Oblivión【4】
(タイトル写真 by Preillumination SeTh)
クライポレ・午後二時
店の入り口からヴァウターともう一人、小柄な女性が入ってきた。ディエゴとダニエラはしゃべるのをやめて、客のほうに注意をむける。ホケットがあちこちについたジャケットをきて、素っ気ないパンツにワークブーツ、小ぶりのバックパックを肩からぶら下げた東洋人だ。少し日に焼けた顔はつるんとしていてシワはないが、顎のあたりでぱっつり切った黒い髪には白い筋が何本か流れている。……必要なものは大体ここでそろうと思いますよ。準備できたら声かけてください、貨物室開けますから。そういってからヴァウターはダニエラとディエゴに軽く視線をなげてかけて外へ出て行った。女性は日用品コーナーに行き、ダックテープをみつけるとすべて棚からとりだしてカウンターに置き、カッター、ハサミ、プラスチックラップ、ビニールのごみ袋、キッチンペーパーなどを、次々と上に積み重ねていく。最後にオレンジと水のボトルを落ちないよう慎重にのせてから、具はなんですか? とガラスケースのサンドイッチを指さした。
ディエゴがハムとチーズのサンドイッチを紙に包んで、膨らんだビニールの買い物袋の一番上にそっとのせると、女性は、ありがとう、といい、それからダニエラに、古い毛布みたいなやわらかくて下に敷けるものありませんか? と訊いた。上にあるかもしれないから探してみます、といったディエゴに、ありがとう、というと、女性は膨らんだ買い物袋をもって足早に店から出て行った。
プロフェッサー・サカモト、何度も申し上げているように、カテゴリーB1とカテゴリーB2の文化財は一緒に送れないんです。気の毒そうに文化財担当の職員はいった。いったん荷物はお返ししますので、分けてから再申請してください、添付書類はこちらです。はい、新しい様式です。去年の盗掘品密買事件のあといろいろ規定が変わりまして……。アレは小型恐竜の化石で、スペインに向けて密輸されたんじゃない! などと怒鳴ったところで事態は好転しない。口を引き結んだまま税関のロビーに戻ってくると、真澄は大きく息をはきだしてベンチに座り、バックパックのサイドポケットから取り出した携帯をにらみつけると、善後策を検討するためサルミエントのチームに電話をかけた。
チームが数年にわたって発掘した植物化石は数個ずつ標本箱に詰めてから輸送用の大きな木箱2つにいれられ、包装材でグルグルにパッケージされている。カテゴリーB1とB2にわけなおす、となると、まずパッケージを解き木箱を開けて、標本箱を一つ一つどれがB1でどれがB2と(科学的に大した意味のない)新基準に従って確認しないといけない。確認は専門家しかできないし、盗難・紛失防止のため施されている封印も開けることになるので、パッケージングだって運送会社に丸投げわけするにはいかない。しかし、サルミエントに送り返して詰めなおすのでは往復で一週間はロスがでてしまう。あれやこれや話し合った結果、どこかブエノスアイレスで真澄が指揮をとって詰め直すのが最善だろう、ということになった。
女性は薄暗いトラックの貨物室の床に座ってラップトップで何かチェックしていたが、ディエゴが古い寝袋をもってよじ登ってくるのに気づくと、ありがとう! と立ち上がった。貨物室の中にはパッキング用プラシートでぐるぐる巻きにされた机くらいの大きさの荷物が一つ載っているだけだ。ディエゴが寝袋をその前に置くと、女性はサンドイッチの最後のひとかけらを口に押し込んで、カッターで荷物のプラシートを切り始める。シートは静電気で彼女の手や体に絡みつき切りにくそうだ。ディエゴは買い物袋から顔をのぞかせているハサミを手にとると、刃を広げてカッターのようにしてシートをザクザクと切りだした。女性はまた、ありがとう、といった。
ロカ線・午後九時
