迷子の符号──『水辺のつつじ』ep.12
──夏の月は火薬と煙草の匂いがした。
人とすれ違うことを避け、小径へ小径へと逃げ歩いていたところ、どうやら僕は道に迷ったらしい。
蔦の絡む平屋の大窓は割れていて、庭は背の高いやたらとふさふさとした猫じゃらしに覆われている。
夢でも見ているんじゃないか、と不安になった。
不安ついでにあの庭で手持ち花火に興じる人々の笑顔というものを脳の中で補完した。
そうして僕は、帰るあてのない哀しき青年という符号を自分に貼り付けて悦に浸った。
ふと、足に痛みを覚え膝をついた。
サンダルの足趾の股に血が滲んでいる。
見てしまうと、痛みが倍増される現象には何か名前があるのだろうか?
僕はもう、帰るあてのない哀しき青年ではなくなっていた。
ただの小傷で大騒ぎする人である。
「落ちつけ……落ちつけ……」
耳を澄ますと、緑の擦れる音の先に車の往来やクラクションの音が聴こえた。
音のする方を目指して歩くと、見慣れた大通りに出た。
国道二四六はやはりエンジン音が眩くて、ガソリン臭が騒がしい。
いわゆる都会の喧騒の凝集で、三ヶ月経っても順応困難。
街の方が僕に拒絶反応を示している気さえする。
僕は街と勝手ない攻防戦を繰り広げつつ、三十分かかってようやくアパートに戻ることができた。
キーケースが見当たらない。
右のポケットを一回、左を二回、そしてまた右を二回……
ない。
まるでおやつのビスケットが増えると信じて止まない無邪気な子どものように、僕は幾度となくデニムのポケットを叩く。
片方だけロールアップしたネイビーのデニムの裾はまだわずかに濡れていて、その重みに負け傾き気味にずり落ちている。
左手で穿き口を引き上げようとしたときポケットがブブブと音を立て、震えた。
手を突っ込むとスマートフォンの角に指が触れる。
──至急、ご確認ください。
無意識にため息が漏れていた。
瞬間的に浮き足立った感情が、あっという間に泥溝に沈んでいく。
でも、それでよかった。
いよいよ喉の渇きが限界だった。
アパート横の自販機の前に立つ。
ウアンウアンと熱を吐く音が耳の底に貯まっていく。
「水……水……」
蒼白い光に目を細める。
「財布……財布……」
鞄を漁る。
「水……売り切れ……」
鞄から財布を取り出した拍子に、アスファルトを打つ金属の音が聴こえた。
土のついたサンダルの足の間に落ちたのはキーケースだった。
「え……?」
僕は日頃、キーケースは服のポケットに入れることにしている。
なのになぜ。
目線を落としたまましばらく考えていた。
拾い上げると、得体の知れない草の破片や土がついていることに気付く。
「何これ……」
背後を通り過ぎる足音が途端に早くなった。
僕の呼吸も早くなった。
慌てて口をおさえる。
いよいよ僕から地の文という概念が抜け落ち、全てが鉤括弧に集約されるようになってしまったらしい。
そして結局、何も買わずに部屋のドア前に戻ってきた。
鍵を回す指がぎこちない。
繊細なものを壊さぬようにと慎重になっていた時の指先の名残。
誰もいない部屋に「ただいま」と声をかける。
ムワッとした熱と湿り気を持った空気は、扉の向こうよりよっぽど生物的な密度を感じて気味が悪かった。
途端に神経が過敏になり、肌にTシャツがこすれるのが耐えられなくなった。
僕はサンダルを脱ぎ散らかすと、すぐにシャツの裾をまくり上げた。
汗と煙草、そして火薬の匂いが舌の根を押し込めた。
僕は慌てて口と鳩尾をおさえる。
目頭が灼けるように痛む。
そこには傷なんてないのに、しみる。
──きっとあれは夏の最適解。
それも、正しい大学生、正しい十八歳の。
ユニットバスの足元に流れ落ちる僕の身体を洗った湯や泡。
それらが排水口に吸い込まれていくのを見つめ、これさえ洗い流せば元に戻れるはずだと信じて何度も何度も髪を掴み、身体をこすった。
足趾の股の傷に泡が触れ、ジクジクと疼いた。
それでもやめられなかった。
蛇口をしめる。
どれだけ固く締め上げても、ぽたん、ぽたんとだらしなく雫を垂れ流す。
僕はバスタブの縁を掴んだまま、しばらくその雫を眺めていた。
ようやくバスマットに両足を乗せた時、鏡に映る僕は随分と大人びて見えた。
それでいて腹が立つほど幼い目をしている。
「見るな! 見るな見るな……見るな!」
髪をワシワシと拭き乱しながら僕は叫んだ。
絶叫の風は気管を毳立たせ、喉を灼ききる。
まただ。
また胸骨の裏がざらざらとして熱い。
僕は冷蔵庫を開ける。
最後の一つ、もう形を保っていることがやっとになった紫紅の果実を引っ掴む。
これで胸の熱がどうにかならないことはわかっている。
それでも……
夢中で貪った。
果汁は腕や頬をつたい、床を濡らす。
「甘……」
床も、身体も、感情も、その全てがベタついている。
洗濯機の中ではまだ、夏の模範解答がうずくまっていた。
(続)
↑
国道246に嫌われた男の話まとめ読み。
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蝉の音当てクイズは野川開催多め。
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【エッセイ】
娘、春休み中につき毎日図書館通いしているのだがこのおじさんに会えない。
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【エッセイ】
もはや何書いたか覚えてません。
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ゆきお様・作
きっとあなたもすれ違っている。
この二人に!
さっきの二人はきっと、彼らだ。
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