白雪糕 良寛さんの大好物 大黒屋 新潟出雲崎 和菓子なスクチャイ008 2025.05.29
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白雪糕 良寛さんの大好物 大黒屋 新潟出雲崎
1.良寛さんと白雪糕




「白雪糕(はくせつこう)」を愛した良寛さんは新潟出雲崎生まれで江戸時代の1758-1831年に生きた「清貧なる自由人の僧侶」だ(吾輩個人的主観による定義)。
子供とよく遊んだ優しいお坊さんという印象を未だに持っている現代人も多いだろう。当時は全国的な有名人でアイドル的存在だったようだ。
出雲崎には今でこそ良寛堂や記念館はじめとして良寛さんの足跡が残されているが、実は当時は故郷を捨てた良寛さんは地元では良く思われていなかったらしい。
18歳で出家し生地の出雲崎の寺で修行に入るが22歳で故郷出雲崎を捨て岡山倉敷の寺に修行に入りそこの和尚さんを生涯の師とする。12年後にその師が亡くなる時「好きなように旅をするがよい」と言われ、その後から良寛さんは各地を流浪しはじめた。
最終的に出雲崎には帰って来ず、終焉の地はほぼ隣町の島崎(現長岡市)で現在の道の駅和島(わしま)からほど近い場所だ。遺骨が眠るお墓がその地のお寺の中にある。
衰弱して亡くなる際に良寛さんは震える字で「白雪糕を少しいただきたい」という手紙を菓子作りをする幼馴染みに送った。この手紙は良寛さんの最期を看取り墓を作った木村家が今も保管しているらしく、そのコピーが記念館や書籍などで公開されている。
それは亡くなる前年だったようで、手紙送付先の菓子職人は良寛さんの生まれ故郷出雲崎の三十郎という名の人だったらしい。
そんな良寛さんが死ぬ間際に食べたいと言った「白雪糕」とはどのようなお菓子だったのだろうか・・・
2.偶然「白雪糕」を購入する
先日吾輩は上越に「古代飴」を買いに行く道中、道の駅出雲崎に車を停めてトイレ休憩をとった。そもそも朝9時前だったので道の駅も和菓子屋さんもまだ営業していないと思っていた。
「白雪糕」は日を改めて出雲崎に出向くつもりでいた。
しかし朝の9時前でも入り口で売店の準備する人の姿が何人かいて、そこの店員さんの一人に訊いてみようと思った。
しかし、肝心のお菓子の名前が出てこず「良寛さんが好きだった白・・・なんとかというお菓子がもしかして売店にありますか?」などと漠然と訊いてみたのだった。
すると「白雪糕ですよね?中で売ってますよ!」と即答された。もうすぐ9時で開店まで待つと中に入って買えるのだ。
しかも声をかけた人はなんと白雪糕を売る大黒屋さんの店員さんだった。
詳しく言うと大黒屋の店主の妹さんでいつも店を手伝っているのだ。張本人だった。この奇遇!