標本の詰め直しをする場所がみつからず、トラックの荷台でやるしかない、となったときにはどうなることかと思ったが、作業は心配したよりずっとスムーズに進んだ。詰めなおしに伴って木箱の内容物リストも更新する必要があったが、雑貨店にいた男の子が手伝ってくれ、一箱ごとに細かい変更を入力してくれたので、詰めなおし作業と同時にリストの編集ができて助かった。
男の子はディエゴといって高校生。ブエノスアイレス市に住んでいるが、郊外の叔母さんの店を時々手伝いにくるのだそうだ。彼は高校生らしい好奇心で様々な質問を発する。真澄も問われるままに答える。標本箱に入っているのは、六千五百万年前の葉や種子の化石であること。化石は小さな種一つにまで認識番号がついていて、これが振られない限り発掘現場から持ち出されないこと、発掘現場から研究施設に移された標本は、写真やその他の分析結果とタグづけられて、国際的なデータベースに登録されること……。短い受け答えから、彼が頭のいい子だということがよくわかる。仕分けと詰めなおしがおわり、木箱を閉め仮封印する。明日ドライバーが運送会社に持ち込んで本封印と再パッキングが終われば、アリゾナへの輸送を再開できるはずだ。その旨はもう運送会社とチームにメールしたし、チームからはすでに必要事項が記入された追加の通関書類がメールで届いている。
一休みしてお店の名物というアイスクリームを食べてから、真澄はディエゴと一緒にブエノスアイレス市内のホテルに帰ることにした。近くのバス乗り場に向かって歩いていくと、数台トラックの止まっている空き地から標本を運んでくれたドライバーが手を振ったので、こちらも手を振り返す。空き地の中は貨物トラックに便乗していく人たちだろうか、二十人近くが各々の荷物に腰掛けたりして「乗車」が始まるのを待っている。
バスから郊外線に乗り継いで、どこか見慣れた感じのする電車にゆられながらディエゴの話を聞く。厳密にいうとブエノスアイレス市ではなく市と県の境の川を超えたあたりに住んでいること、環境学に興味があること、ギャップイヤーをとって、パタゴニアの地表水測量プロジェクトの支援員をやってみようと思っていること。希望とかすかな不安。真剣な表情の下から、はっとするような若さがはにかみとなってのぞく。生きていくこと。この国で、いや、どこであろうと、この不透明な世界の中で。真澄に子供はいない。でも、もし息子がいたら……こんな話をするんだろうか。
抱擁【2】
あなたの腕がわたしを包むとき、音楽と動きは一つになって流れ出す。わたしたちを隔てるものは溶けさって、あなたとわたしは混じりあう。そこにあるのは過去の記憶? それとも未来への希望? それらは、しかし、この一体性の終わりとともに消えさり、噛み合わないパズルピースのような現在だけが残る。それでもそれにしがみつくしかない、わたしたちが二人の時は。
レヴュー記事
……小杉のバンドネオンと共に二人が描き出したのはまさに様々な風の記憶。恋人たちを優しく包む初夏の風、すべてを飲み込む恋の熱風、二人を分かつ砂交じりの乾いた風。マンシとフェラリは、明らかにアルゼンチンタンゴの過去と未来の奇跡のような接点に立っていた。かつてフラメンコのガデスとオヨスがそうであったように。
新宿・午後四時
雑居ビルの七階、流れるようなフォントで「Milo」と書かれたドアを開けると、明るく照明された受付とロビー広がっていた。高級スポーツクラブのようで、タンゴを思わせるものは掲示板に貼られたユミとジュンジの小さなポスター以外はない。掲示板の週間予定にはサルサやヒップホップに交じってプラクティカ・フエベス、19:00―20:30と書かれている。その横で数人の外国人がおしゃべりしている。
今日、恭子は田辺と連れ立って、ディエゴとチェチリアのセミ・プライベートレッスンを受けるためこのダンススタジオにやって来た。スポーツインストラクターのような受付の女性にいわれるまま、二人は登録用紙を受け取る。黙って記入している田辺の横顔にきれいにカラーリングした髪が緩いカーブを描いてかかる。忙しく動く彼女の手と一緒に薄っすらしたシミも動く。恭子は自分の右手の甲を左手で何回かこすってから、記入し終えた用紙を受付に差し出した。
