母との別れ
前回の続きです。
https://note.com/rich_mimosa433/n/nf3bc8dae04a2
母たちが住む家は一般的な建売住宅だった。三角や四角の積み木を組んだような外観で、それは両隣とも同じ形をしていた。郵便ポストには表札がかけられていて、ローマ字でKUSANAGIと表記されていた。新造くんが玄関の鍵を開けて、入っていく。そのあとを追うように母たちが進み、最後にぼくが足を踏み入れた。
「あつい!」
娘の美咲が母の腕から降りて、廊下を走っていった。
「走ったらダメよ。転んで怪我をするわよ」
母も美咲のあとに続いた。玄関には脱ぎ捨てられた靴やサンダルが裏返っている。
「ごめんね。なんか変なところを見せて」
新造くんが膝をついて二人の靴を綺麗に整理していった。ぼくも靴を脱ぎ、家の中に入った。家内の空気は湿気を含んだ空気で支配され、外よりも暑く感じた。
「まっすぐに進めばリビングだから、そこでゆっくりしていて。すぐにエアコンが効いてくるから」
ぼくは彼に頭を下げ、エコバッグを持ち上げて足を進めた。リビングのドアを開けると冷たい空気に包まれ、熱った体が冷えていった。
「すぐに料理を作ってあげるから、ソファーに座ってゆっくりしていて」
ぼくは言われたように白い色のソファーに腰を下ろした。しっかりとした弾力があった。背もたれに体を預け、ぼくは室内を眺めた。
リビングの奥にはキッチンがあった。母はそこでエプロンをかけて、大きな冷蔵庫の中身を確認している。娘の美咲は白いマットの上に寝転び、積み木で遊んでいた。天井のシーリングファンは音もなく静かに回転して室内の空気を循環させていた。白い壁に取り付けられたテレビは大きく、木製の家具類には慎三くんたちと映る家族の写真や観葉植物が生けられていた。
「ママ、テレビが見たい!」
「いいけど、ママは今手が離せないの」キッチンにいる母が振り返りながら言った。「てっちゃん、悪いけどテレビつけてあげてくれない」
ぼくはリモコンを探した。しかし中々見つからない。ソファーやマットの下を覗いてみたがどこにもなかった。娘の美咲は苛立ったかのように駄々をこね始めた。
「早く探して! テレビが見たいの!」
乗馬鞭で尻を叩かれる競走馬のようにリモコンを探した。しかし見つからなかった。
「母さん、どこにもないよ」
「ええー本当? 朝はソファーの上にあったはずなんだけどな」
ぼくはもう一度ソファーを探した。それはクッションの間に挟まっていた。リモコンでテレビをつけ、娘の美咲にリモコンを渡そうとした。しかし、彼女は目をぱちくりさせて、ぼくを見て、そして母の方へ顔を向けた。
「お待たせ」
新造くんがリビングにやってきた。彼は金色のラベルが貼られた緑色の瓶を手にしていた。食器棚からワイングラスを三つ取り出し、それぞれに適量を注いだ。
「さあ、鉄平くんこっちに来て一緒に飲もう」
彼は母にもグラスを手渡した。そのとき、彼女の頬にキスをした。
「もう、子どもが見ている前で変なことしないで」
「いいじゃないか。俺たちは家族なんだから」
ぼくはキッチンの椅子に座り、ワイングラスを手にした。そして三人で乾杯をした。娘の美咲はテレビを見ることをやめて、新造くんのそばへやってきた。
「美咲も飲みたい」
「きみは大人になるまでだーめ」
「飲みたい飲みたい飲みたーい!」
ぐずり始めた娘の美咲を新造くんは持ち上げた。彼は冷蔵庫を開いてぶどうジュースを取り出し、取手のついた小さなプラスチックカップに注いであげた。
「さあ、これなら美咲も飲んでいいよ」と彼は言い、「さあ、もう一度四人で乾杯だ」
ぼくたちはそれぞれの杯を交わした。
いい酒を飲むと、飯が美味く感じる、と中国の故事があった。正確な名前は覚えていないが、目の前の光景を見ると、それは嘘ではないのだろうと思った。
「おいしい」
娘の美咲が母の頬を膨らませて母の作った唐揚げを食べていた。彼女は塩よりもレモン派らしく、一口目を食べたとき必ず口を小さくさせていた。
「まだあるから、そんなに急いで食べないで」と母は言い、娘の美咲の口をナプキンで拭いてあげていた。「てっちゃんどう?」
「うん、美味しいよ。久しぶりに母さんの手料理を食べることができて本当に嬉しいよ」
母は微笑みを浮かべ、「よかった」と不安が解かれたように呟いた。
新造くんはワイングラスの杯を重ねていき、硬直した役所の問題点をべらべらと喋っている。こういうところは親父に似ているように思った。
