ほどいては巻き、巻いてはほどくー『水辺のしつじ』ep.38
よもぎさんに捧ぐ
赤い蝶ネクタイが、僕――貝原瑞樹の首元でぐるぐる回っていた。
鏡の中の自分は、どう見てもまともじゃない。
頭にはサンタ帽。 鼻には丸い赤鼻。 胸には『超特価! 焼きイカあります!』の札。
十九歳のクリスマスイブにする格好ではなかった。
「瑞樹ィ! まだ着替えてねえのか!」
休憩室の扉が勢いよく開く。
全身金色の店長が立っていた。
クリスマスだかららしい。 意味はわからない。
「店長……僕ほんとにこれ着るんですか……?」
「当たり前だろ! 今日は決戦日だぞ!」
「焼きイカですよね?」
「だからだ!」
店長は僕を指差した。
「世の中みーんなチキンだケーキだ言ってる時代に焼きイカ! この逆張り精神! これぞ商魂!」
「商魂かなあ……」
「あとお前、顔が弱そうでいい。」
「悪口ですか?」
「最高の褒め言葉だ。」
店長は満足そうに頷く。
「寒空の下、震えながら焼きイカを売る青年……人はそこに“物語”を見るんだよ。」
その言い方で嫌な予感がした。
「まさか外販……」
「もちろん外販だ。」
「いやです。」
「ダッフンダ!」
「押し切らないでください!」
店長はどこからかサングラスを取り出し、僕へぐいっと押しつけた。
「そして今日は特別に、“売りまくるマン”になってもらう。」
「なんですかそれ……」
「ウルトラマン的な。」
「絶対違う。」
「売りまくるマンは宇宙の平和より在庫を守る!」
「守るものが小さい!」
その時だった。
「店長。」
低い声が飛ぶ。
振り返ると、厨房から牧野先輩が出てきていた。
黒いエプロン姿のまま、ものすごく嫌そうな顔をしている。
「また新人で遊んでるんすか。」
「遊んでない。これは戦略だ。」
「じゃあ一人でやってください。」
「えっ。」
「あと在庫確認まだですよね?」
店長の顔が死んだ。
牧野先輩は無言でトングを持ち上げる。
店長は秒速で厨房へ帰っていった。
去り際だけ、
「ダッフンダァ!!」
と叫んでいた。
最後までうるさい人だった。
◇
外へ出る。
冷たい風が鼻を刺した。
向かいのコンビニでは、ダウンジャケットを着込んだ店員が肉まんを売っている。
ちゃんとしてる。
僕だけだ。
赤鼻つけて焼きイカ売ってるの。
「焼きイカいかがっすかー……」
声が弱い。
「聞こえねえぞ売りまくるマン!」
店長の声が店内から飛んできた。
なんで聞こえるんだろう。
「焼きイカです……」
「腹から!」
「焼きイカァ!!」
通行人がびくっとした。
高校生の集団がこちらを見る。
一人が吹き出した。
「なにあれ。」
終わった。
そう思った瞬間だった。
「ダッフンダ!」
僕はなぜか叫んでいた。
沈黙。
しまったと思った。
しかし次の瞬間。
女子高生が腹を抱えて笑い始めた。
「ヤバい! なにそれ!」
「昭和! 昭和すぎる!」
「焼きイカください!」
「こっちも!」
なぜだ。
なんで売れている。
「ありがとうございまーす……」
僕は半泣きでイカを焼いた。
気づけば、
「売りまくるマン頑張れー!」
とか言われていた。
人生、何が起こるかわからない。
◇
店内は少しずつ混み始めていた。
ケーキ箱を抱えた会社員。 スマホを見つめながら誰かを待つ高校生。 小さな花束を持ってコーヒーを飲む男。
みんな、誰かのために動いている夜だった。
「瑞樹、裏の在庫見てきて。」
「はい。」
休憩室へ向かう。
段ボールを数え始めた時、紙袋が目に入った。
紺色のネクタイ。
今日の帰りに着けようと思っていたやつだ。
別に意味なんかなかった。
ただ、なんとなく。 今日くらい少しまともな格好をしたかっただけだ。
「瑞樹! 配膳お願い!」
「はい!」
僕はトレーを持って客席へ向かう。
コーンスープとカフェラテ。
七番席。
番号札の向こう側。
白いマフラーが見えた。
心臓が止まりそうになった。
「……あ。」
彼女だった。
白いコートに顔を半分埋め、眠たそうな目で僕を見る。
そして、ふっと笑った。
「瑞樹君。」
その一言だけで、呼吸が変になる。
「お待たせしました……コーンスープと、カフェラテです。」
噛まなかった。
奇跡だった。
「ありがとう。」
湯気が彼女の睫毛をゆっくり揺らす。
「何時まで?」
「え?」
「バイト。」
「ああ……九時。」
「そっか。」
彼女はカップへ手をかざした。
僕は逃げるみたいにレジ裏へ戻る。
「在庫何個だった?」
「あ。」
「お前絶対見てねえだろ。」
牧野先輩が笑う。
◇
閉店前。
彼女はまだ席にいた。
空っぽのカップの前で、うとうとしている。
「……寒くない?」
「ちょっと。」
僕はポケットからカイロを出してテーブルへ置いた。
「余ってたので。」
「嘘だ。」
「……はい。」
彼女が笑う。
僕は視線を逸らした。
クリスマスソングが流れている。
楽しそうな曲なのに、なぜか少し寂しく聞こえた。
「あ、瑞樹。もう上がれ。」
牧野先輩だった。
「でもまだ……」
「いいから行け。」
「いや……」
「わかんねえだろ?」
先輩はニヤッと笑った。
「だから行くんだろ。」
僕は返事ができなかった。
ただ頷いて、更衣室へ向かった。
◇
サンタ帽を脱ぐ。
赤鼻を外す。
蝶ネクタイをほどく。
紙袋から紺色のネクタイを取り出した。
鏡の前で締める。
ぎこちない。
苦しい。
少し曲がっている。
でも、これでよかった。
意味なんてない。
それでも、この格好で会いたかった。
店を出る。
街は光だらけだった。
なのに不思議なくらい静かだった。
「瑞樹君。」
振り返る。
白いマフラー。 白い吐息。
彼女が立っていた。
「待ってた。」
僕は何度か瞬きをした。
本当にいるのか確かめるみたいに。
「変かな。」
彼女が僕のネクタイを見る。
僕は少し考える。
そして言った。
「うん。」
「えっ。」
「でも。」
喉が熱い。
「似合ってる。」
彼女が吹き出した。
笑い声が冬の空へ溶けていく。
風が吹いた。
ほどけかけたネクタイが、夜の中で静かに揺れていた。