受付の女性が情報を入力し終えるのを待っていると、ガラスの内扉が開いて人が出てきた。背中まっすぐのバレエダンサー然とした女性に続いて、ゆっくりリズムをとっているような足取りでストリート系ファッションの二人が歩いていく。……その後ろの若い男性は何系かな。携帯をチェックに余念がないけどちょっと場違い。そして……
「あ、ちわっす」
恭子の視線に一瞬おくれて翔がいう。
「え、翔ちゃん、今日、何?」
「えー、『研修』っス、一応」
言葉を交わす二人の向こうで、携帯から目を離した男の子が恭子をざざっと値踏みする。
「研修? なんの?」
「え。まあ、いろいろ」
翔は自然体で田辺の視線を受け流し、連れの男の子のほうをちらっと振り返る。恭子の次の質問が声になる前に、翔は、じゃ今からアレなんで、といい、携帯メッセージを送るような身振りをしてから男の子と一緒にスタジオから出て行った。……そういえば最近連絡してない。彼の後ろ姿がドアの向こうに消え、思い出したように恭子が田辺の方をみると、彼女は表情のない顔をお喋りに余念のない外国人たちの方に向けていた。
「研修」の後、スタジオからロビーの方へ歩いていくユージと別れ、翔は手洗いに寄った。手洗いを済ませロビーの方に歩きだしたその時、反対側で声がした。外国人の女と男が廊下の向こうに立っている。女は必死に男に何かいっている。が、男は顔を半ば背けて、女の声が当たるに任せている。髪が長くって、くすんだ色の肌だ。女はまた絞り出すように何かいったが、男は聞いていない。無視してるんじゃないが、聞いてない。コイツ、ひでえな、と翔は瞬間的に思った。ヒモかお前は? 男に本質的に嫌なものを感じて、翔は鼻にしわを寄せた。人に気配に気づいた女が振り返る。きれいなコだが泣いて目のあたりや頬がまだらに赤くなっている。大丈夫、と聞くべきか一瞬まよって、女のいる方の脚に体重を移した途端、男の視線が翔をバーンとぶっ飛ばした。
なんだよ。むっとして翔は男の視線を押し返す。男は、翔から視線を外すと背を向け、女を促して控室に入っていく。……なんだよ、ヒモなんだったら、最低限、オンナは大事にしろよ。翔はもう一回鼻にしわを寄せるとロビーの方に向かって歩き出した。
新宿・午後六時
セミ・プライベートレッスンの後、田辺が、高野さん、ちょっとお茶していかない? と恭子を誘った。田辺が案内したスタジオ近くのカフェ・バーは、カフェからバーに移る時間帯で、中途半端な外光が差し込む店内はまだ閑散としている。お茶にしようかお酒にしようか恭子が迷っていると、田辺はカンパリソーダを注文したので、恭子も白ワインにする。
今日のレッスンで習ったバレエバーを使ってのボレオの練習のことなどから始まって、話は自然と先日のトッパンホールでのディエゴとチェチリアの公演のことになる。あの公演に立ち会えたこと自体が奇跡のようなことだった、と恭子は思う。どの演目も素晴らしかったが、ディエゴがアンコールで踊ったフォルクローレのソロは、恭子が今まで観たどのパフォーマンスより素晴らしかった。……舞台の中央に立ったディエゴは、フラメンコとは違った、蹴りつけるようなサパテアードでゆっくりと大地を揺り動かしていく。バンドネオンの即興が舞台に風を吹きつけ、ディエゴの回すボレアドラスの、長い紐の先についた石が、カツン、カツン、と近づいてくる運命の足音のように響きだす。風の吹きすさぶ大地でダンサーは運命に翻弄され、もがき、そして永遠の停止を迎える。ディエゴが動きを止めた瞬間、確かに宇宙は一旦停止した。……あんな舞台はつくろうと思ってつくれるものじゃない。思い出して身震いする恭子に、田辺はいった。
「あたしね、ディエゴを送っていったことあるの。ミロンガの後に」
