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日本のテレビに覚えた違和感と、私の内なる変化

はじめに

久しぶりに、日本の地上波テレビをじっくりと観る機会がありました。

場所は、パスポートの更新手続きを待つロビーです。手持ち無沙汰な待ち時間、設置されたテレビに、何気なく目を向けました。古い建物の奥で電波の状態が良くなかったこともあり、私はテレビを観ながら、自分の順番を待っていました。時計はちょうど正午を少し回ったところ。放映されていたのは、フジテレビ系列の『ぽかぽか』というお昼のバラエティ番組でした。

画面の中では、出演者たちが麻雀牌を何個まで崩さずに2段重ねできるか、というゲームに興じていました。

その光景を目にした瞬間、私の胸の中に強烈な違和感が湧き上がってきたのです。 「本当に、ばからしい……」

これが、公共の電波を使って、平日の正午に放映すべきものなのだろうか。何より私を困惑させたのは、画面に映し出される出演者たちの姿でした。大声を出し、目を見開き、大げさに顔を歪める。失礼ながら、その誰もが「醜悪」な顔をしているように感じられてしまいました。

一瞬、思いました。テレビの色味がズレているのではないか、或いは私の感覚がおかしくなってしまったのだろうか、と。


「見知らぬ人」として眺める母国の日常

しかし、一呼吸置いて考えてみると、それはテレビの故障でもなく、感覚の異常などでもありませんでした。これは特定の国を賛美したり、どちらの文化が優れているかという単純な比較の話ではなく、日本という社会を外側から眺めることで起きてしまった、私自身の社会的な立ち位置と内面の変化であると気づいたのです。

社会学者のゲオルク・ジンメルは、ある社会の内部にいながらも、完全には同化せず、一歩引いた独自の視点を持つ存在を「見知らぬ人(異邦人)」と呼びました。

フランスでの暮らしも、気づけば8年になります。日本という地に戻りながらも、私の眼差しには、外側から母国を眺め続けたことで得た「客観性」と「心理的距離」が組み込まれていました。かつては日常の背景として無批判に受け流せていた地上波のノリが、今の私には、その内容の空虚さごと、あまりにも鮮明に透けて見えてしまうのです。


書き換えられた「ハビトゥス」と、新たな美の基準

同時に、私の中で物事を「美しい」と感じるための基準、あるいはフィルターそのものが変わってしまったのだとも感じました。

社会学者のピエール・ブルデューは、ある環境で長年暮らすうちに無意識のうちに身体に染みつく、思考や行動、趣味の様式を「ハビトゥス」と呼びました。フランスで社会学を専攻し、その文化圏で過ごした8年間によって、私のハビトゥスは静かに、しかし決定的に書き換わったのだと思います。それは単に人間の「顔かたち」、つまり表面的な美醜の話ではありません。その人の生き方や歴史が内面からあふれ出るような、日々の「身のこなし」や佇まいにこそ美の優先順位を置くという、身体化された新しい美の基準でした。

そして今、私の中で「人の品格」こそが、美醜の新たな判断基準になったのだと確信しました。

品格を脇に置き、その場限りの記号として消費されるために作られた出演者たちの表情や仕草を見たとき、私の新しいハビトゥスが拒絶反応を起こし、それを「醜い」と直感的に断じたのだと思います。

それは感覚の麻痺ではなく、人間を見る目がより本質的で、深いものへと進化した証なのです。


パスポートの更新、そして内面の更新

生まれ育った国の文化を、一歩引いた「他者の目」で見つめている自分。 パスポートを更新するための空間で、私は図らずも、社会における自分の立ち位置の変容と、内なる美意識の「更新」を、自身の身体と思考を通して確認することになったのです。

それは、将来、永久帰国の際に感じるかもしれないとぼんやりと考えていた「逆カルチャーショック」に出会った瞬間でした。

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