冬、ひとくち──『水辺のつつじ』ep.30
すっかり葉を落としたミズキの木。
僕はその横をマフラーの結び目に手をやって、なるべく足早に過ぎようとしていた。
なんとなく、息苦しいような気がしたから。
大学へ向かう道すがら、街路樹に光の蔓が巻き付けられていることに気がつく。
「いつの間に……?」
いつもの古本屋の窓辺には小さなもみの木が飾られていて、そのてっぺんには銀色の星が鈍く輝いている。
傍らにはスノウ・ドームが置かれていて、球体の街にはきらきらと雪が舞っていた。
「寄ってく?」
紋人さんは埃のついたはたきを片手に扉を開けてくれた。
古いインクと、灼けた紙の仄甘く、眠くなるような匂いに包まれる。
僕が店に入ると、紋人さんはもう一度扉を開けてから鍵を回した。
「ごめんね、埃っぽくて。」
僕は彼がはたきを動かしているすぐ真下の本を手に取った。
「さすが、お目が高いね。瑞樹君。」
紋人さんは脚立の上で腕組みして、得意げに笑った。
「でもそれ、おふくろはお気に召さないらしくてさ。『色もしっちゃかめっちゃかでギラギラしちゃってさ、悪趣味だね』なんて……本当にロマンもク……」
「紋人さん……!」
僕は最大音量で囁く。
彼は気付くことなく最後まで言い切った。
その満足げな顔は次の瞬間、苦悶様に変わっていた。
「悪かったね! ロマンもクソもないババアで。」
奥の方から三毛猫を抱いたリエさんが顔を出した。
器用に片目をぱちっと閉じて、小首を傾げる。
その仕草は完全に少女だった。
艶やかな白髪からのぞく瞳には相変わらずハッとさせられる。
紋人さんは場都合が悪そうに脚立から降りてきて、「風邪ひいてんだから寝てろよ」とぶっきらぼうに吐き捨てた。
それでいてその肩を包む手は、静かで穏やかだった。
はたきは床に落っこちている。
僕はあんまり凝視したら悪い気がして、窓の方に目をやっていた。
すると、その視線に目敏く気付いた紋人さんがまた「おふくろ! あの星、禿げて見栄え悪いから。いい加減新しいの……」と喚くように切り出した。
小さなもみの木のてっぺんではやはり銀色の星が鈍く輝いている。
よく見ると、僅かに金の光も宿している。
「昔、あんたが撫で回したからでしょ?」
「うるせえな! 昨日のおかずは忘れるくせに……」
「みくびられたもんだね。昨日のおかずは──」
僕は時計を見た。
蒼褪めた僕を、二人は「ごめんね」と平謝りで送り出す。
僕は小走りで門を通り、教場に滑り込んだ。
乱れた呼吸がすっかりおさまって眠気すら覚え始めた頃、のんびりと教授が教壇に立った。
のど飴三つ分で、また教授はのんびりと去って行った。
つつじの茂みの前、彼女が佇んでいる。
茂みとはいえ寒さにやられ、ところどころ葉を失って乾いた枝をのぞかせていた。
僕は少し離れたところから手を振った。
彼女は気づいて目を逸らす。
「臨時休業だって。」
「そうなんだ……」
「マスターがインフルエンザ。」
彼女はつつじの葉のないところを覗き込みながらぽつりぽつりと言葉を並べる。
「じゃあ、学食でも行く?」
「いい。お腹空いてない。」
白いコートと不均衡な厳ついリュックに押しつぶされそうな後ろ姿。
言葉が出てこなかった。
僕は喉の奥が冷たく錆びついていくような感覚に襲われる。
空咳を三つ、僕は彼女の右斜め後ろを歩いている。
「ごめん、コンビニ寄ってもいいかな?」
彼女は立ち止まった。
振り返ることなく頷いた。
「肉まん、いる?」
「いらない。」
彼女はうつむいたまま、カイロの白い袋をしゃらしゃらと振っていた。
「そっか。」
こういう時、どうするのが正解なのだろう。
レジを打つトナカイの柔らかそうな角を僕はぼんやりと見つめていた。
キャンパスの谷底に位置するコンビニを出ると、僕は肉まんをかじった。
自分が猫舌だということも忘れて。
左手に救いを求めたけれど、こちらはホットコーヒー。
湯気が立ち昇っていた。
ひりひりする舌に僕は悶絶していた。
「……一口、ちょうだい。」
彼女がぽつりと呟いた。
目線は合わない。
「ごめん……食べかけだけど。」
彼女は一口かじる。
「あったかい。」
「よかったら全部……」
「もういい。ありがと。」
どこがどう減ったのか、わからないくらいだった。
こんな時、どんな顔で、どんな言葉をかけるのが正解なのだろう……
僕は半ば無意識でもう一口かじった。
「熱っ……!」
追撃で火傷した。
七号館手前の小さな庭園を抜ける。
二段の高い段差を大股で登り、十歩進む。
白漆喰のこぢんまりとした建物。
今時珍しい、木造りの引き戸は不自然に水色に塗られている。
錆びた南京錠はあくまでもお飾りらしく、僕が知る限り、施錠されていた試しがない。