「じゃあお願いね、キヨーミ!」オーガナイザーの女性は、心配そうにディエゴが田辺のレンタカーの助手席に乗り込むのを手助けしてからそういった。大丈夫、ホテルはすぐそこだし。田辺は笑って彼女に手を振る。
サンディエゴのワークショップとミロンガのあと、ディエゴはチェチリアと一緒にオーガナイザー主催のアフターパーティーに出る予定だったが、急に具合が悪くなり、チェチリアと別れてホテルに一足先に帰ることになった。たまたま同じホテルだった田辺は二つ返事で運転手を引き受けた。
ドライブウエーから右折して車道にのるとき、ちらりとディエゴの様子をみる。大丈夫、というように微笑み返す表情が弱々しい。ホテルについても辛そうにこめかみを抑えている彼に代わって、部屋のカギを開けてやると、彼は崩れるようにベッド脇の椅子に座り込んだ。大丈夫? 何か他にできることは? と訊く田辺に、彼は血の気のない顔をあげていった。じゃあ水を。
水を飲むと少し楽になったのか、ディエゴはグラスを手に持ったまま口を開く。……エネルギーを吸い取られるんです。何かが自分に絡みつくようなゼスチャーをする彼を田辺はみつめる。確かに、あんなに熱狂する観客の視線を一身に集めたら、消耗するのも無理ないわ。薄暗い照明の中、彼の顔は生気が抜けて透き通り、目以外は室内の空気と見分けがつかない。不思議な光をたたえた彼の目から視線を外すのは難しい。やっとのことで田辺はいう。……とにかく、今晩はよく休養して元気を回復してね。そして彼の手からグラスを取ると、もう一度水を注いで差し出す。……ありがとう。あなたは私の辛さをわかってくれるんですね。くすんだ色の手で水滴のついたグラスを受け取ったディエゴはベッドサイドのテーブルにそれを置くと、田辺の手をとり、そして、そのまま離さなかった。
でもね、レイプとか、そんなんじゃないのよ。田辺は続ける。私にとってはあんな神様のような体、拒否する理由がなかった。黙ってみつめている恭子に微笑んで、田辺は空のカンパリのグラスのふちに触る。でも、彼にとっては私とのことなんて何の意味もない。……ただの Low-hanging fruits っていうか。東洋人なんてみんなおんなじにみえるから、覚えてるわけないしね……。
言葉を探しあぐねている恭子に、明るい声で田辺が訊いた。
「今日スタジオの入り口で会った若いコ、お友達?」
彼女が答えを必要としていないことは明らかだった。共犯者のような微笑を浮かべている田辺の顔に、ヘアカラーのオレンジっぽい反射がかすかにかかっているのを、恭子は黙ってみつめていた。
ブエノスアイレス・午後十時
志望動機は、地球環境問題に興味があって、だけれど、それはだれもが書くことだろうから、それだけでは駄目だ。ディエゴは、ふうっ、と天井をあおぐ。明日までに応募書類に添付する志望動機の下書きをしあげて、添削してもらうためにセラーノ先生に送らないといけない。だけど、いきなり出だしから詰ってしまった。パタゴニア。アンデスからなだれ落ちてきた氷河が削り取った大地、異なる青さの氷河と海と空。吹きすさぶ風、住む人もまばらな見捨てられた土地。どうして自分はそこに行きたいのか? ダメだ、どうしても前に進まない。自分の逃げにイラつきながら、ニュースサイトを開け、見出しを上から順番にクリックしていく。……雇用問題、インフレ、国際情勢……いきなりビデオが始まりレポーターの厳しい声がいう……国境の南の地域では治安がさらに悪化しており、ここまでたどり着いた人たちもひどい状況におかれています……。画面はアメリカとメキシコの国境地帯を歩く人たちの列を映し出す。……中米ホンジュラスからなどのルートだけでなく、南米のベネズエラ、ペルー以南のアンデス超えのルートなどでも麻薬カルテルが支配を強めており、人身売買や殺人も珍しくありません。なぎ倒されたように地面に横たわる犠牲者たちが映し出される。男も、女も、子供も……ひどい。顔などはぼかしてあるが奇妙な角度に曲がった手足が生々しい。犠牲者の一人の水色のTシャツが目に入る。裾が短く切ってあってむき出しの腹がみえている。そして彼女の胸には黄色い太陽、アルゼンチン国旗の太陽がテラテラ、偽の黄金の輝きを放っている。いきなり吐き気がこみ上げる。ボクタチハミンナ、サカナノヨウニ、キタノキョウカイセンニ、ウチアゲラレテシヌンダ。
