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「ゼロリスク」という病、あるいは新幹線の奇跡について——エアバス運航停止と欧州を縛る「予防原則」の呪縛

はじめに

休暇を楽しみにしていた旅行の当日、空港の掲示板に無機質な「CANCELLED(欠航)」の文字が並んでいるのを見たときの絶望感を想像してみてください。あるいは、重要な商談に向かうビジネスマンにとって、それは単なる不便を超えた「損害」です。

ここ数日、空の旅はかつてないほどの混乱に見舞われています。その中心にあるのは、欧州の航空大手エアバス社です。 事の発端は、10月末、メキシコのカンクン上空でのある出来事でした。一機のA320が突如として急降下を始めたのです。パイロットの操作を受け付けない恐怖の時間。幸いにも最悪の事態は免れましたが、その後の調査で判明した原因は、現代技術の意外な脆さを露呈するものでした。機体制御ソフトウェアが、太陽フレアによる宇宙放射線の影響に対し脆弱だったのです。

この調査結果が判明した11月末、エアバス社が下した決断は劇的でした。およそ6,000機もの機体に対する事実上のリコール(回収・修理)措置です。この突然の発表により、世界中でフライトスケジュールがズタズタになり、週明けの株式市場で同社の株価は急落しました。

なぜ、彼らはこれほどドラスティックな、そして自らを傷つけるような措置をとったのでしょうか? そこには、現代社会、特にヨーロッパを支配する強力な倫理規範、「予防原則(Precautionary Principle)」の影が見え隠れします。


「転ばぬ先の杖」の哲学

「予防原則」という言葉は、少し堅苦しく聞こえるかもしれません。しかし、その根底にある考え方はシンプルです。「重大な被害が予想される場合、科学的な確証が完全でなくとも、予防的な措置を講じるべきである」というものです。

この概念を広めたのは、哲学者のハンス・ヨナスでした。1979年、冷戦や環境破壊への懸念が高まる中、彼は著書『責任という原理』でこう説きました。「あなたの行為が、未来の生命の可能性を破壊しないように行動せよ」。かつて人類の技術は、失敗しても修復可能な範囲のものでした。しかし、核技術や遺伝子工学、そして現代の航空システムのように、一度の失敗が取り返しのつかない破滅をもたらす可能性がある現代において、私たちは「疑わしきは止める」という倫理を内面化してきました。


欧州のDNAに刻まれた「疑わしきは罰せよ」

この予防原則が、単なる哲学に留まらず、社会運営のOS(基本ソフト)として機能しているのが欧州(EU)です。今回のエアバスの対応が過敏に見えるとしたら、それは彼らが「リスクに対して極めて不寛容な社会」の産物だからです。

欧州における予防原則の浸透ぶりを示す、わかりやすい例がいくつかあります。

一つは、遺伝子組み換え作物(GMO)への対応です。アメリカでは「科学的に有害であると証明されない限り、販売を認める」というスタンスが一般的ですが、EUはその真逆を行きます。「安全であることが完全に証明されない限り、市場には入れない」のです。たとえ科学界の多くが「安全だ」と言っても、長期的な影響が未知数である限り、EUは頑なに扉を閉ざします。これが「フランケンフード(怪物は食品)」という世論を生み、厳しい規制へとつながっています。

もう一つは、化学物質に対するREACH規制です。これは「No Data, No Market(データなければ市場なし)」というスローガンで知られています。企業が化学物質を販売したければ、その物質が安全であることを企業自らが証明しなければなりません。「危険かどうかわからない」グレーゾーンの物質は、それだけで排除される運命にあります。

つまり、ヨーロッパにおいてリスクとは「管理するもの」ではなく、「排除するもの」なのです。この文脈に置けば、エアバスの行動は論理的です。「太陽フレアで制御不能になるかもしれない」というリスクが少しでもあるなら、たとえ確率が低くても、たとえ巨額の損失を出してでも止める。それが、欧州の正義なのです。


リスクゼロを追い求める「傲慢さ」

しかし、ここには落とし穴があります。法学者であり行動経済学の権威でもあるキャス・サンスティーンは、2005年の著書『予防原則を超えて(原題:Laws of Fear)』の中でこの予防原則が孕むパラドックスを鋭く指摘しています。彼は、過度な予防原則は社会を「麻痺」させると警鐘を鳴らしました