その時までは吾輩はこれから行く上越の「古代飴」のことで頭がいっぱいだったのだが、良寛さんの白雪糕についてこれまで訊いてみたかった疑問が急に噴出し、白雪糕の製造元の張本人の一人である妹さんを捕まえて30分も立ち話をしてしまった。
大黒屋さんはこの後9時半ごろから開店の予定で、それまでに道の駅の在庫確認と商品補充に来たとのこと。
ま、忙しい朝の時間にマニアックなヤツが突如現れて質問攻めにされたわけだが、妹さんは始終ニコやかに相手をしてくれてありがたかった。
吾輩は開店した道の駅の売店で白雪糕11本入り(ハーフ)税込780円を購入した。
ちなみに大黒屋さんは道の駅からも歩いてすぐの旧道沿いだ。車は店にも停められるが、道の駅の広い駐車場に停める方が便利とのことだ。
3.白雪糕を食べる


帰宅後、さっそく食べてみた。
「白雪糕」は非常に脆い高級な落雁といった感じで、口中でスッと消える感覚がありとても軽い。
落雁が大好きな吾輩はいっぺんに気に入った。
お菓子に添付されていた説明紙片を読んだがわからない点があったので、電話で現地でお会いした店員さんに挨拶を兼ねていくつかの疑問を訊いてみた。
それでわかったことだが、今製造している白雪糕は良寛さんの時代とは成分が異なるという点だ。
もともとは蓮肉(=蓮の実の粉末)、芡実(けんじつ)(=オニバスの実)、山薬(=ヤマノイモの粉末)の3薬が入っていた。
この中では今は山薬と称するヤマイモ粉が入るのみだ。
つまり今の「白雪糕」は良寛さんの時代とは風味が異なる可能性がある。
江戸時代には「白雪糕」は薬扱いで、薬屋で売られていた。
そもそも砂糖自体が薬の扱いで、砂糖は薬屋で扱う商品であったとのこと。
「白雪糕」は母乳の代用でもあり、母乳が出なくなった母がお湯で溶いて幼児に与えたらしい。それだけ栄養があると見做されていたのだろう。
「7人目 白雪糕で 育て上げ」という川柳があり「ちちの粉」とも呼ばれていたらしい。(出典:「和菓子/郷土菓子百科」P.125 亀井千歩子著 2023年3月10日発行)
店員さんは現店主の妹さんだが、彼女のひいお爺さんが、和漢三才図会(当時の百科事典)から製法を読み取り長年途絶えていた「白雪糕」を復活させたのだそうだ。
そのあたりの話は父親が詳しかったとのことだが、残念なことに2年前に他界されている。
吾輩は非常に無念に思った。
今の店主も妹さんもそれなりには詳しいだろうが、お父さんはもっと詳しく事情を知っていたはずだと妹さんが言った。
吾輩とお父さんが直接お話しできれば良かったのに・・・と言ってくれたが後の祭りだ。
それにしても、その日ひょんなことで「白雪糕」を作っている大黒屋さんのご家族張本人に出会えたことが奇跡に近いと思った。
また改めて来て、店舗に展示しているという『和漢三才図会』を拝見したい。
4.幼稚園の劇「良寛さん」
吾輩は幼稚園時代に学芸会の劇で良寛さんの子供の役をやった。
「良寛さん、ハヨおいで!」
というセリフを大きな声で言わされたことが鮮明に記憶に残っている。
しかし大人になって気付いて可笑しかったことだが、良寛さんを大声で呼んだ子供が大阪弁だったことだ。「ハヨおいで」とはむちゃ大阪弁やん!
思い起こすと確か良寛さん役も大阪弁を喋っていたような・・・今になって思う「なんでやねん!?」(≧∇≦)
その頃、家には良寛さんの子供向けの絵本があった。
当時ほとんど自分の本は持っていなかったが、なぜか良寛さんとアラビアンナイトだけがあり、どちらの本も何度も繰り返して読んだことを覚えている。
良寛さんの「ハヨおいで」は子供と遊ぶ鞠つきとかくれんぼの場面だ。
便所のタケノコの話も覚えている。
たまたま家にあっただけの本で幼稚園の劇もたまたまだと思っていたが、その頃もしかすると日本で良寛さんブームでもあったのかもしれない。
近年新潟で中高生に個人的に勉強を教えることがあるが、何かの拍子に良寛さんの話題がでたので訊いてみると、意外なことに彼らは地元なのに良寛さんを知らないのだ。大阪人の吾輩の方がよっぽど良寛さんを知っていることになる。
新潟の学校では地元の昔の著名人などを教える教育の機会はないようなのだ。
口の中で儚く溶ける上品な甘さの「白雪糕」を食べながら、幼少時に本を読んで劇をさせられた良寛さんのあんなこんなの面白おかしいシーンを思い浮かべて懐かしい思い出に浸るのだった。
(おわり)
