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ピーヒャラピーヒャラ輪舞曲(ロンド)ー『水辺のひつじ』ep.37


よもぎさんに捧ぐ

 

講義室の最後列で、僕は世界を救っていた。


落ちてくる四色のブロックを高速回転させ、細長い一本棒を完璧な位置へ差し込む。


──テトリス、十八列消去。


「っしゃ……」


小さくガッツポーズをした瞬間、教授のチョークが黒板を叩いた。


「そこォ。貝原。」


「はい?」


「キミだよ。世界を救う前に単位を救いなさい。」


教室がどっと笑う。


僕は曖昧に笑い返しながら、机に突っ伏した。


窓の外では曇り空がべったり貼りついている。 白いのに重たい空だった。


五月なのに、空気だけ二月みたいだ。


僕は最近ずっとこんな調子だった。


何もかもが面倒くさい。


いや、正確には、 真面目に悩むことに疲れてしまった。


将来とか、 就職とか、 友達とか、 恋愛とか、 単位とか。


考えようとしても、頭の中で急に別の音楽が流れ始める。


ピーヒャラ ピーヒャラ ピースケ野郎。


気づけばノートの隅にマルバツを書いている。


教授の話は一文字も入ってこない。


「あ〜もう遊びきれない……」


思わず呟くと、前の席の女子が振り返った。


僕は即座に寝たふりをした。


危ない。


今のは完全に“終わってる大学生”の発言だった。


けれど本当にそんな感じなのだ。


悩みきれなかった僕は、 いつの間にかちゃらんぽらんになっていた。


誰にも文句は言わせない。


なぜなら俺こそが、


theマンザイならぬ、


theちゃらんぽらん


だからである。


誇らしくはない。


まったく。


講義終わり、僕はレポート提出へ向かった。


提出期限は九時三十分。


現在時刻、九時三十三分。


終わった。


長蛇の列の先には三人の受付係がいた。


左は高速型。 ほぼ顔を見ず流れ作業で判子を押していく。


真ん中は威圧型。 学生を捕まえてはネチネチ説教している。


右は老人。 やたらニコニコしているが、紙をめくるたび指を舐める。


列から「うわ……」と小声が漏れる。


地獄の三択だった。


僕は神に祈った。


せめて高速型。


せめて高速型。


せめて──


「次。」


真ん中だった。


終わった。


「学部学科、学籍番号。」


「文学部、日本文学科、一年、JL一〇八六……」


「遅れてるね。」


「はい……三分ほど……」


「へえ。」


男はレポートをパラパラめくる。


沈黙が怖い。


めちゃくちゃ怖い。


「ごめんなさい。」


「誰に?」


「え?」


「俺じゃなくて後ろの人たちに謝ったら?」


僕は反射的に振り返った。


「す、すみません……」


後ろの女子学生がぎょっとする。


その瞬間、


「ハハッ!」


男は吹き出した。


「冗談だよ。」


「……え?」


「お前さ、損するタイプだな。」


ばん、と判子が押される。


「はい終了。次。」


僕はレポートを抱えたまま数秒固まっていた。


なんだったんだ今の。


外へ出ると、生ぬるい風が吹いていた。


白い空。


半乾きのアスファルト。


そういえばさっき、講義棟の前で見かけたあの子の姿がもうなかった。


名前も知らない。


なのに少し探してしまう。


なんなんだろう、この感じ。


恋とも違う。


寂しいとも違う。


僕は考えるのをやめた。


考え始めるとまた、 ピーヒャラが始まるからだ。


気づけば足は商店街へ向かっていた。


古本屋「月舟堂」。


錆びたベルを鳴らして扉を開く。


「お。」


脚立の上から声が降ってきた。


紋人さんだった。


片手にはハタキ、 片手には文庫本。


相変わらず何屋かわからない。


「いらっしゃい。顔が終末。」


「そんなにですか。」


「うん。世界滅亡を見届けた犬みたい。」


失礼すぎる。


店内には古いジャズが流れていた。


棚の奥では小さな扇風機が首を振っている。


「レポート?」


「……一応。」


「間に合った?」


「三分遅刻でした。」


「あらら。」


紋人さんはレモンスカッシュを差し出してきた。


氷がしゅわしゅわ鳴っている。


「でも生きてる。」


「まあ……」


「偉い偉い。」


子ども扱いである。


でも少し笑ってしまった。


紋人さんはカウンターにもたれた。


「俺さ、大学三回辞めかけてるんだよね。」


「辞め“かけ”?」


「毎回ギリギリ戻ってった。」


「なんで。」


「怖くなったから。」


彼は平然と言う。


「ちゃんと生きるのって、怖いじゃん。」


僕はストローを噛んだ。


その言葉だけ、 やけに胸へ落ちてきた。


「俺、たぶん真面目になりきれないんですよ。」


「へえ。」


「なんか途中で全部どうでもよくなるっていうか……」


ピーヒャラ ピーヒャラ。


また頭の中で鳴る。


「ちゃらんぽらんなんです。」


「いいじゃん。」


「よくないですよ。」


「なんで?」


「だってちゃんとしてないし。」


紋人さんは少し考えたあと、棚の奥を指差した。


「ちゃんとしてる本って、あんま面白くないんだよね。」


「……は?」


「曲がってたり、破れてたり、変な染みついてたりする本のほうが、妙に残る。」


変な理屈だった。


でも、 少しわかる気もした。


「あ。」


僕は棚を見て声を漏らした。


昨日まであった古い映画雑誌が消えている。


「あれ……売れました?」


紋人さんは目を丸くした。


それから笑った。


「あるよ。隠した。」


「隠した?」


「母親に“その表紙キモい”って言われて。」


彼はカウンター下から雑誌を取り出した。


少し折れた角を撫でる。


「なくなると不安になるよね。」


その言い方が、 妙に優しかった。


僕は勢いで言った。


「あの、これ……包んでもらえます?」


「プレゼント?」


「いや……まあ……そんな感じで。」


誰に渡すかも決めてない。


でも包んでほしかった。


紋人さんは困った顔をした。


「ラッピング苦手なんだよなあ。」


「僕もです。」


「じゃあ終わった。」


終わっていた。


案の定、 リボンはぐちゃぐちゃになった。


蝶々結びが縦結びになる。


「ダサ……」


「味がある。」


「便利な言葉ですね。」


その時、 店の奥から猫が飛び出してきた。


鈴を鳴らしながらリボンへ突撃する。


「あーっ! こらナポリ!」


一瞬でほどけた。


僕は吹き出した。


紋人さんも笑っていた。


腹が立つくらい笑っていた。


その瞬間ふと、


「あ。」


と思った。


今日初めて、 ちゃんと笑った気がした。


結局、 何度もやり直して、 歪な包みができあがった。


赤いリボンは少し曲がっている。


でも嫌じゃなかった。


帰り際、紋人さんは小さな紙袋を二つ渡してきた。


「おまけ。」


「なんですかこれ。」


「秘密。」


ずるい大人だ。


外へ出ると、 雲の隙間から夕方の光が差していた。


商店街のタイルがぼんやり光る。


僕は袋を抱えたまま振り返った。


店先で紋人さんが手を振っている。


猫も尻尾を振っていた。


僕はなんとなく、 壁にペンキを塗るみたいに大きく手を振り返した。


頭の中のピーヒャラは、 いつの間にか止んでいた。

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