母はぼくが高校を卒業したあとすぐに家を出た。いくつか理由は浮かぶが、一番大きなことは卒業後の進路が都内の大学に進学することが決定したことだ。簡単に言えば、子育てに一区切りを終える絶好のタイミングが訪れたことで、彼女は家を出ることを決心した。
親父は母が出ていくことを止めなかった。彼にしてみればすぐに戻ってくるだろうと考えていたようだが、母の決意は固かった。ぼくにも連絡先を教えず、音信不通だった。
それからの親父はどんどん衰えていった。枯れてゆく植物のように身体が細くなっていき、家の外まで響いていた怒鳴り声も影を潜めていき、気がついたら死んでいた。孤独死だった。
葬式に参加したのはぼくと坊主だけで、寂しいものだった。しかし、生前の振る舞いを考えれば当然の因果だ。人の価値は死後、どれだけの人が泣いたかで決まるらしいが、その意味では親父の存在はその程度なのだろう。
「ご飯のおかわりは?」
今日、母と再会してから親父について何一つとして聞いてこない。彼女の中ではすでに終わったことであり、今最も大切にしていることは彼女の腕に抱かれている娘の美咲と、隣に座る新造くんとの関係性だった。今までの過去を白紙にするようにリビングの壁紙を白で統一し、母は前だけを見ている。
「もう十分だよ。母さんありがとう」
「本当に? 遠慮なんかしなくていいのよ」
「ねえ、ママ」
母の腕に抱かれている娘の美咲が母を見上げた。
「ん、なに?」
「どうして、この人ママのことをお母さんって言うの?」
母は言葉を失い、固まってしまった。新造くんもワイングラスを持つ手を止めてしまった。
「ねえ、どうして? ママは美咲のママだよ。この人のママじゃないよね? 美咲のママだよね、ねえ、そうでしょう?」
ぼくらは無意識のうちに互いに視線を合わせていた。小さな子どもに説明する術を誰も知らなかった。テーブルが沈黙に包まれるなか、娘の美咲が居場所を探すように顔を向けていた。誰も答えを教えてくれないことは彼女にとって不安だったようで、娘の美咲が泣き出した。胸に突き刺さるほど甲高く、ぼくはテーブルの下で拳を握った。母と新造くんは彼女をあやしているのを直視できなかった。
天井のシーリングファンの音が鮮明に聞こえ、そして泣き続ける娘の美咲が幼いころのぼくの姿に見えた。
夕方になった。まだ外は明るく、日が昇っていた。外の気温はまだ高く、母の新しい家の外に出ると、すぐに汗が湧いてきた。
「ごめんね。てっちゃん、なんだか変な空気になっちゃって」
母が玄関先まで見送ってくれた。娘の美咲を泣き疲れて寝てしまい、新造くんが料理の後片付けをしていた。
「母さん、気にしなくていいよ」とぼくは言った。「ぼくだって、彼女の立場なら同じようなことを言ったと思う」
母は困ったような表情をし、「お母さんのこと恨んでる?」と訊ねてきた。
ぼくは首を振った。「恨んだことなんてないよ」と答えた。
「本当に?」
「本当だよ」とぼくは言った。「母さんを恨む理由なんてどこにもないよ」
「そう、ならいいんだけど」
「じゃあ、ぼくはもう行くね」
玄関を閉じようとしたとき、母が紙袋を渡してくれた。中にはタッパが入っていた。
「中に鯵の南蛮漬けがあるから、帰って食べなさい。てっちゃんの大好物だったでしょ?」
「覚えていてくれたんだね」
「当たり前よ。私はあなたのお母さんなんだから」
母は朗らかに笑い、ぼくを抱きしめた。
「ちゃんとレンジで温めなさいよ」
ぼくは母の両肩に手を置き、体を離した。母は微笑みを浮かべたままぼくを見ている。
「私の連絡先も中にあるから時々は連絡しなさいよ」
ぼくは頬を緩ませて、頷いた。そして彼女に手を振り、帰路についた。
草彅家から離れ、交差点を曲がったところでハーフパンツから煙草を取り出して火をつけた。解放感からか、口から大量の煙を吐き出した。もしかしたら、それはため息だったのかもしれない。
彼女の料理は昔と変わらず美味しかった。温かくて、肉の旨みがしっかりと感じられた。多分、タッパの中の鯵の南蛮漬けも間違いなく、美味いだろう。でもそれは草彅さくらの料理であって、ぼくの母の味じゃなかった。
ぼくの母の味は冷たく固いものばかりだった。その見た目は淋しげなものに見えるかもしれないが、子どものころのぼくにとってはあたりまえのもので、一度たりとも不味いと感じたことはない。
ぼくは部屋に着いたらタッパを冷蔵庫の中に入れて冷やす。冷えて硬くなったあとに母の味を思い出しながら食べる。最後の母の味として、決して忘れないように。
紙袋から草彅さくらの連絡先を取り出し、ライターで燃やした。紙は一瞬で燃え上がり灰になった。手に残っていた灰が湿気を含んだ風に運ばれてどこかへ運ばれていった。
