リボンと輪郭──『水辺のつつじ』ep.37
口の中は、まだうっすらとツクリモノの花の味がしていた。
再び列の最後尾に立った時、彼女の姿はもう見えなかった。
肩で息をしながら、僕はまた時計を見上げる。
空は白く、それでいて暗い。
なのに目を細めたくなるほどに眩しかった。
──九時三十二分
順番が回ってくる頃には早くとも五分超過は確定だろう。
学生たちの絶望は白く中空を舞う。
長く伸びた提出列は最終、三又に分かれる。
左から女性、中堅といったところだろうか。
彼女は軒並み表紙だけを見て、よほどのことがなければ検閲済の箱へレポートを投げ込んでいく。
故に処理速度はダントツで速い。
真ん中は男性、年齢は僕より少し上くらいに見える。
ここが一番人の流れが悪かった。
薄汚れた指サックを仕切り板に突き立てたかと思うと、まくし立てるようにしてレポートをつき返す。
納得のいかない学生が食ってかかる。
右は男性、白髪混じりの朗らかなベテラン。
摩耗した指紋を補うべく指先を舐めるものだから、そのたび待機列からは「うわ」とか「え」と静謐な悲鳴が上がる。
その代わり、レポート差戻し率は見る限り〇パーセント。
僕の番が来た。
真ん中だった。
「学部学科、学年、学籍、氏名。」
「文学部国文学科、一年、JL一〇八六MK、貝原瑞樹です。」
「ふうん。国文ね……」
「あ、あの……」
「ん?」
彼は僕には見向きもせず、ねちっこく一文一文を辿っている。
「六分……」
「ん?」
「六分遅れてるんですけど……あの。ごめんなさい。」
「ほーん……まじめだねェ。」
「ごめんなさい。」
「ごめんなさいはお前の後ろの奴らに言ったら?」
彼の指サックは仕切り板越しに僕を通り越して列の後方へと向かっていた。
僕は振り向いたまま、彼のいう通りにしていた。
「ハハッ! 嘘だろ? 冗談だよ、冗談……ごめん。」
「え?」
「お前さあ、損するよ。」
僕のレポートは検閲済の箱に五部まとめて投げ入れられた。
「はい、お疲れさまでした。」
拍子抜けした僕は煉瓦作りの柱に凭れかかって、しばらく人の流れを見つめていた。
そこに彼女の面影がないことに抱いた感情がなんだったのか、その答え合わせだけが終わらないまま──半乾きの髪も、ほとんど乾いてしまった。
一歩踏み出した時、どこへ向かうのかを僕は知らなかった。
きっとここへは僕の靴が連れて来た。
いつもの古書店の窓辺では、相も変わらず小さなもみの木のてっぺんで銀色の星が鈍く光を撥ね返している。
木の下に置かれた色とりどりの小箱は、日を追うごとに増えている気がする。
スノウ・ドームの中、理想的な冬の街の雪は止んでいた。
はたきを持ったまま脚立に座って本を読む人の姿が見える。
折しも彼は僕に気がついて、扉の方を指差した。
「いらっしゃい。」
紋人さんは薪ストーブの横の電気ヒーターのスイッチを押した。
「本当、ロマンもクソもないよね。せっかくこんなに素敵なストーブがあるのにさ。」
彼は煙突の始まりを撫でながら笑った。
その眉尻は下がっている。
「その分じゃ間にあったみたいだね。」
「え?」
紋人さんは当たり前みたいに飲み物を運んできた。
「レポートか試験じゃないの? この時期は。」
僕は耳朶が紅くなるのを感じた。
今朝、彼の姿を見たことを今の今まで忘れていたのだ。
「びっくりしたよ。瑞樹君、案外走るの速いんだね。」
本日二度目の拍子抜けに、僕は咽せてしまった。
「あ、あの……紋人さん……? からかってますか?」
「からかう……?」
浮かぶ輪切りレモンをひとかじり、ふたかじりして結局全部食べてしまった。
「俺、走れてましたか?」
「ああ、そりゃあもう。疾風の如くね。」
彼は朗らかに笑った。
店内には薄くジャズが流れている。
ふとあの薪ストーブに目をやった。
やはり、灯っているのはその隣のヒーターのスイッチランプだった。
「二留してるんだよ、俺。」
突然何を言い出すんだろう、あっけにとられる僕に彼はおどけた顔をしてみせた。
「上手く走れないんだ。二の足どころか三の足、いや? 一三〇六の足? それくらい踏むし。もつれるし。」
──一三〇六の足……?
