#1薄明スピンオフ『九条稜真の恋』
こちらの物語は、先日完結した長編恋愛小説『薄明』の番外編(スピンオフ)ですが本編をお読みになっていない方でも単体でお楽しみいただける内容になっていますので、ぜひ気軽にお読みください。
(現在物語途中の方は読了してから読んでくださいね🤗)それではどうぞ
薄明スピンオフ『九条稜真の恋』第一話
今年も、夏は長かった。
稜真は街を歩きながらふと空を見上げる
10月の終わりを迎えても30度に迫る日が続き、まるでこのまま秋が永遠に訪れないのではないかと錯覚するほどの日々だったが、
11月の日が陰り始めたこの時間の空には細く頼りない雲がたなびいていて、もはや秋というより冬の気配を漂わせていた
年々秋が短くなっていくようだ
街路樹の葉が乾いた音を立てて歩道を転がっていく。
稜真があのチャリティーパーティーで、茉莉と互いの幸せを願い合って別れてから、すでに8カ月以上の月日が流れていた。
ようやく肌寒さが本格的になり始めたこの週末の夕暮れ
稜真は当てもなく街をぶらついていたが、ふと気まぐれに、通りかかった閉館間際の美術館へと足を踏み入れてみた。
まだ家には帰りたくなかった。
あの静まり返った部屋に帰れば、否応なしに一人であるという現実を突きつけられる。
仕事に追われているときには気にならない孤独が、時間という空白ができた途端、じわじわと心の奥底に沁み込んでくるのだ。
家に帰ってからの長い夜は、まるで吹き付ける木枯らしから身を守るように、一人静かにうずくまってやり過ごすしかない。
その冷たい孤独に抗わず、立ち向かわず、ただそれが嵐のように通り過ぎていくのを静かに待つ。
──それはこの独りの日々の中で稜真が身につけた、唯一の自衛の手段だった。
抵抗すればするほど、心の傷がさらに深く抉られるだけだと知っている。
だからこそ、ただ息を潜めて痛みに耐える。
その寒々しい時間を一分一秒でも短くしていたかった
静かに足を踏み入れた館内では、印象派コレクションの展示が行われていた。
幸い閉館間際ということもあり、予約無しで入ることが出来た。
モネ、ルノワール、ドガ…
静寂の中、巨匠たちの名画が並ぶエリアはまだ多くの人で賑わい、華やかな空気に満ちている。
稜真はそれらをただ美しいものとして眺め、淡々と通り過ぎていった。
美しいものはいい。心が安らぐから。
美術館特有の静謐な空間が、今の稜真にひっそりと寄り添うようで心地良い。
波立たず、穏やかで、その空間に溶けてしまいたい。
順路の終盤、少し人影がまばらになり、展示室の隅へと差し掛かったとき
——稜真はふと、引き留められるように、ある一枚の絵の前で足を止めた。
おまけのようにひっそりと飾られていた、小作のエリア。
然程有名ではない画家たちの、印象派に関連付けられた作品がいくつか展示されている。
──それは、暗い背景の中に白い花々が幻のように浮かび上がる美しい絵だった。
夜の庭なのか、それとも夢の中の景色なのか──
輪郭を曖昧に滲ませながら咲きこぼれる大輪の花々に囲まれ、一人の女性が静かに椅子へ腰掛けている。
彼女が纏うドレスもまた、白だった。
首元まで覆う高い襟と
薄い布を幾重にも重ねた長袖
たっぷりと生地を使った裾は、月光を集めたような淡い輝きを宿しながら足元へ流れ落ちている
花々の白と溶け合いながらも、その姿だけは不思議なほど鮮やかに浮かび上がっていた。
──風の噂で、茉莉と黒崎櫂が結婚したと聞いた。
さぞかし盛大な披露宴が行われたのだろうと思いきや、ごく近しい親族のみの小さな挙式だったという。
……彼女らしいな、と、稜真は思った。
絵の中の女はどこか遠くを見つめている。
微かに頬を染め、何かを待つように。
あるいは、もう戻らない何かを思い出しているように。
きっと彼女も、こんなドレスを着ていたのではないだろうか。
高い襟で首元を隠し、長袖で肌の色を極力見せない、静謐で気品あるドレス。
その下に隠された肌を愛するのは、夫になる男だけだ。
愛するそのたったひとりの隣で微笑みながら、純白の花に囲まれて。
祝福の声を浴び、自分の知らない未来へ歩いていったのだろう。
白い花々の奥で、手を伸ばしても届かない場所で──
絵の中の女は何も語らない。
胸をかきむしるような痛みは、さすがにもうなかった。
けれど時折、こうして幻想のように彼女の面影が浮かび上がる。
茉莉への想いを断ち切ったあの日から、稜真は何人かの女性と食事に行ったりもしてみたが、それ以上の関係に進展することはなかった。
心にぽっかりと穴が空いているようなのに、そこに何かを詰め込もうという気力があまり湧き起こらない。
彼がその気になればいくらでも女性が寄ってくるが、心を求められると、途端に稜真は尻込みしてしまうのだった。
気持ちに差があると、それを申し訳なく思ってしまう。
遊び慣れている人間なら女性に手を出してはとっかえひっかえするところだろうが、真面目な稜真には、自分に好意を寄せる女性に適当に合わせ、ライトに付き合うということが逆に面倒で難しかった。
──ふと、もう一人の女性の顔を思い出す。
エリカ。
自分の深い孤独を、そっと埋めてくれた夜の女性。
あれ以来同じように、気持ちを伴わない手軽さを求めて何度か夜の女性を買ってみたが、エリカほどの女に出会うことはなかった。
どうやら自分は、一番最初に最高の女性を引き当ててしまったらしい。
しかしそれは今の稜真にとっては不幸なことだった。
なぜなら、エリカはもうあの世界にはいないのだ。
今頃、どうしているだろうか……。
あの時『母の病気の治療費が貯まった』と、彼女は言っていた。
お母さんは元気になったのだろうか。
……今、幸せで、
いるのだろうか……
そんな感傷に浸っていたせいか
同じ、白いドレスの女の絵の前で、エリカによく似た女性を見かけた。
よく似た……?いや、違う。
「……、エリカ……さん?」
思わず零れ落ちたその声に、女性がビクリと肩を震わせて振り向く。
「…………。九条……さま」
静まり返った美術館の、絵の前に立つ男女ふたり。
それは間違いなく、幻などではない、エリカその人だった。
続きは明日21時頃更新予定です
薄明本編を1話から楽しみたい方はこちら
あらすじセットもあります
ちなみにエリカが出てくる章は18章「仮りそめの愛」です
お読みくださるともう少し深くスピンオフを楽しめるかも?!
明日もお楽しみに。