とは言え、この空間で他の学生と鉢合わせたこともなければ、そもそも人の気配を感じたこともない。
かつて彼女がそう呼んだように、もしかして本当に「秘密の部屋」なんじゃなかろうか……
そんな荒唐無稽な考えが、眼前の大窓を白く曇らせた。
僕たちは決まって、この大窓に面した椅子に机ひとつ挟んで横並びに座る。
ひどく古びたでこぼこの机、がたつく椅子……
たいていここに、明太スパが二つとカフェオレ、アイスコーヒーが並ぶ。
今日はホットコーヒーがひとつ。
寂しげに影を作っている。
僕は最後の一口を飲み込んで、コーヒーに息を吹きかけていた。
彼女はさっきから黙りこくって、曇った硝子を人差し指でなぞっている。
なぞっては手のひらで撫でる、撫でては別の曇りをなぞる。
そんなことを繰り返すうちに、窓枠の外の景色が明らかになってきた。
僕の位置からは雪中花がぼんやりと視えている。
どうにもそれが、おびただしい数の目玉焼きに見えてきて僕はつい、ククッと笑ってしまった。
すると彼女はなぜか、真っ白なコートの袖で窓を横殴りに拭う。
「何?」
僕は窓を指さしてまた肩を震わせる。
「あの……目玉焼き、みたいだなって。」
湧き立つ笑いをコーヒーで押し流す。
思いの外熱くて、僕は顔をしかめた。
「意味わかんない!」
彼女は突然振り向いて、僕の唇に何かを押し当てた。
それは柔らかった。
甘いような苦いような匂いがした。
「……返信くらい、してよ。」
温かくなった舌の上で、グミはやたらに柔らかかった。
「あれ……? これいつもと違う?」
「季節限定のだもん。」
「そっか。」
間違い探しみたいに、僕はオレンジ色のグミの袋を眺めた。
やっと笑った彼女を見て、僕はやっと息を吐き切れた気がした。
緩やかな無言の時に僕は読みかけの本を開く。
彼女は僕の後ろに回り込んで、本を覗き込む。
頬に当たる髪がくすぐったい。
「あ……雪。」
「え?」
僕は大窓の向こうに目をやった。
空は今にも雪でも降りそうなほどの白んだ紫色だった。
突き放すような冷たい色はかえって距離を近づける。
道ゆく人は身を寄せ合い過ぎていく。
「本の中の話だよ。」
彼女は悪戯っぽく笑う。
鐘が鳴り始める。
僕は慌ててスマートフォンを取り出して画面を叩く。
──十三時一分
「行こう?」
僕は声をかける。
彼女は動かなかった。
「返信くらい、してよ。」
「……それ、さっきも……」
僕はもう一度スマートフォンの画面を叩いた。
そしてメッセージアプリを開く。
──今日、学校来てる?
──生きてる?
「ごめん……なんか、どう返せばいいかわからなくて。」
彼女は何も言わなかった。
大窓はまた白く曇り始めている。
もう三限には間に合わない時間になっていた。
「瑞樹君、近代文学史の資料持ってたりする?」
「今?」
「うん。」
「ごめん、今は持ってない。」
また彼女は黙ってしまう。
「明日学校いる? いるなら明日持ってくるよ。」
彼女は首を横に振っている。
「もしかして締切間に合わない……?」
「そうじゃないけど……」
「今いる?」
彼女は頷いた。
「じゃあ今とってくるよ!」
走り出そうとした僕のコートを彼女は掴んだ。
「いい! 瑞樹君走るの遅いから! いい!」
僕たちは顔を見合わせた。
大窓は真っ白で、わずかに針葉樹の深い緑色がぼんやりと浮き上がる。
「……今日がいいの。」
しんと冷えた空気に、彼女の声がいつまでもたなびいていた。
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【創作大賞2026】
恋愛小説部門エントリー中。
鈍足を指摘される貝原瑞樹。
恋は進むのか、後退するのか。
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大正の文学青年はカフェーの女給に翻弄される。
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夏頃つつじは咲いていましたか?
貝原は成長したのでしょうか?
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【エッセイ】
谷崎潤一郎にメタモルフォーゼしちゃうぞ!
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ゆきお様・作
やはりどうにも、ゆきお様には敵いません。
読みますと、あまりのうまさに絶句して、もう書けなくなってしまいます。
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よもぎちゃーん!
はーい!
何が好き?
ポテトチップスよりも
お・ぬ・し