#68『薄明』12章:惑い①
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稜真の興したレガリアの設立パーティーから数日。
櫂の日常は、以前にも増して苛烈を極めていた。
経営戦略室の室長として、西園寺グループの次期中期経営計画を策定する重責だけではない。
あの日感じた劣等感。
はやく、一刻も早く、茉莉の隣にいるに相応しい自分になりたい
経営者としてスポットライトを浴びていた稜真の姿がよぎる。
そこで目の当たりにした、稜真を囲むスタッフたちの熱への焦燥も。
それらは櫂を目の前の仕事に邁進させる原動力となっていた。
23時。静まり返った経営戦略室で、櫂は独り、青白いモニターの光に照らされていた。
かつての自分なら、数字とロジックだけで全てを推し進めていたはずだ。
だが、あの日会場で見た、堂々とした稜真と、彼を支える仲間たちの誇らしげな顔が、どうしても脳裏から離れない。
自分は正論と完璧を強いることで人を動かしてきた。征嗣から学んだ、氷のような厳しい統率。
だが、今のままでは、いつか稜真のような「心」を束ねる者に、根底から覆されるのではないか。
(……私は、何を恐れているんだろう…)
疲労した目頭を押さえてため息をついたその時だった。
ノックの音が響き、高木が資料を手に顔を出す。
「室長、まだこちらでしたか。
例のプロジェクトの修正案、叩き台を作成しました。まだ粗いですが……」
高木の顔にも疲労の色がある。
櫂の焦燥が伝播し、チーム全体が限界近くまで働いているのは分かっていた。
「……君こそまだいたのか。わかった、目を通しておく。
…よく頑張っているな。」
労りの言葉に、高木は驚いたように足を止めた。
「…どうした?」
「あっ…、いえ、室長から褒められるのが、何か嬉しくて」
その言葉に櫂はハッとした
こんなことさえ、自分は疎かにしていたのではないか
「………そうか。……いつも、感謝はしているんだが…。
ちゃんと伝えなくてはいけないよな。すまない、これからは気をつけようと思う」
その言葉に高木は櫂に向き直り腰を下ろした。
「室長、最近少し変わりましたね」
「……そうか?どんなふうに」
少し意外そうな顔の櫂に高木は少し考えて、言葉を選んで口にする
「はい…、何というか…人間味が出てきた…、というか…。
前は手段を選ばない厳しさみたいなのがあって、それもカッコよかったんですが、最近はもっと…
少しだけ柔らかくなって、歩み寄りが見えるような…、あ、
すみません自分なんかがこんな」
「………。
構わないよ、続けてくれ。」
櫂は椅子の背もたれから背を離して高木を見る目をやわらげた。
「前は、室長の決定に従うのが『義務』でした。
でも今は……皆、室長の描くビジョンの先を、一緒に見たいと思い始めています。」
一緒に、見たい。
その言葉が、櫂の胸に小さな波紋を広げた。
櫂は僅かな沈黙の後、受け取った資料に目を落とした。
「……高木。君が作成したこの修正前の案、あえてそのまま残した部分があるよな? 効率は悪いが、現場の士気を重視した箇所だ」
「あ、はい。やはり、切り捨てるべきでしょうか」
「いや。私もそう思っていたんだが……私は明後日から3日間ほど出張でそこを含めた視察に行く。
初日──その現場だけでも一緒に見にこないか。
資料の中身ではなく、その『士気』とやらが、西園寺の次の十年の利益を支えるに値するかどうか……共に確認しよう」
驚く高木を横目に、櫂は再びモニターに向き直る。
「君の意見を参考にしたい。
このセクションの最終判断を君に任せてみたいと思っている。責任は私が取る。」
指先が、吸い寄せられるように不採算部門の「再生プラン」のファイルをクリックしていた。
「っ…。はい、……承知しました! 」
驚き、そして使命感に瞳を輝かせる高木。
櫂は初めて、部下を駒ではなくパートナーとして信じ、背中を預ける一歩を踏み出した。
稜真のような人間力は、一朝一夕には手に入らない。
けれど、自分のやり方に「信頼」という変数を加えられるはずだ。
「今日はもう上がりなさい。急な出張だ。
明日中に、ある程度仕事を整えておくように。」
「っ……はい! お疲れ様です!」
高木が足早に去った後、櫂はふっと深く息を吐いた。
今なら、茉莉が起きている時間に帰れるかもしれない。
だが、空いた時間を埋めたのは、茉莉との会話への期待ではなく、次なる戦略の構築だった。
『もっと強く、もっと隙のない男にならなければ』
その執念が皮肉にも彼を仕事に縛り付け、茉莉との時間を遠ざけていく。
結局、タクシーの中で資料に目を通し、自宅の玄関を潜る頃には、また日付が変わっていた。
ザッとシャワーを浴びて寝室の扉を開けると、月明かりの中で安らかな寝息を立てる彼女の姿がある。
(……ただいま、茉莉)
声には出さず、そっとベッドの端に腰を下ろす。
仕事の成果を上げ、周囲を認めさせていく。
そのすべては、この静かな寝顔を守るため。
「櫂が私の誇り」だと言ってくれた、その言葉を現実に変えるためだ。
櫂は、彼女を起こさないよう細心の注意を払いながら、指先を彼女の頬に近づけた。
こわばった心が、彼女の存在を前にして、少しずつ解けていく。
その時、茉莉がふと身じろぎをして、薄目を開けた。
「………櫂?………今日も遅かったのね……」
「すみません、起こしてしまいましたか」
櫂はしまったと思うが、それよりも彼女と顔を合わせた嬉しさが勝った
「大丈夫よ。明日も早いの?」
「……はい…。ゆっくり眠っていていいですよ、朝食は移動の時に食べますから。
あなたは何も心配しないで、こうしてこの家で穏やかに過ごしてください。
そのために私は仕事を頑張れるんです。
それから……、明後日からまた地方の視察を兼ねて数日出張に出ます」
茉莉は少し寂しそうに、櫂にすり寄った
「……忙しいのね…。
でも……充実してるみたい…。なんだか生き生きしてるわ」
櫂は深く息を吐いた
「そうですね……そう見えますか?」
少しだけ口元をゆるませて言った
「だけど…少し疲れましたね…
あなたの香りをこうしてかいでいると、やっと自分の場所に帰れたと安心出来る………」
そう言うとベッドの中で櫂は茉莉を包み込む。
明日はまた帰りが遅い。そして翌朝も空港へ早く出なくてはならない。
「……眠っていていい、と言いましたが。……少し欲張りたくなりました。
……一晩中、とはいきませんが……数日分の私を、あなたの中に刻ませてくれませんか?」
櫂は茉莉の指先を絡め取り、懇願するように手の甲に口づける。
静寂に包まれた深夜の寝室。
出張前の憩いを求めるように、櫂は茉莉の唇へとゆっくりと顔を近づけていった。
「……いい…ですよね?……寂しいんです」
茉莉はその言葉に驚いた
あのパーティーの日、彼が自分の胸の中で崩れ落ちるように泣いてから、櫂は自らの弱さを時々茉莉に見せるようになった。
完璧で、いつもしっかりしていた櫂の、心の奥の寂しさや焦燥…
「うん、私もそう思ってた。」
茉莉は優しく微笑んで櫂を抱きしめる
唇から漏れる、小さな吐息。
深夜の静寂の中、シーツが擦れる音と重なり合う呼吸だけが、出張前の短い逢瀬を刻んでいった。
続きは明日21時頃更新予定です
櫂が頑張れば頑張るほど、茉莉との時間が削られてゆく…
すれ違い始めるふたり
