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#90『薄明』15章:荒野へ⑤

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ご新規の方、あらすじはこちらです↓




​「僕の見間違いだったらごめん。
──さっき、…泣いてた?」


​稜真の問いかけは、責めるような響きではなく、ただ静かに茉莉の心に寄り添うような温度を持っていた。

​茉莉は否定しようとして、言葉に詰まる。

「いえ、そんなことは……」

そう言いかけた唇が、微かに震えた


しまった。
その言葉が、泣きそうな声になっている。


「………。」


稜真が心配そうな顔で見つめていた。

「……少し…、痩せたんじゃない?」

​稜真の、以前と変わらない静かな声。

その優しさを孕んだ響きが、茉莉がずっと張り巡らせていた防御壁を、思いがけず突き崩してしまった


茉莉は稜真の方を見ずに手元のサンドイッチを無意味に見つめ、
そしてぽろりと呟いた

「実は、……今日、ミスしてしまって。」

驚くほど正直に言ってしまう

​「自分は未熟だから…せめて一生懸命でいよう、完璧でいなきゃって気を張っていたんですけど、……ダメで……

……「ほらね」って…「ほら、やっぱり、だめだった」って、
思われたような気がして。

その通りなので、いいんですけど…でも…」

茉莉は膝の上のこぶしをグッと握りしめた

「……時々、…怖くなります…

…みんな、笑ってるんじゃないかって…。私のこと。」

​抑えていた言葉が零れる。

父の前ではもちろん

櫂の前でも「頑張っている自分」でいたかった。


けれど、かつて自分を全肯定してくれていた稜真の前で、茉莉は言葉が止まらなくなってしまった

茉莉の瞳の端から、熱いものが一筋だけ、頬を伝う。

いけない。

泣いたりしたら稜真は困るに違いない。

意図せず流れたそのひとしずくに自分でも驚いて慌てて横を向き、溢れそうになる次の一滴を唇を噛み締め必死にこらえた。


しかし稜真は、茉莉が溢したその小さな一滴を見逃していなかった。

胸の奥が、締め付けられるように苦しくなる。

彼がかつて何よりも守りたい、そして誰よりも幸せにしたいと願った茉莉が、今、自分の隣で今にも壊れそうに泣いている…。



「……誰が、笑うものか」

稜真は持っていたクロワッサンを紙袋に戻し、茉莉の方へ体を向けた。

「僕の知っている西園寺茉莉は、優しくて、強くて、聡明で…素晴らしい人だ。
……今の君は、自分の意志で、自分以外の誰かのために戦っているんだろう? 
それを笑う人間がいるなら、そいつこそが、空っぽな人間だ」

稜真は、ポケットからアイロンの効いた清潔な白いハンカチを取り出した。

それで涙を直接拭うことはせず、ただ茉莉の膝元に、そっと差し出す。


「……わかるよ。僕も同じだったから。

金持ちのボンボンに何が出来る、ってさ。

何も見ないうちから決めつけられる。…でもね」

稜真は茉莉の目を見てあえて笑顔を見せた

「逆に、相手が侮っていることを逆手に取ってやればいいんだよ。
あれ?こいつ意外とやるじゃないか、って思わせる。

無駄に期待されて勝手に失望されるより、ずっと有利だ。君ならそれが出来るよ」

稜真の誠実で温厚な、包み込むような優しさ。

茉莉はその言葉に気持ちが軽くなるのを感じた。

「……そうね。
……本当に…そうかも…」

茉莉が少し笑ったような気がして、稜真はホッとする

「……泣いてもいいと思うよ。でも、恥じることはない。君は素敵だ」

稜真はそう言うと、空を見上げて何でもないようにさりげなく、聞いた。

「黒崎は、君のその気持ちを知ってるの?」

守ると言っておきながら、彼女をこんなところで1人泣かせている。

あいつは何をやっているんだ。


稜真は、手を伸ばして彼女の肩を抱きたい衝動を、鋼のような理性で抑え込む。


「……櫂は…。関係ありません。」

茉莉は視線を落としたまま絞り出すように言った

自分が強がっているのが明らかで情けなくなってくる


「…関係ない?…そうかな。」

稜真が茉莉に向き直った

「……弱音も吐けない──情けないところを見せたくない、と思う相手と一緒にいるのは、疲れるんじゃない?

