雑草という草がないように
コンパドリートって聞いたことありますか? え、リオネル・メッシ? はいはい、TikTokでも流行りましたね。ひょっとしてホルヘ・ルイス・ボルヘスの? というアナタはさすが note の読者、血中文学濃度が高い! そう、今日の話はレオ様よりボルヘス様寄りですね。
(タイトル写真 from ¡tango! 1900年代ブエノスアイレスの車夫たち)
大文豪ボルヘスが作品集「El compadrito」で多面的に描き出したように、コンパドリートとは、急速に発展する19世紀末-20世紀初頭のアルゼンチンで生まれながら、その上昇気流に乗れずブエノスアイレスの場末でくすぶる若い男たちのことです。耕す土地や世話する家畜を持たず、都会で成功するだけの知識や技術もない。ヤクザというには気骨にかけ、本物のカウボーイであるコンパードレ(compadre)の格好だけをマネて通りをうろつき、時にはナイフを振りかざしての喧嘩沙汰を引き起こすようなチンピラです。
「コンパドリート」という言葉の元になったコンパードレは、当時のアルゼンチンの主要輸出品であった塩漬け牛肉の材料、パンパで放牧された肉牛を束ねてブエノスアイレスまで輸送してくる男たちでした。彼らは、独立戦争時代の野武士のようなガウチョたちに比べ、ずっと近代的で産業構造にも深く組み込まれていましたが、そのカルチャーは依然マッチョで、街では輸送の代金を懐に気前よく遊ぶことなどから、男の中の男、と一種の尊敬を集めていました。
一方、首に巻いたスカーフや無造作に腰に差したナイフなど、コンパードレの格好をマネしていきがるだけのコンパドリートたちは、厄介者扱いこそされ尊敬されることのない、街の若く貧しい男たちでした。彼らが吹き溜まっていたブエノスアイレス市の外縁部、まだ開発途上で粗末な建物とぬかるんだ通りしかないアラバル呼ばれたあたりでは、ワルツ、マズルカ、ポルカ、ハバネラ、ブエノスアイレス風のカンドンベなど、のちにアルゼンチンタンゴに発展する様々なダンスが踊られていました。これらのダンスを、コンパドリートたちはたまり場のバーや安手の売春宿などで踊り、カンドンベなどが盛んに踊られていたアフリカ系住民が集まるダンスホールなどにも時折「遠征」しました。そこで彼らはアフリカのリズムとダンス、ヨーロッパ系のダンスとは異質の動きを目の当たりにします。

……見ろよ、あの妙な恰好!
……ゲ、なんであんな動きになるわけ?
……てかスゴくね? えっと、こうかな、こんなかんじ?
……爆! お前ウケる~~!
街の不良崩れががやがやとアフリカンダンスを寸評しているところを想像してみるとこんな感じでしょうか? 面白がった彼らはダンスに飛び入りで参加したり、悪ふざけが過ぎてダンスホールから追い出されたりしたかもしれません。
そしてコンパドリートたちはアフリカ風の動きを自分たちが踊っていたヨーロッパ系ダンスに面白半分に取り入れました。どうしたかというと、踊っている途中で動きをすっと止めて(Corte)、急にアフリカンダンスをまねた動きを始めるのです。例えば、膝をまげて重心を低く、足をクロスしてうごく(Quebradas)、手や足を激しく振るなどです。
みている人の注意を引くために、大げさで滑稽であればいい、といったものだった Cortes y Quebradas は、その後タンゴがダンスとして確立するにつれ洗練されていき、現在踊られているのは下ビデオのような感じでしょうか。
そしてコチラはカンジェンゲ・バージョン(1:08:00あたり)
他の部分ではトラスピエやクルセスなどステップも解説されているので(こういうのミロンガで踊れると渋いな~😎)ご興味の向きはそちらもぜひどうぞ。
コンパドリートたちの悪ふざけから始まって、下町風でいなせな踊り方の代名詞となった Cortes y Quebradas。なんでもバリバリかみ砕いて取り込んでしまう多民族文化の底力を感じます。タンゴの辞書に『役立たず』の文字はなし、なわけですね~🌹
©2025 Rico Unno, CC BY-ND
