砂糖漬けのお月様──『水辺のつつじ』ep.11
三日ほど雨が続いた。
アパートのベランダから見えるわずかな土は縦横無尽に伸びる草に覆われている。
──午前六時四十分。
枕元の読みかけの文庫本にはきちんと栞が挟まっていた。
喉が渇いている。
こんなにも空気は湿っているのに、どうして喉が渇くのだろう。
買ったまま、まだ一度も使っていない体温計を引き出しにしまった。
ずっと考えている。
もし数値としての体温が平熱を超えているのなら、ここ一ヶ月ほど続くぼんやりとした感覚にも何かしらの名前がつくはずだ。
しかし、平熱であったなら……?
ここで僕は考えることを諦めた。
脳が砂糖漬けにでもなったみたいで、ひどく胸が灼けている。
冷たい水を飲んでも、胃が膨らむばかりで胸骨の裏はいつまで経っても熱いままだった。
ウッと上がってくる空気を喉奥に押し戻す。
それは冷たいシャワーを浴びても同じことで、身体が冷えた分、心臓を取り巻く熱をより際立たせるのみだった。
何気なしに、テレビをつける。
──花火大会、浴衣……
──海……
「ああ!」
僕はベッドに飛び込み、枕に口をつけて叫んだ。
うつ伏せのまま、スマートフォンを引っ掴む。
──午前七時三十七分。
時刻表示の下に、メッセージが表示されている。
──木島和馬
今日十二時、フォレマ前集合。
遅れんなよ!
画面を眼球すれすれまで近づける。
見えない。
腕を伸ばし、遠ざける。
ひとしきり繰り返したあと、僕はベッドの上であぐらをかき、スマートフォンを裏返して考えた。
どうして連絡先を知っているのだろう。
「了解」と打った後、一抹の不安が過った。
そして、「十二時は昼で間違いないですか? それとも夜ですか?」と送った。
するとすぐ、軽快な通知音が流れ始めた。
え、何?
壊れた?
どうやら通話らしいことに気づき恐る恐る画面をなぞる。
途端に笑い声が左耳を直撃した。
「ほんっとおもしろいな、お前! 夜だったら日付変わって明日になっちまうぞ?」
木島君はひとしきり笑い、「とにかく昼の十二時だから! うん。後で。はーい!」と言うと、ふざけた木琴みたいなくだる音階で電話が切られた。
途端に忙しくなった。
今日は雨が降らないらしいこと、最高気温は三十五度で水瓶座の運勢は十一位であることなどをメモした紙と、財布、それから本を鞄に詰める。
僕は十一時五十分に間に合うようにアパートを出た。
うだるような暑さだ。
歩き始めて三十秒と経たないうちに、シャツはベッタリと身体にまとわりついた。
サンダルの底はアスファルトに焼かれ、黒い髪は太陽光を豪快に飲み込んで熱くなっている。
ただ、この瞬間は胸のざらついた熱を感じずにいられた。
フォレストマートの看板前にはもう木島君が待っている。
やたらに大きなリュックを背負いスマートフォン片手に僕に向かって手を挙げた。
赤色の落ちかけた髪は地上の太陽といった様相を見せている。
「早ェよ! まだ四十五分だぞ?」
幾分か、反応に困った。
だって、十二時待ち合わせで今が十一時四十五分。
僕は五十分を目掛けてここに来たけど彼はそれより前からここにいたということになる。
「ごめん。」
「いや、何で謝んだよ!」
唐突に木島君がヘッドロックをかましてきたので、僕はふらついた。
それを見ていた高校生三人組が、「ちょっとちょっと! だめですよ!」と木島君を僕から引き剥がした。
三人組の中の一番背の高い子が「大丈夫ですか?」と僕の肩や腕に触れながら聞く。
その間、木島君は残りの二人に弁明していた。
どうやら僕は、やばい奴にカツアゲされそうになっている人に見えたらしい。
情けないやら何やら、得体の知れない感情に笑うしかなかった。
「最近の高校生って、優しいんだね。」
「何言ってんだよ。俺らだって三月までは高校生だったじゃん!」
「あ……そっか。そうだね。」
あまりの暑さに負け、僕たちはフォレストマートで涼むことにした。
木島君は小玉スイカを見つけるなりヒョイと手に取り、
「スイカ割りしようぜ!」
と叫んだ。
店内に響き渡るあまりに無邪気な提案。
品出しをしていた同い年くらいの店員がぷっと噴き出し、「すみません……」と恐縮している。
僕も慌てて「すみません……」と頭を下げた。
「瑞樹? スイカ割り……」
「いや、遠慮しとく。」
「はあ? なんで?」
「残虐性が……」
「ふーん?」
木島君は腑に落ちない様子だったけれど、「じゃあ……」と店の中を歩き回る。
「ちょっとそこで目つむって待ってな。」
僕は言われた通り目を閉じた。
なかなか戻ってこない。
知らない声が前や後ろから聴こえる。
……これ絶対変な奴だと思われているよね?