…なんて、僕が言うことでも無いけど。」


稜真のその言葉に茉莉はハッとする。


…そうだった。

お互いの弱さを預けられなくて…

一緒に地獄へ落ちる、その覚悟がなくて遠ざけられて──それで私たちは別れたのだった。


「……、っあ……

…すみません!

なんか…弱音なんて吐いちゃって…、やだな…もう。

でも、励まされました。すごく。」


努めて明るい声を出して軽い感じになるように顔を上げた

両手で頰を軽くたたく


「いつもはこんなんじゃないんです!前向きにやってますから、心配しないでください、

でも……櫂には…泣いてしまったこと、内緒にしといてくださいね。
……心配かけたく、ないんです…」


「……、……」


稜真は茉莉に差し出したハンカチを見つめたまま、一瞬だけ言葉を失う。

茉莉のその明るい振る舞い。

強がって顔を上げ、涙を目にためているくせに無理に作った笑顔。

それが、今の茉莉の精一杯の武装なのだ。


「……内緒に、か」


稜真は少しだけ目を細める

「わかった。……約束するよ。

あいつには、君がここで涙を流したことも、僕に弱音を吐いたことも、何一つ言わない。

でも…今日のことを彼に内緒にしておく代わりに、僕からのわがままをひとつ聞いてほしい。

……本当に辛くなった時は、いつでもいい、僕に連絡して。

番号は変わってないし……もちろん仕事仲間として、ね。

仕事の相談でも、ただの愚痴でもいい。

僕は……君の『味方』でいたいんだ」

そう言い終えると稜真は茉莉の目を真っ直ぐに、真剣な顔で見つめた

「これだけは忘れないで。
君が自分を信じられなくなった時でも、僕は、君の価値を…信じてる。」


「………稜真さん…」


稜真は、茉莉が返事に困るのを察するように、スッと立ち上がった。

「……もう行くよ。
……頑張って、茉莉さん。

君の事業が、君の誇りになる日を僕も楽しみにしている。

……ハンカチ、使って。返さなくていいから。
次に会う時までに…君の涙が乾いていることを願ってるよ」


そう言い残すと稜真は都会の雑踏の中へと消えていった。


茉莉は、膝の上に残された白いハンカチを、そっと握りしめる。

そして静かに驚いていた

ほんの一言、弱音を聞いてもらっただけでこんなに心が軽くなったことに。


『僕に連絡して』

と、稜真は言った。


仕事の相談、愚痴…なんでも。


彼の優しさ。


ただ、それに甘えてはいけないことくらい、重々承知していた


『情けないところを見せたくないと思う相手と一緒にいるのは、疲れるんじゃない?』


その言葉が頭の中を去来している


以前父の前であんなに堂々とプレゼンした姿を見せておいて、こんな弱音、櫂の前で吐きたくなかった


私はいつのまにか強がっていた

強い自分を、演じていた。


「私……間違ってたのかな」


サンドイッチを口に入れて立ち上がる

今日はもう急ぎの仕事は無かった


買い物をして、料理を作ろう

そして櫂に


今日は少し甘えてみようか…




15章「荒野へ」はこちらで終わり、次は16章に入ります。
明日は15章あらすじまとめになります。

16章は丸々茉莉と櫂の過ごす、ある夜の話です。
官能シーンが多くなり、苦手な方には本当に申し訳ないのですが、2人の関係を構築する上で重要で外せない章となりますので、R18シーンですが無料公開とさせていただきます。
なので苦手な人にもぜひ薄目でいいので読んでもらいたいです。ごめんね🥺

それにしても稜真がいい男すぎて惚れる。
付き合ってほしい。それか娘の彼氏になってください。

それではまた明日!




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