センチミエント
なんであんなこといっちゃったのかな。アルゼンチンの地図の上、不自然にまっすぐな県境を目でなぞりながら、山野は後悔した。
昨日編集部に顔を出した時のことだ。ミーティングスペース兼休憩室を覗くと森下がお茶を飲んでいたので、これ幸い、また写真を撮ってもらえないか、今度は十二月に来日するチリの建築家とのインタビューなのだが、と依頼した。すると彼女はすこし困ったような顔でいった。
「私、その時期日本にいないんです。パタゴニアに行く予定なんです。前から行きたいと思ってたんですけど、今回、アース・アウェアネスが支援してるパタゴニアの環境プロジェクトのPR写真を撮るっていう仕事があって。その合間に自分の写真を撮ってもいい、っていってもらったので……」
現地では四駆でミニキャラバンを組んで動く予定だ、などとと続ける森下の、少し紅潮した頬をみながら山野はいった。
「ああ、そうなんだ。パタゴニア……。そういえば僕、昔チュブとサンタ・クルスの県境のあたりに住んでいたことがあるんですよ」
パタゴニア地方は、アルゼンチンとチリの南部、南極に向かって伸びる広大な土地で、そこでは、水と氷と風と砂が人間の尺度をはるかに超えたスケールで循環している。アンデスに降る雪は南極に近いこの土地では氷河を形成するが、豊富な降雨量のせいで氷河としては速いスピードで山腹を滑り落ち、押しやられた巨大な氷塊は地表を削り取りながらどんどん海へとなだれ込んでいく。氷と水の浸食と堆積作用でできた半砂漠では冷たい風が吹きすさび、背の低い植物が短い夏の間に荒れた地表を彩っては消えていく。温暖な中央のパンパ地方に比べ、自然は格段に厳しく、そこに行くのも簡単ではない。有名な氷河のあるあたりは観光客を運ぶ飛行機も飛んでいるが、その他の場所は鉄道もなく、何日もかけて車で移動するしかない。
そんな辺鄙なところに山野が住んでいたのは、付き合っていた女性がいたからだ。彼女はアルゼンチン人ではなく日本人。ユタの大学で古生物学の博士号をとった古生物学者で、知り合ったのは、彼女がアリゾナの大学で研究員をしていた時だ。当時山野は、若い時にしそこなった「放浪の旅」の最中で、これといった目的もなくアリゾナにいた。二人が知り合って間もなく、彼女が化石発掘現場のあるアルゼンチン・チュブ県のサルミエントに移ることが決まった時、山野はすんなりついて行くことにした。そちらの方がアメリカに比べて物価が安く滞在ビザがとりやすい、ということも魅力だった。
発掘現場の生活は単調だったが退屈ではなかった。古生物学者たちは、いくつかの慎重に決められた地面の区画から、土とほこりにまみれて石灰岩の塊を掘り出す。山野の目には何の変哲もない石や土くれにみえるものを、彼らは洗ったり注意深く割ったりして、太古の植物の幹や葉や、小さな種さえ取り出してみせる。まるで、彼らの目からレーザー光線が出ていて化石を削り出すかのようだ。取り出された化石は注意深く分類され、番号をふられ、保管箱に収められる。来る日も来る日もこれが繰り返され、化石になれなかった石が残土の廃棄場所に積みあがる。
食事は肉、ジャガイモなどを簡単に調理したものがほとんどだったが不思議と飽きることはなかった。時には発掘チームのみんなとアルゼンチン式のバーベキューもした。ゆっくり炙った巨大な骨付きの牛肉の塊は、脂身の刺しが全く入っていないのに柔らかくジューシーで、少し石灰の味がする地元のワインともよく合った。
