迷子の夜、座標のない僕
よもぎさんに捧ぐ
夜中、帰り道だった。
「だった」と言い切るのは、あとから地図上で確認したからで、その時の僕にはそれが帰り道なのかどうかすら怪しかった。片手にスマートフォン、耳にはまださっきまでの通話の残響みたいなものが残っていて、言葉の断片が脳内でリフレインしている。要するに、僕は現実の道路ではなく、会話の余韻の中を歩いていた。
気づけば知らない道だった。
ああ、やったな、と思う。別に焦りはない。最初は。夜というのは不思議なもので、少しくらい迷っても、それを「冒険」とか「散歩」とか、都合のいい言葉に変換してくれる余白がある。昼間だったらこうはいかない。昼の迷子はただの失敗だが、夜の迷子は少しだけ意味ありげに見える。
僕はその意味ありげな空気に甘えた。
ポケットからスマートフォンを取り出して、地図アプリを開こうとする。画面は一瞬だけ光って、すぐに落ちた。バッテリー切れ。ああ、なるほど、と妙に納得する。こういうときに限って、こういうことは起こる。まるで「お前はちゃんと迷え」と言われているみたいだ。
仕方なく、近くにあったコンビニに入った。
明るい。やたらと明るい。蛍光灯の白い光が、さっきまでの夜の曖昧さを一気に消し飛ばす。雑誌コーナーの横に、簡易的な地図が貼られているのを見つけて、しばらくそれを眺める。
現在地がわからない。
地図というのは、自分の位置がわかって初めて意味を持つ。そうでなければ、ただの模様だ。僕はその「ただの模様」を見ながら、ああ、今の自分はこれだな、と思う。どこにいるのか分からないまま、世界の全体像だけを眺めている。
店を出る。
夜の空気がさっきより少し重く感じる。
そのとき、足に違和感が走った。じわりとした湿り気。見下ろすと、膝小僧から血がにじんでいた。そういえば、さっき坂道で軽く転んだ気がする。あのときは何ともなかったのに、こうして「見て」しまうと、急に痛みがはっきりしてくる。
人間の体は正直だが、感覚は案外いい加減だ。
見なければなかったことにできる痛みも、認識した瞬間に現実になる。僕はしばらくその膝を見つめて、ため息をついた。
「帰ってから洗えばいいか」
誰に言うでもなく、そうつぶやく。自分に対する指示みたいなものだ。今ここで対処するよりも、「あとでちゃんとやる」という約束で乗り切る。人はよくそうやって、目の前の問題を先送りにする。
ふらふらと歩き出す。
方向感覚はもうあてにならない。ただ、なんとなく「こっちだろう」という感覚だけを頼りに進む。そういうときに限って、道はどんどん細くなり、街灯も減り、音も少なくなっていく。
その途中で、声をかけられた。
「おい、何してんだよ」
振り返ると、木島だった。口にタバコを咥えて、いつも通りの間の抜けた顔をしている。
「お前こそ何してんだよ」
「いや、ちょっといい女見かけてさ」
「……で?」
「気づいたら迷子」
僕は思わず笑った。なんだそれ。高校生でもやらないだろう。いや、やるかもしれないが、少なくとも「いい歳した大人」がやることではない。
「通報されるぞ、そのうち」
「されてないからセーフ」
木島は悪びれもせずそう言って、煙を吐いた。その煙が夜の空気に溶けていくのを見ながら、僕は少しだけ安心する。ひとりじゃない、というのはそれだけで状況の意味を変える。
結果的に、僕たちは二人で迷うことになった。
どっちが正しい方向を知っているわけでもないのに、「こっちじゃないか」「いやこっちだろ」と言い合いながら歩く。途中で妙に広い空き地を見つけたり、見覚えのない自販機を発見したり、どうでもいい発見だけが増えていく。
まるで探検だ。
さっきまでの不安が、少しだけ別のものに変わる。状況は何も解決していないのに、感じ方だけが変わる。結局、人間なんてそんなものだ。
しばらく歩いて、ようやく見覚えのある通りに出た。
「あ、ここ知ってる」
「マジか」
そこからは早かった。方向が確定した途端、道はただの移動手段に戻る。さっきまでの迷いが嘘みたいに、足取りが軽くなる。
アパートの前に着いたとき、僕はようやく「帰ってきた」という実感を持った。
ポケットに手を突っ込む。
鍵がない。
一回、もう一回。左、右、また左。ない。さっきまでの安心感が一気に崩れる。なんでこういうタイミングなんだ。
「どうした?」
「鍵がない」
「マジかよ」
木島が笑いをこらえながらこちらを見る。僕はイライラしながらカバンを漁る。こういうとき、人は同じ場所を何度も確認する。まるで、見れば増えるとでも思っているみたいに。
そして、あった。
カバンの底に、普通に入っていた。
「……あったわ」
「だせえ」
否定できない。
ドアを開けて、部屋に入る。熱がこもっている。さっきまでの夜の空気とは違う、閉じた熱気。誰もいないはずなのに、妙に生き物みたいな重さがある。
靴もそのままに、冷蔵庫を開ける。
中にあった桃をひとつ掴んで、そのままかぶりついた。冷たい。甘い。果汁が手から腕に流れる。そんなことはどうでもよかった。
ただ、何かで満たしたかった。
喉の渇きなのか、さっきまでの不安なのか、それとももっと別の何かなのか、自分でもよくわからない。ただ、口を動かしていないと落ち着かない。
一口、また一口。
甘さが広がる。けれど、その甘さはどこか表面的で、すぐに消える。残るのは、ベタつきだけだ。
床に落ちた果汁が、じわりと広がる。
僕はそれを見下ろしながら、さっきのことを思い返す。迷ったこと。転んだこと。木島に会ったこと。鍵を探したこと。
全部、大したことじゃない。
でも確かに、何かがズレていた。
どこで、何が、どうズレたのかはわからない。ただ、元に戻ったはずなのに、どこか戻りきっていない感覚だけが残っている。
桃の種をシンクに投げる。
小さな音がして、それきり静かになる。
僕はしばらくその場に立ち尽くしていた。
