冬、過剰摂取ー『水辺のひつじ』ep.30
よもぎさんに捧ぐ
朝の空気は薄く、肺に入るたびにどこか削れていくようだった。
駅へ向かう道、街路樹は骨だけになって、電飾がその骨に絡みついている。まるで生きているふりをしているみたいだと思った。
マフラーを巻き直しながら、僕は歩幅を少しだけ速める。理由はない。ただ、立ち止まると何かに追いつかれそうな気がした。
古本屋の前を通り過ぎようとして、足が止まる。
窓辺に小さなもみの木。銀色の星は、少し剥げている。
中には、あの二人がいる。
「入るなら、さっさと入れ」
扉が内側から開く。紋人さんが、はたきを振りながらこちらを見ていた。
「お邪魔します」
中はいつも通り、古い紙の匂いと、少し焦げたような甘さが混ざっている。落ち着くような、眠くなるような、逃げ場を失うような匂い。
「そいつ触るなよ、崩れるからな」
言われたそばから、僕は背表紙の弱そうな本を引き抜く。
「ほらな。そういうのばっかり選ぶ」
「悪いかい」
奥から声が飛んできた。
リエさんが三毛猫を抱えて立っている。白い髪が妙に艶めいて、目だけがやけに若い。
「朝から嫌味かい、あんたは」
「事実だろ。趣味悪い本しか置かねえし」
「誰が置いたんだい?」
一瞬の沈黙。
紋人さんが舌打ちする。
リエさんは笑う。子どもみたいに。
「まったく、親不孝者だねえ」
「うるせえな」
言葉は荒いのに、紋人さんの手はリエさんの肩に軽く触れている。熱を確かめるみたいに。
僕はそれを見ないふりをして、棚に本を戻した。
時計を見る。
「あ、すみません、そろそろ」
「逃げるのか」
「授業なんで」
「真面目だな」
背中に軽く叩かれる。思ったより優しい力だった。
講義は、いつも通り内容が薄かった。
ノートを取るふりをしながら、僕はずっと窓の外を見ていた。空は白く、何も落ちてこない。
終わってすぐ、つつじの前に行く。
彼女はもういた。
白いコート。大きすぎるリュック。枝だけになったつつじをじっと見ている。
「寒いね」
「うん」
それだけ。
「どこか行く?」
「別に」
会話が続かない。続けようとして、やめる。
「コンビニ寄っていい?」
頷きだけが返る。
肉まんを買った。
「いる?」
「いらない」
予想通りの返事。
外に出て、僕は一口かじる。
熱い。思っていたよりずっと。
「……一口」
彼女が言う。
「さっきいらないって」
「いいから」
差し出すと、彼女はかじった。ほんの少し。
「あったかい」
「でしょ」
それ以上は何も言わない。
僕がもう一口かじろうとしたとき、
「ちょっと口開けて」
「え?」
言われるままに開けた瞬間、何かが押し込まれた。
柔らかい。
甘い。
「グミ?」
「そう」
もう一粒。
「ちょ、待って」
さらに一粒。
「やめて」
「まだある」
結局、十六粒。
口の中がやけに重たい。甘さが飽和して、何が何だかわからなくなる。
「何これ……」
「食べきって」
彼女は真顔だ。
「なんでこんなに」
「別に」
少しだけ、笑っている気もする。
秘密の部屋。
いつもの席。いつもの窓。
今日はコーヒーが一つだけ。
彼女は何も頼まない。
僕は口の中のグミをなんとか飲み込んで、息を吐く。
「で、何?」
「資料、持ってる?」
「近代文学史?」
「うん」
「今はない」
「そう」
それで終わりそうになる。
「明日でいいなら」
「だめ」
即答。
「今日いる」
言い方が少しだけ強い。
「じゃあ取りに行くよ」
立ち上がる。
「ほんとに?」
「うん」
「遅いけど」
「走るよ」
「無理でしょ」
少し笑う。
それでも僕はドアに向かう。
「……お願い」
背中に落ちてきた声は、思っていたより軽かった。
走る。
思ったより息が上がる。冷たい空気が喉に刺さる。
途中で古本屋の前を通る。
また声が聞こえる。
「だからあんたが——」
「うるせえって言ってんだろ——」
さっきより大きい。
でも、扉は少し開いていて、中は明るい。
僕は立ち止まらずに、そのまま通り過ぎた。
家に着いて、資料を掴んで、また走る。
戻る頃には、息はもう整わない。
秘密の部屋のドアを開ける。
彼女は同じ場所にいた。
窓は真っ白に曇っている。
「持ってきた」
「ありがとう」
受け取る手が少し冷たい。
そのまま、隣に座る。
何も言わない時間。
「さっきのグミ」
「うん」
「多すぎ」
「そうだね」
「なんで?」
少しだけ考えてから、彼女は言った。
「一粒じゃ足りないから」
「何が?」
答えない。
代わりに、窓に指で線を引く。
外の景色が、少しだけ見える。
すぐまた曇る。
「ねえ」
「ん?」
「今日がいいの」
その言葉だけが、やけにくっきり聞こえた。
外は相変わらず、何も降っていなかった。