彼女が化石と過ごしている間、近くに散在する開拓村の跡などを訪ねて地元の人たちから話を聞くのも面白かった。十九世紀末から二十世紀初頭にかけての大移民時代、アルゼンチンにはヨーロッパからだけでも六百万人以上の移民が殺到したという。だから、今もあちこちにその痕跡が残っているのは驚くことではないけれど、パタゴニアの真ん中でウェールズ語の語彙が今も普通に使われている、などという事実は、いつの時代も人類は移動しているけれど、流れの方向はずっと同じなのではない、ということを思い起こさせて感慨深かった。
毎日石を触っているせいか、彼女の指は先の方が白っぽく硬い。その指先に軽く唇をつけながら、やっぱり化石のほうが大事なんだね、と山野がいうと、彼女は、そうでもないわよ。化石はこんなに熱くないからといって、からかうようにもう片方の手で彼の体をまさぐった。それより他にやることがない、といってしまえばそれまでだが、本当に飽きることなく二人は体を交わしあった。
そういう時間は割とあっさり終わりを迎えた。彼女がアリゾナへ帰るとき、山野はついて行かなかったのだ。彼女が嫌いになったわけではない。彼女も山野を嫌いになったわけではない。ただ、彼女の帰るとことは自分の帰るところでも居たいところでもない、というのがパタゴニアに住んではっきりしてしまったのだ。彼女が帰った後、山野は南米の国々を放浪しながら北上し、結局日本に帰ってきた。帰ってきたが、ここは居たいところなのか……そういうことを考えなくなって久しい。パタゴニアの輪郭を目でなぞりながら、あの焦りと迷いの感覚が浮かび上がってくるのを山野は感じた。
「ウェールズ語なんて面白いじゃない、もっと調べてみたら?」
もっと調べてどうするのさ? と聞き返す山野に真澄はいった。
「論文にする、とか。なんかの形で発表すれば、きっと面白いって思ってくれる人がいるよ」
発表する、ということは真澄にとって今一番大切なことだ。研究成果をまとめ、厳しい査読を突破し、新しい知見をどんどん国際的な研究雑誌に発表していく。それによって、恐竜化石などに比べてずっとマイナーな小型植物化石の分野に集まる注目を増やす。集まった注目をてこに大型の研究予算を獲得し、発掘など費用のかかる活動を維持していけるようにする……そういう良い循環をつくらないとダメなのよ。それが彼女の口癖だった。古生物学に限らず、複数の研究者や機関が参加する大型のプロジェクトをよしとする考え方は根強い。実際、そのようなプロジェクトの多くは一人がちまちまと行う研究では考えられないような大きな成果をあげてきた。ただ、それは「良い」循環を生み出しているのか、と山野は冷めた気分になる。世界中から人の頭脳も情熱も吸い上げて、出資できる豊かな国や地域をより豊かにするだけなのではないか? その思いが否定できなくなって、自分はあのプロジェクトを辞めたのではなかったか? でもこれは、夜遅くまで研究資金への応募書類を書いている真澄には関係のない感傷だ。
結局どこにも居場所はなかったのか? 違う。それはノンセンスだ。山野は即座に自分の安っぽい感傷を否定する。だれもが彼に居場所を与えてくれた。が、自分は留まらなかったのだ。留まり続ければ、築き上げてきたものが無残に崩れていくのをみることになるのではないか、と怖かったのだ。そして、自分は今も逃げ続けている。ここで、自分の国で。
クライポレ・午後九時
ローストチキン、チョリソー、ラザニア、コールスロー、自家製のチョコチップクッキー。二階のダイニングキッチンのテーブルの上には、食べ物ののった大皿やボウルがたくさんのっている。ダニエラとオンチャはオーブンの中を覗き込んで、まだ中に入っているジャケットポテトをつつき、マヌエラはぶっきらぼうな顔でテーブルに皿やグラスなどを並べていく。