いよいよ僕の頬が羞恥心でオーバーヒートしかけた瞬間、両頬に冷たいものが当たった。
「もういいよ!」
カバのイラストのついたスイカ味の棒アイスが二本、目の前で揺れている。
「食お!」
いたずらっ子みたいな目の木島君はそう言うやいなや、僕の背中の方に回りこみ、グイグイ店の外に押し出した。
背中が冷たい。
「いくら? いくらだった?」
「気にすんなって!」
再び太陽に焼かれ始めた木島君と僕は、顔を見合わせ同時に同じ方向を指さした。
その先にあったのは、こぢんまりとした公園。
桜の葉が青緑に生い茂り、涼しそうに見える。
信号が変わり、木島君は飛び跳ねるように公園へ突入していった。
僕はだいぶ離れてのろのろと歩いている。
先に到着した木島君はさっそくアイスにかぶりついている。
僕も隣に座って、袋を破いた。
木陰は思ったほど涼しくはない。
その上、あまりにも不都合な事実を抱合していた。
「え? なんて?」
「あの! ……ない!」
「は?」
木島君は耳の後ろに手を置いたり、僕の口に耳を近づけたり。
僕は僕で、人生史上最大音量の声を発し喉を傷めるなどしていた。
木島君は公園の出口を親指で示し、立ち上がる。
僕はうなずき、その後ろに続いた。
「いやあ、参ったな! 蝉! 瑞樹、お前の声は蝉の周波数に惨敗を喫しているな!」
あれ……?
木島君ってこんな喋り方だったっけ。
「どう? お前が言いそうなこと!」
おどけた顔でそう言うと彼は赤いシャーベットアイスの最後の一口を飲み込み、僕の肩に肘を乗せた。
頭のてっぺんから足の先まで真夏の太陽に焼かれている。
「うわ……早く食っちゃえよ……!」
溶けて、かろうじて棒にしがみつく形となったアイスをなんとか食べ切った。
ベタベタの指先を眺めていると、木島君が言う。
「なんか夏らしいことしたくね?」
やたらと地面を蹴飛ばしている。
もしかして、スイカ割りを無碍に断ったから怒っている……?
「夏らしいこと……?」
そう言えばこの間、バイト先の店長があれやらこれやら言っていたなあ……
木島君はクイズ番組の効果音みたいな音を口づさんでにやにやしている。
「蝉の……鳴き声……当てクイズ……とか?」
一瞬この世の音という音全てが夏の魔物に吸い込まれたかのような空白が僕たちの間を流れた。
「おいおい! 蝉は……蝉はだめだろ! たった今散々聴いてきたじゃん!」
彼は手をバンバン叩き、汗とも涙ともわからない雫を撒き散らしている。
再び、僕の声が惨敗を喫してしまう公園に戻りベタベタの手を洗った。
そしてまた僕たちは耳を塞ぎつつこの公園をあとにした。
相変わらずの暑さに眩暈がする。
耳には蝉の音がこびりついてしまって離れない。
そこに小さな子どもの笑い声が混じり合う。
木島君が水鉄砲をくらって笑っている。
「瑞樹!」と呼ぶ声が小さくなりながら何度も響く。
額で冷たい水の粒が砕けた気がする。
気づいた時にはもう蝉の声は止み、子どもたちの姿はなくてあんなにも全身を灼き尽くした太陽もどこにもなかった。
月のひんやりとした白い光が、青黒い葉陰の間から注いでいる。
空に雲がかかる。
「ん?」
顔を左に傾けると、雲は木島君の口から立ち昇っていく。
僕はわざとらしく咳をしながら身体を起こした。
木島君は悪びれるでもなく、「内緒な。」と言う。
煙の行方を眺めた。
灰色だとばかり思っていた見果てぬ塔は思っていたより白かった。
白雲が消えると木島君は大きなリュックを開けた。
「花火だ……」
「やる?」
「うん。」
木島君のリュックから出てきたのは、色とりどりの花火だった。
それを懐かしいと言える記憶がないことが少しだけ寂しかった。
それでも、派手な色の火を吹く花火を咥え、追いかけまわしてくる木島君から逃げ回っている僕は笑っている。
……これが夏、なのかな。
相変わらず木島君は花火を振り回している。
僕はしゃがみ込んで線香花火を見つめていた。
「うっせーな、木島。黙ってろよ……」
「え?」
「お前の心の声。どう?」
「ああ……いや……」
「はっきり言っちゃえって!」
「……」
恐る恐る木島君の横顔を見る。
穏やかに笑っている。
「うん。」
「なんだと? ゴルァ!」
「うわ!」
線香花火の球が割れて、足元で砕けた。
水に溶ける、焼け落ちた火薬の匂い。
手に、髪に、染み付いている。
賑やかすぎた今日が少しずつ終わりに近づこうとしている。
汗が冷えて、また僕の胸骨の裏の熱はぶり返してしまう。
また、喉が渇いている。
夏の夜、こんなに月は潤んでいるのに。
(続)
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【エッセイ】
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ゆきお様・作
やはり私は筆を折るしかない。
どうあがいても私には書けない。
この、アイデアを得てから書き終えるまでのスピード。
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お・ぬ・し