サンスティーンはこう述べます。「あるリスクに対する予防措置は、ほぼ必ず別のリスクを生み出す」。

今回のエアバスの件で言えば、「墜落のリスク」をゼロに近づけようとした結果、「移動手段の喪失」「経済活動の停滞」、そして航空会社の経営悪化による「将来的な安全投資の減少」という別のリスクを生み出しました。 もし、私たちが「あらゆるリスクを事前に排除しなければ行動してはならない」という厳格な予防原則に従っていたらどうなっていたでしょうか? 墜落の危険がある飛行機はもちろん、副作用のリスクがある医薬品も、この世には存在しなかったはずです。

サンスティーンが指摘するのは、「ゼロリスク」などというものは幻想に過ぎないという事実です。私たちは、すべての存在を安全なバリアで包み込むことはできません。それにもかかわらず、現代社会は「何かあったらどうするんだ」という声に押され、無限のコストをかけて限りなくゼロに近いリスクを追い求め続けています。それはある種の「傲慢さ」であり、結果として私たちの手足を縛り、恐怖による麻痺状態(Paralysis)を引き起こしているのです。


日本の新幹線が教えてくれる「共存」の知恵

では、私たちはリスクに怯え、進歩を止めるべきなのでしょうか? それとも、安全を犠牲にして突き進むべきなのでしょうか? この二項対立を乗り越えるヒントが、実は私たちの足元、日本の「新幹線」にあります。

新幹線は、開業以来60年以上、乗客の死亡事故ゼロという驚異的な記録を持っています。しかし、新幹線は「予防原則」によって麻痺しているわけではありません。もし、EU的な「少しでもリスクがあれば運行しない」という極端な予防原則を適用していれば、地震大国であり台風の通り道である日本で、あれほど過密なダイヤを維持することは不可能です。

新幹線の安全思想は、「リスクをゼロにする(起こさせない)」という消極的な予防だけではなく、「リスクは存在することを前提に、それを制御する」という積極的なリスク管理に基づいています。 例えば、新幹線には「早期地震検知システム(ユレダス)」などが導入されていますが、これは地震が起きないように祈るものではなく、揺れが到達する数秒前に送電を止め、非常ブレーキをかける仕組みです。 また、彼らは「何かあったら全車両をリコールして止める」という事後的な対応に頼るのではなく、日々の異常なまでに厳格な点検と、「フェイルセーフ(故障時は安全側に動作する)」の思想によって、リスクを管理可能なレベルに封じ込めています

新幹線が証明しているのは、「安全」と「定時運行(効率)」はトレードオフではないということです。徹底した技術と運用によって、リスクと共存しながら、高いパフォーマンスを発揮することは可能なのです。エアバス社が陥ったような、「リスク発見→全停止」というパニック的な反応とは対照的に、日本の鉄道システムは、リスクを恐れるのではなく、リスクを飼い慣らすことで信頼を勝ち得てきました


恐怖に支配されず、賢明に生きるために

サンスティーンは、無分別な予防原則の代わりに「慎重な予防(Prudent Precaution)」を提唱しています。それは、最悪の事態を想定しつつも、リスクをゼロにすることに固執せず、メリットとデメリットを天秤にかけながら前に進む態度です。

私たちは、飛行機に乗るたびに、ある程度のリスクを受け入れています。それは、目的地に早く着くという利益と引き換えにした契約です。生きることは、本質的にリスクを伴います。 「安全」は絶対的な善ですが、それを追求するあまりに社会が機能不全に陥り、移動の自由や経済活動という「生の喜び」が失われてしまっては本末転倒です。

今回のエアバスの混乱は、テクノロジーに対する過信と、それに対する過剰な恐怖の間で揺れ動く、現代社会の縮図のように思えます。欧州のような厳格な予防原則は、確かに安心をもたらすかもしれません。しかし、私たちが本当に目指すべきは、リスクから逃げ回ることではなく、新幹線のようにリスクを直視し、それを手なずける叡智を持つことではないでしょうか。

パラシュートを背負って生きるのも一つの選択ですが、風を読んで翼を広げることなしに、私たちはどこへも行けないのですから。

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