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夏の約束

蝉の声は、不思議だ。

あれだけ毎日うるさいほど鳴いているのに、大人になって聞くと、胸の奥の引き出しを勝手に開けてしまう。

あの夏。

あの空。

あの子。

そして、あの日交わした約束を。

小学五年生の夏休み。

朝六時。

ラジオ体操のカードを首からぶら下げ、眠そうな目をこすりながら公園へ向かう。

草には朝露が残り、まだ誰も踏んでいない小道は少しだけ冷たい。

体操が終わると、友達はみんな家へ帰る。

だけど僕には、もう一つの日課があった。

神社の石段で待っている、一人の女の子に会うこと。

「遅い。」

少しだけ頬を膨らませて言う。

「五分しか遅れてない。」

「五分は五分。」

そう言って笑う彼女は、同級生の美咲だった。

麦わら帽子の下から揺れる髪。

白いワンピース。

少し日に焼けた肌。

笑うと目が細くなって、本当に夏そのものみたいな子だった。

「今日はどこ行く?」

「秘密基地。」

「また?」

「また。」

それだけで二人は笑った。

秘密基地と言っても、大人から見ればただの空き地だった。

背丈ほどの草。

古びた土管。

一本だけ立つ大きなクヌギ。

僕らには、そこが世界の中心だった。

虫を捕まえたり、泥だらけになったり、木陰でアイスを半分こしたり。

どうでもいい話をして、一日中笑っていた。

「将来さ。」

ある日、美咲が空を見上げながら言った。

「大人になっても、ここ覚えてるかな。」

「当たり前じゃん。」

「忘れたら?」

「忘れない。」

「絶対?」

「絶対。」

指を一本差し出す。

「じゃあ、約束。」

僕も小指を絡めた。

夕日に照らされた二人の影が、地面の上で小さく揺れていた。

夏休みも終わりに近づいた頃だった。

神社へ行っても、美咲はいなかった。

翌日も。

その次の日も。

学校が始まっても来ない。

先生が静かに話した。

「美咲さんは、お父さんの仕事の都合で引っ越しました。」

教室が一瞬だけ静かになった。

僕だけは、何も聞こえなかった。

引っ越すなんて。

約束したのに。

何も言わずに。

放課後、一人で秘密基地へ行った。

クヌギの根元に、小さな缶が埋まっていた。

中にはビー玉が二つ。

折り紙で折った鶴。

そして、一枚の紙。

『急に引っ越すことになりました。

本当はちゃんと会って言いたかった。

でも会うと泣いちゃうから。

約束、忘れないでね。

大人になっても、この夏を覚えていてね。

美咲』

読み終わる頃には、文字が涙で滲んでいた。

初めて、人前じゃない場所で声を上げて泣いた。

悔しかった。

寂しかった。

会いたかった。

子どもの心は、言葉にできないほど真っすぐだから。

だからこそ、一度空いた穴は、とても大きかった。

それから何十年。

仕事に追われ、家族ができ、毎日が過ぎていった。

いつしか夏休みは、自分のものではなく子どものものになっていた。

ある休日。

息子が言った。

「パパ、虫捕り行こう!」

その一言で、足は自然とあの場所へ向いていた。

草は短く刈られ、秘密基地は駐車場になっていた。

土管もない。

クヌギだけが、少し太くなって立っていた。

息子が木陰でしゃがみ込む。

「パパ、何これ?」

土の中から、小さなビー玉が転がっていた。

あの日の缶が壊れ、土に還っていたのだろう。

ビー玉を手にした瞬間。

蝉の声が一斉に響いた。

あの夏が、胸いっぱいに戻ってきた。

笑い声。

アイス。

泥だらけの靴。

麦わら帽子。

小指の温もり。

全部。

昨日のことのようだった。

「ありがとう。」

誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。

でも、涙だけは止まらなかった。

帰ろうとした時だった。

後ろから声がした。

「……もしかして。」

振り返る。

一人の女性が立っていた。

隣には、小さな女の子。

女性は少し笑っていた。

あの頃と同じように、目を細くして。

「約束、忘れてなかったんだね。」

その瞬間、時間が止まった。

言葉なんて出なかった。

何十年という時間が、一秒で消えた気がした。

美咲は笑いながら言った。

「ここなら、いつか会える気がしてた。」

僕は笑って、泣いた。

彼女も笑って、泣いた。

子どもたちは、不思議そうな顔で僕らを見ていた。

帰り道。

息子が手をつないできた。

その小さな手を握り返した瞬間、気づいた。

人は、大人になると忘れてしまうんじゃない。

思い出すきっかけが減るだけなんだ。

蝉の声も。

入道雲も。

夕焼けも。

ラムネの瓶も。

秘密基地も。

そして、あの夏に交わした約束も。

全部、心のどこかで静かに生き続けている。

だから今年の夏休みは、少しだけ子どもと遊んでみよう。

泥だらけになってもいい。

虫が捕れなくてもいい。

特別な旅行じゃなくてもいい。

いつか大人になったその子が、蝉の声を聞いた時。

今日という一日が、心の奥でそっと笑ってくれるかもしれないのだから。

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