午前五時のサクラと朝マック
よもぎさんに捧ぐ
朝五時のプールサイドに、水着のまま干されている女がいる。
それが瑞樹だった。
空はまだ半分夜で、群青色の上からオレンジ色の光がゆっくり広がってくる。
プールの水面がそれを揺らしている。
塩素の匂い。
濡れた髪。
冷たいタイル。
瑞樹はベンチに横たわり、空を見ていた。
「……人って、こうやって蒸発するのかな」
朝の空気はやけに澄んでいる。
鳥の声まで透明だった。
瑞樹は腕を顔の上に乗せる。
いきなりの現国、田島の抜き打ちテスト。
バイトでは秋元の遅刻で三十分のヘルプ。
夜中に届いた意味のよくわからないLINE。
頭がぐちゃぐちゃになって、
気づいたら夜のプールに飛び込んでいた。
泳いで、泳いで、
気がついたらベンチで干されている。
「……お魚になったわたし……」
ズッ……ズッ……
サンダルを引きずる音が近づいてくる。
朝日を背に、人影が立った。
髪ぼさぼさ。
でかいパーカー。
ビーチサンダル。
幽霊みたいなシルエット。
「……なにしてんの」
瑞樹は首だけ動かした。
「干物」
一秒沈黙。
「水着で?」
「高級干物」
影がしゃがみこむ。
木島だった。
木島は瑞樹を見下ろす。
「お前さあ」
「ん」
「プールと付き合ってんの?」
「……今ちょっと距離置いてる」
「ややこしい恋愛してんな」
木島はポケットからタオルを取り出し、
瑞樹の顔にぽいっと投げた。
べしゃ。
「うご」
「拭け」
瑞樹はタオルをどける。
「雑すぎる」
「優しさの暴力爆弾」
木島は瑞樹の髪をぐしゃぐしゃ掴んだ。
「やめろ」
「乾かしてる」
「犬か」
「ビックホットドッグ」
瑞樹は体を起こした。
視界の端でサクラの木が揺れている。
薄い花びらが朝日に透けていた。
瑞樹がぼそっと言う。
「世界三大解読って知ってる?」
木島は即答した。
「ポテトL」
「違う」
「ナゲット」
「違う」
「チキンタツタ」
「全部マックじゃねえか」
瑞樹はため息をつく。
「ロゼッタ・ストーン」
木島は黙る。
「……石?」
「石」
「急に石?」
「文明の夜明け」
「朝五時の話じゃない」
瑞樹は空を見上げる。
「ロゼッタ・ストーン、ベヒストゥン碑文、線文字B」
「暗号オタク?」
「尊敬する人いる」
「誰」
「杉田玄白」
木島は三秒考えた。
「江戸」
「そう」
「解体新書」
「朝五時の知識じゃない」
風が吹いた。
サクラの花びらが一枚、瑞樹の肩に落ちる。
瑞樹はそれをつまんだ。
「ほんとはさ」
「ん」
「ロゼッタ・ストーン見に行きたいんだよね」
「どこ」
「イギリス」
「遠い」
「遠すぎた……」
二人の声が重なる。
「玄白」
瑞樹が笑った。
「何言ってんだあたしたち、朝っぱらから」
木島は少し考えた。
そして言う。
「マック行こ」
瑞樹はサクラを見上げた。
午前五時のサクラと、朝マック。
なんだか妙な組み合わせだと思った。
「は?」
「朝マック」
「急すぎる」
「腹減った」
木島の腹が鳴る。
ぐううううう。
瑞樹が吹き出す。
「うるさ」
「事故」
「遠吠え」
木島は立ち上がる。
「ポテト」
「朝ない」
木島の顔が凍った。
「……ないの?」
「ない」
木島は膝から崩れ落ちた。
「人生の意味の半分失った」
「大げさ」
木島は立ち上がる。
「ナゲット」
「ある」
「よし」
瑞樹が言う。
「六個?」
木島は少し考える。
「……いや」
「?」
「アップルパイにするか」
「急に渋い」
「朝は甘党」
木島が遠くを指差した。
黄色い看板。
マック。
「競争だ」
「は?」
木島が叫ぶ。
「負けた方が奢り!!」
そして走り出した。
「待て!」
瑞樹も立ち上がる。
サンダルがぱたぱた鳴る。
「遅い!」
「水着だぞ!」
「関係ない!」
瑞樹が加速する。
その瞬間。
つるっ
「うわ」
どさっ。
アスファルトに倒れた。
空が広がる。
群青とオレンジ。
サクラの花びらが視界を横切った。
木島が戻ってくる。
瑞樹の横に立ち、
それから――隣に寝転んだ。
「起こせ」
「めんどい」
「最低」
二人で空を見る。
朝日がだんだん強くなる。
鳥の声。
風。
サクラ。
木島が言う。
「瑞樹」
「ん」
「イギリス行ったら」
「うん」
「マックある?」
瑞樹は笑う。
「ある」
「よし」
サクラがまた一枚落ちた。
木島が立ち上がる。
「競争まだ」
瑞樹も起き上がる。
「当然」
「アップルパイ」
「ナゲット」
二人は同時に走り出した。
朝五時の道で、
水着の女と寝ぐせの女が、
マックに向かって全力で走っている。
サクラがまた一枚落ちた。
ロゼッタ・ストーンは遠い。
でもマックは、もうすぐだった。
