彼らの痛みに寄り添える人間でありたいから」
その真摯な横顔に、櫂は胸の奥が熱くなった。
自分が愛し、信じた女性は、なんと気高く美しいのだろう。
けれど、これ以上彼女の身を削らせるわけにはいかない。
放っておけば朝までやってしまう人なのだ。
櫂はデスクの上にあったペンをそっと取り上げると、茉莉の身体を椅子ごと自分の方へ回転させ、その手を両手で包み、まっすぐに見つめた。
「……あなたのその並外れた覚悟と優しさを、私は誰よりも尊敬しています。でも、あなたが倒れてしまっては、元も子もありませんよ」
何度言っても彼女が聞かないのは分かっている。
だから最後は、こうしていつも半ば強引に終わらせるのだ。
「今日はもう終わりにしましょう。
あなたの身体のことは、私が誰よりも把握しておきたいので」
有無を言わせぬ強さで抱き上げられ、茉莉は小さく抵抗しようとしたが、櫂の温もりに包まれた途端、張り詰めていた糸がふっと緩むのを感じた。
「……わかった」
苦笑しながらも、茉莉はおとなしく静かに目を閉じ、彼の胸に身を預けるのだった。
続きは明日21時頃更新予定です
一章から積み上げてきた茉莉の経験、深い慈しみの心、記憶力の良さなどが徐々に伏線回収として描かれる予定です
明日もお楽しみに