久しぶりにみんなの予定が合った週末、ディエゴとオンチャは、ラザニアとコールスローを持ってルーシーの家にやってきた。ルーシーはもうテーブルについていてホセファが白いナプキンを胸元につけてやっている。ジャケットポテトが運ばれてくると皆も席についた。ヴァウターがワインの栓を開け、オンチャとダニエラとのグラスにメンドーサで買ってきたというそのワインをなみなみと注ぐ。ワインの香りをかいでオンチャが、ン~っと幸せそうな顔をする。ルーシーの分のグラスをホセファに手渡してから、ディエゴにもボトルをあげるしぐさで、飲むか? と聞くが、ディエゴは軽く首を横に振って断わる。もう十八歳だから飲んでもOKだけど、あまり飲みたいと思わない。……トラック仲間の間で最近人気のワイナリーから2ダースほど買ってきたんだ。ヴァウターは自分のグラスにワインを注ぎながら、オンチャの質問に答えている。
家族が集まるのはいいことだ。ホセファが作ったチョコチップクッキーでHeladería Manzi 謹製のアイスクリームをすくって食べながらディエゴは思う。特別な事があるわけじゃないけど特別だな。デザートを食べながら、大人たちはクッキーをほめたり(確かに美味しい)ありきたりのことを話している。デザートをさっさと食べてしまったマヌエラは所在なさげに携帯をチエックしている。満たされた気分の中、ディエゴがぼんやり胃のあたりをさすっていると、ダニエラが不意に訊いた。
「でも、危なくないの?」
パタゴニアの調査支援員の話だ。自然相手の仕事だから相応の危険はあるだろうが、探検に行くわけではないし、主に調査隊のキャンプ地を回るだけだから、と答えると、そうだな、あそこの幹線道路の状態は悪くない、とヴァウターがいう。野生動物もいる? とホセファが訊くので、うん、グアナコやレア、ピューマやハヤブサなんかもいるらしいよ。と答える。じゃあ、そういう猛獣を避けるために、反射テープか何かついた服がいるわね、とダニエラがいう。まだ願書を出しただけなのに、とディエゴはおかしくなる。金曜の夜、四苦八苦して書き上げた応募書類と、セラーノ先生と去年課外授業の講師に来た環境NGOの人からもらった推薦状を、応募サイトにアップロードして「応募」ボタンを押した時は、さすがにホッとため息が出た。
笑いながら茶化すホセファとオンチャに、でもピューマは猛獣よぉ、とダニエラが大きな声でいい返す。そのとき、今まで黙っていたルーシーがいきなり大声をあげた。
「ピューマはアタワルパの子孫を守る! ……この子の父親はアタワルパの直系だ、だからピューマはこの子を守る!」
ダニエラは一瞬ぎょっとし、すぐ、またか、と心底うんざりした顔になった。
「父親って、ママ、何の話? ディエゴのお父さんはアメリカ人でしょ」
ああ、また混同しちゃって、というダニエラに見向きもせず、ルーシーは続ける。
「だから髪を切っちゃいけないよ。子孫しるしの髪を切ったら、守護は失われてしまうからね!」
「……なにがピューマの守護よ、皇帝の子孫よ!」
食器を洗いながらダニエラはまだ不機嫌だ。
「大体、ママは南米人ですらないじゃない。いってしまえば、マジックマッシュルームでラリって、インカの末裔をかたるエセ心霊治療士に引っかかったヒッピー崩れのアメリカ女じゃないの。あたしたちにアタワルパの血なんて、たとえ混ざってたって、薄すぎて検出不可能よ!」
そうね……オンチャは大皿をすすぎながら微笑む……人間みんな、いろんな祖先の血が混じってる。有名な人も無名な人も。混じってる、っていいことだと思う。混じりあってひとつになって。なんだか暖かいもの。
「アメリカの大学にはいかないのか?」
ルーシーが皆にお休みといい、ホセファに付き添われて寝室に行ったあと、ヴァウターがぽつんと訊いた。少し考えてからディエゴが口を開けると、答えではなく質問が流れ出た。
「ねえ、ヴァウター。ヴァウターのトラックに乗って遠くまで行った、たくさんのお客さんたち。あの人たちは無事にかえってきたのかな」
少し間をおいてヴァウターはいった。
「さあな。でも、あいつらは行ったんじゃなくて、かえったのかもしれないぜ」
中野・午後六時
……しらないな。で、行くつもりなの?
