午前五時のオフィーリア──『水辺のつつじ』ep.3
なぜまた僕の網膜は群青と橙の朝陽に灼かれているのだろう。
灰色の雲が鳥の群れを乗せて流れている。
あれは、僕の葬送行列になる予定だったんだ。
……予定だった?
身体は降り注ぐ光の粒子に逆行している感覚がある。
濡れた服の、濡れた髪の、水ごと全てが空に還っていく。
ああ、これはもしかすると成功したのかもしれない。
しかし、背はベッタリと大地を捉えているようにも思える。
世界に縛り付けられている。
いや。
砕け舞いあがろうとする身体を現実に繋ぎ止めようと喘ぐような。
胸と、腹。
そこに重力のない優しさを感じる。
ひんやりとした、優しさだ。
これはきっと、影。
誰かの影。
その影が僕を抱きとめている。
……誰?
依然として底の見えない空に目を回しかけている。
左目尻を大きなビー玉が転がる。
そして僕はようやく、頭を動かした。
転がり落ちたものは地面を黒く染め、わずかに光を弾いている。
その少しだけ先の方。
朝陽を背に大股びらきに座る人影が見える。
夏の初めの風が影の毛先をさらっていく。
朝の光に透かされた黄緑色の髪は穏やかに揺れる。
影は立ち上がった。
すると光の重なりは剥がれてゆき、泥のついた足が近づいてくるのが見える。
ズッ、ズッ、と黒いビーチサンダルを引きずり歩く。
足趾の間には半枯れの細い草が絡まっている。
やけに長い示趾はアスファルトを直にとらえている。
そして、影は一昔前の不良みたいな恰好でしゃがみ込んだ。
僕は右手を身体の横に置き、ゆっくりと起き上がる。
半分あたり起きたところで、ベージュのハーフパンツが見えた。
色の軽やかなところには妙にシワが寄り、重く湿った色と共にマーブル模様をつくりあげている。
温かな手が、僕の背を押し上げた。
大地から剥がされた背中からは熱が飛び去っていった。
「何やってんだよ、オフィーリアと寝たのか?」
そう言った彼の白いTシャツは泥にまみれ、まだわずかに湿っている。
僕は何も答えなかった。
ただ、できるだけの笑顔を向けた。
すると彼は顔をくしゃくしゃにして笑う。
ついでに僕の髪もくしゃくしゃにしてしまった。
一瞬の間があって、彼は「ごめん」と手を離す。
そして立てた親指を背後の柵の方に向けて言った。
「ギター、弾いたの?」
柵には黒いケースが立てかけてある。
僕は地と空の境目を見つめてうなずいた。
「なあ瑞樹、牛丼。牛丼行かね?」
「え……?」
僕は塔の時計を見上げた。
「昨日シメのラーメン食いそびれてさ。付き合え。」
時計の針はぴったり午前五時を指している。
「こんな時間に?」
「こんな時間だから行くんだよ!」
僕は首を左へ傾ぐ。
「そんな格好で?」
「人のこと言えないじゃん!」
自分の髪の乾ききらないことに気づく。
わずかに塩素臭く、服からは生物の匂いが漂っている。
もう一度時計を見た。
針はやっぱり午前五時を指している。
「重いよ……」
「おん? 荷物なら俺が持ってやるよ!」
立ち上がり、大きく伸びをしている。
「お前、今日朝一試験だってわかってんの?」
彼はもう、僕の荷物まで背負っている。
「牛丼屋まで勝負だ!」
そう叫んで昇る太陽に向かって駆け出していた。
「いや、待って! 木島君?」
自分でも驚くほど、声が通った。
鼓膜に貼り付いて当たり前のようになっていた蝉の音に五秒後気付く瞬間のよう。
すると突然木島君は三メートルくらい先で荷物ごとへたり込んだ。
僕は慌てて這って行く。
「大丈夫?」
「助けてくれ瑞樹……もうダメみたいだ……」
力無く伸ばされた手を咄嗟に握っていた。
「二日酔い……」
木島君の腹の虫は高らかに遠吠えした。
顔を見合わせた。
僕の方が先に笑った。
「立てる?」
「お前……いい奴だな!」
わざとらしく涙声を出して、また僕の髪をくしゃくしゃにする。
朝五時の道、互いの体重を支えながらふらりふらり先へ進んだ。
木島くんの言う「近道」は「遠回り」になってしまった。
「そうだ、瑞樹。紅生姜、乗せすぎ注意な!」
「わかってるよ。」
「あれは牛丼じゃねえ。紅生姜丼に牛肉添えて、間違いない。」
右斜め下から見上げた木島君は、珍しく真剣な顔をしている。
「木島君は辛いのダメだもんね。」
「うっせえよ。残さないで食えよな!」
夏の太陽はもうアスファルトを灼き始めている。
向かい風が仄かにあまからい匂いに変わる。
狂い咲きのつつじが朝露を弾いて輝くのを僕は横目に見つめていた。
(続)
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これが一話目。
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二話目。
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死生観シリーズの別のやつ。
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大正時代の文学青年の話はこちら。
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久しぶりのエッセイは大学の単位の話。
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ゆきお様・作
また別の世界線。
いや、同一世界かもしれない。
もし、二人の瑞樹と二人の木島が出会ったなら。
ナゲット合計何個食べるのかなあ……
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何が好き?
ポテトチップスよりも
お・ぬ・し