『夢に置いてきた夏』
よもぎさんに捧ぐ
木島君に、誘われた。
それだけのことなのに、その一文がやけに頭の中で反響していた。ファーンファーンと瑞樹ぃぃぃと…。
朝の空気は湿っている。1日替えなかったおしめみたいに。5日も雨が続けば、当然か。窓の外では草が好き勝手に伸びて、ベランダのわずかな土を覆い尽くしている。
喉が渇いていた。カラカラと音も鳴らないくらいに。
こんなにも空気は重く、水分を含んでいるはずなのに、どうして自分の内側だけが干からびているように感じるのか、うまく説明できない。
体温計が引き出しにあることは知っている。買ったまま、一度も使っていない。
もし熱があったら、この一ヶ月続くぼんやりした感覚に「理由」がつく。
でも、もし平熱だったら。
そこから先は、考えないようにした。
スマートフォンに届いた短いメッセージ。
「今日、十二時。フォレマンマ・ミーア前。遅れんなよ!」
木島君らしい、軽くて、強引で、逃げ道のない文章。
返事はした。
「了解」と。
それだけで、なぜか少しだけ世界が現実味を帯びた気がした。
けれど、身体はついてこなかった。
玄関を出た瞬間、熱気がまとわりついてくる。
アスファルトの照り返しが足元からじわじわと這い上がってきて、胸の奥の熱と混ざり合う。
三十秒も歩かないうちに、これは無理だと分かった。
引き返した。
鍵を閉める音がやけに大きく響く。
部屋の中は静かで、湿っていて、それでいてどこか空っぽだった。
ベッドに倒れ込む。
シーツの冷たさが一瞬だけ気持ちいい。
でもすぐに体温でぬるくなって、そのぬるさが妙に現実的で、逃げ場がない感じがした。
――少しだけ、目を閉じるつもりだった。
気がつくと、夏の真ん中にいた。
強い光。
照りつける太陽。
遠くで鳴く蝉の声が、やけにくっきりと聞こえる。
「おっせーな!」
振り返ると、木島君がいた。
赤みがかった髪が光を弾いて、本当に太陽みたいに見える。
「スイカ割りしようぜ!」
唐突で、意味が分からなくて、でもなぜか納得してしまう提案。
気づけば、棒を持たされている。
ぐるぐる回されて、足元が不安定になる。
笑い声が近くで弾ける。
自分も笑っている。
棒を振り下ろすと、乾いた音がして、何かが割れた。
甘い匂いが広がる。
「お前、センスあるな!」
そんなことを言われて、また笑う。
場面が変わる。
今度は木陰。
ベンチに座って、何かを食べている。冷たい。甘い。たぶんアイスだ。
「じゃあ次な、蝉の鳴き声当てクイズ!」
「いや、さっきからずっと鳴いてるじゃん」
「そこがいいんだろ!」
意味が分からない。でも、笑える。
耳を澄ます。
ジジジジジ……ミーンミンミン……
どれがどれだか分からないまま、適当に答える。
「ブー! それは違うやつ!」
「何が違うんだよ」
どうでもいいやり取りが、やけに楽しい。
また変わる。
暗くなっている。
空は藍色に沈んで、ところどころに白い光が滲んでいる。
「花火、やるか」
木島君がリュックから取り出したのは、色とりどりの細い棒。
火をつけると、パチパチと音がして、火花が弾ける。
光が手の中で生まれて、消えていく。
「ほら、逃げろ!」
口にくわえた花火を振り回しながら追いかけてくる。
危ない。くだらない。子どもみたいだ。
それでも、走る。
笑いながら逃げる。
こんなふうに笑ったの、いつぶりだろうと思う。
しゃがみこんで、線香花火を見つめる。
小さな火の玉が、じっと耐えるように揺れている。
やがて、ぽとりと落ちた。
その一瞬が、やけにきれいで、少しだけ寂しい。
――目が覚めた。
天井。
見慣れた、何の変哲もない白。
部屋は静かだった。
蝉の声も、笑い声も、何もない。
喉が渇いている。
さっきまであんなに水気のある世界にいたのに、現実の自分は相変わらず干からびている。
胸の奥が、じんわりと熱い。
冷めない。ずっとそこにある。
身体を起こす。
シーツはぐちゃぐちゃで、少し湿っている。
夢だった、と理解するのに少し時間がかかった。
木島君と遊んだ記憶は、確かにある。
でもそれは現実じゃない。
ただの、都合のいい再生だった。
スイカ割りも。
蝉のクイズも。
花火も。
全部。
静かすぎる。
さっきまでの騒がしさが嘘みたいに、世界が音を失っている。
その落差が、やけに堪える。
ベッドの上に座ったまま、しばらく動けなかった。
――楽しかったな、と思う。
同時に、どうしようもなく寂しいとも思う。
スマートフォンが、すぐそばにある。
画面をつければ、何かが変わるかもしれない。
メッセージが来ているかもしれない。
あるいは、来ていないかもしれない。
どちらにしても、それを確認するのが少し怖かった。
窓の外を見る。
雲の向こうに、白くぼやけた月が浮かんでいる。
輪郭があいまいで、どこか甘ったるい光。
手を伸ばせば触れられそうなのに、決して届かない。
まるで、さっきまでの時間みたいだと思った。
喉が渇く。
水を飲めば、少しはましになるかもしれない。
でもきっと、あの胸の奥の熱は消えない。
分かっている。
それでも。
あの時間が、全部嘘だったとしても。
笑っていた自分は、たしかにいた。
それだけで、ほんの少しだけ。
今日という日が、空っぽではなかった気がした。