これは質問じゃない。脅しだ。「彼女」をより深く支配するため、不安定にするための。
……わからないな、行きたいの?
どう訳せばこの恐怖が伝わるだろう? 恭子は疲れた眼を固くつぶり指先で額を揉む。……行くいかないは私の勝手よ。たとえどうなろうと、この自由を手放すことはないわ。
六本木・午後九時
店は開いてるがまだ客はほとんどいない。翔は黙って贔屓客にメッセージをうちつづける。返信が一軒。手早く読んで返事を打ち返す。えー残念。ImissU! 次のアプリ、ジュンジさんから今夜のスペシャルミロンガへの招待状が再送されている。そして最後のアプリ。……新着メッセージ0件。ふう。横でユージが最近入ったやつに小声で講釈を垂れている。
「……でもさ、人間食うこと大事よ。胃袋つかんじゃったらこっちのもんよ」
「でも毎日女に飯つくってやるなんて、ありえねっすよ」
「毎日? ノンノン、勝負時だけ。『料理なんてしそうにないカレが、お前だけな、今日だけな、ってご飯つくってくれた、やっぱ私は本命⁉』ソコですよー」
ええ、そうすか~でもオレはやっぱ食う方……ですよねえ普通、と体をのり出して同意を求める新入りに、翔は半笑いを返す。
みてやるだけでいいんじゃねえの? 翔はそれぞれに違う彼女たちの魂の形を思いす。どこかいびつでドクンドクンと脈打っている、誰にもみられたくないけれど誰かにみて欲しい自分。……ワタシは美しい? ワタシのことを本当に欲しいと思ってる? 他人の目に映った自分しか信じられない。なら、誰かが代わりにみてやるしかない。おれたちは魔法の鏡だ。鏡よ鏡。彼女たちの縋り付くような、それでいて権高に要求するまなざしを遮るよう目を閉じる。……おれの魂もあんなふうに歪んでびくついているんだろうか。でも、あんたはおれをみない。おれの魂はたぶんズタボロだ。だけど……だから頼む、おれをみてくれ。そして教えてくれ、何が本当なのか。
軽く頭を振って眼を開けるとユージが「必勝」レシピを新入りに伝授しているのが耳にはいった。あきれたような声をつくって翔はいう。
「……なんだよそれ。女の部屋にいったら、ンな事の前にやる事あるっショ!」
男たちはどっと笑った。
六本木・午後十一時
六本木の喧騒から少し離れた場所柄のせいだろうか、それとも暗めの照明のせいだろうか、このミロンガは少し秘密めいたにおいがする。誘い誘われる人達の間で交わされるカベセオも心なしか上目遣いだ。恭子は低いラウンジソファに浅く腰掛け、相客の話を聞いている。隣の二人は婚約中のトルコ人と日本人のカップルで、先日のセミ・プライベートレッスンで知り合った。涼しげな眼もとの彼は、流暢な日本語でイスタンブールのタンゴシーンのあれこれを話している。
「……フェスティバルはマエストロたちにも評判がいいんですよ。ヨーロッパからもユーロで払ってくれる参加者がたくさんくるし、物価が安くて食べ物もおいしいし、それに気候もいい。それにビザ関係も……」
今夜このミロンガに田辺の姿はない。セミ・プライベートレッスン以来、田辺から連絡はないし恭子も連絡していない。恭子たちの席からはほとんどみえない奥まったVIP席にはディエゴとチェチリアがジュンジ、ユミ、ミロンガの主催者たちと座っている。しかし、そちらの方を恭子はみない。あんなことを聞いたせいか、ディエゴのすべてが胡散臭く思えてくる。……先走りしすぎだ、と恭子の理性はいう。田辺の話が本当だという証拠はない。しかし、理性の下で警告サインが点滅するのを、恭子は否定することができない。
▶️続きは Oblivión【5】で
◀️Oblivión【3】
©2004-2005 Rico Unno, CC BY-ND