この人は、一体何を言っているのだろう。
それだけあれば誰だってもつれるはず。
僕は人智を超えるほど角度に首を捻った。
「ごめんごめん……」
紋人さんの指が向く方の壁に目をやると、まだ陽に灼ける前の新聞の切抜きが貼り付けてあった。
「悪趣味……かな?」
「人によっては……?」
僕はレモネードを飲み干した。
「あ、そうだ……」
僕はカップを戻し、恍惚と切抜きを眺めたままになっている紋人さんの肩に触れた。
「あの本って……」
「……」
「紋人さん!」
「……え?」
「あの本って……」
「あ、ああ……ん?」
「売れちゃいましたか……?」
あ、と思った時には遅かった。
飛び出した言葉はどれだけ手繰っても戻ることはない。
紋人さんはふふっと笑って「あるよ。」と僕にとっての未開の本棚に向かって歩いて行った。
「おふくろがさ、『悪趣味だからお客さんの見えないとこに埋めとけ』ってうるさくて……」
「ごめんなさい。」
「え?」
彼は一瞬の間に理解してくれたらしい。
「そりゃあ不安にもなるさ。当たり前にあると思ってたものが急に跡形もなく消えてたら。」
ジャズはまだ、小気味よくリズムを刻み続けていた。
「あの……ラッピングって……」
「うん……?」
「できたり……します?」
「Here goes nothing……」
彼の口をついてでたその言葉の意味はすぐにはわからなかった。
けれど、これまでのどんな言葉よりも妙に重く切実なものに感じられたことだけは確かだった。
「これでいいの?」
「これが、いいんです。」
紋人さんは馴れない手つきで赤いリボンを手繰っていた。
弛んだり張り詰めたりを繰り返す。
僕は目が離せなかった。
「できた……! でき……て……ない……?」
そこには縦結びの赤いリボン。
僕は右足を必死に持ち上げた。
彼は作業台から身を乗り出すと、ケラケラ笑い出した。
「おんなじだ!」
すると店奥からシャラシャラと鈴の音が聴こえた。
「ナーン……」
声の主は作業台に飛び乗ると、リボンにじゃれついた。
「だめだよ! ドロシー……」
あっという間に縦の蝶々は一本のリボンに戻ってしまった。
その後も僕たちは、ドロシーに翻弄されながらなんとか本を包みあげた。
「ちょっと早いけど……」
紋人さんは窓辺の小箱を二つ、僕の手には載せてくれた。
「これ……」
「ん?」
どちらも青で、銀色のリボンで結ばれている。
「中身は秘密だよ、どう使うかも瑞樹君次第だ。」
ドロシーを抱く紋人さんは扉の外まで出て見送ってくれた。
彼は手を、ドロシーは尾を振っている。
そして今、僕はほんの少し不思議な形のリボンで封をした心の形を抱えている。
すっかり温まり、ゆるみ解けたその形を。
曲がり角の手前、僕は振り向いた。
そして、壁にペンキでも塗るみたいに手を振った。
雲の切れ間から、細く差した陽がわずかにアスファルトを温めていた。
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【創作大賞2026】
恋愛小説部門エントリー中。
今回のミソは文学部国文学科の貝原瑞樹の学籍番号です。
私の出身大学がバレないように色々な大学のクセを集めて考えた結果すごくシンプルになりました。
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個人的な恨みから始まった詩人酒場シリーズ。
その怨念の熱量が一番高かった頃のエピソードです。
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恨みが再熱した時の詩人酒場です。
お分かりだろうか。
私は怒りの象徴として果物を使いがちだ。
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【エッセイ】
実家で親がピーマン育てる話。
今年もやるらしい。
つまりまた私はメンヘラピーマンに振り回されるのだ!
自宅と実家の二重生活。
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ゆきお様・解説
先に読むのもありです。
なんのことを言っているのか、掴んでから読む、という方法。
それもありでしょう。
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よもぎちゃーん!
はーい!
何が好き?
ポテトチップスよりも
お・ぬ・し