Oblivión【3】
(タイトル写真 by Preillumination SeTh)
あの娘はだあれ?【3】
以前どこかでお会いしませんでしたっけ? ……昔は髪が長かったんですけど、それでも見覚えないですか……そうですか。ですよね。変なこと聞いてすみません。なんだか、ここも昔来たことがあるような気がするんです。かかっている音楽のせいですかね。変ですよね、初めて来た街なのに。
ブエノスアイレス・午後四時
キッチンテーブルの上にメモがのっている。ラップトップやら靴やらで妙な形にふくらんだバックパックをひとまず床に置き、ディエゴはメモを手に取って読む。……お帰りディエゴ! チキンと野菜のスープあります(コンロの鍋の中)。今回時間がなくて作れなかったのでドゥルセ・デ・レチェはなし。ダニエラに謝っておいて。ルーシーに私からキスを。ママxxx。 鍋の中は一応覗いてみたが、もう少し腹にたまるものが欲しくて、冷蔵庫をあけ、昨日の残りのラザニアと、ミルクのプラスチックボトルを取り出す。手早くミルクをコップに注ぎ、ラザニアをレンジにいれ温めている間に、冷凍庫をあけて中をチェックする。年季の入ったアルミの大きな容器が二つ、どん、と入っていて、一つの蓋にはチョコレート、もう一つにはピスタチオと書いた小さな紙がテープではってある。……ピスタチオ、いいじゃんか。チン、という音で、冷凍庫を閉めレンジを開け、手早く腹ごしらえをする。四時半過ぎのボスケス行きに間に合うだろう。
クライポレ・午後六時
S. y Kosteki 駅からロカ線、バスと乗り継いで、ルーシーの家までは一時間弱だ。バス停のある表通りから一つはいった脇道を、ディエゴは、チョコとピスタチオのアイスクリームの容器が入ったクーラーボックスを肩からさげて足早に歩く。右手の空き地に真新しいトラックが数台停まっていて、ドライバーらしき男が数人、大きなコンクリートブロックに腰掛けてマテ茶を飲んでいる。一人がストローから口を離し、手を振ってディエゴに叫ぶ。ダニエラはさっきもう出たから、勝手にカギ開けて入ってくれ。ディエゴは軽く手を振り返して、わかった、と合図をする。
空き地を過ぎるとすぐ、ところどころ白いペンキの剥げた鉄の檻のような扉がみえてきた。シリアルのおまけのキーホルダーについた古いカギの一つで錠を開け、できるだけ軋まないようにゆっくり外扉をあける。さらにもう一つのカギで入口のドアを開けて中に入り、電気をつけ、クーラーボックスをカウンターの横に置いてから、奥の階段を登って二階のルーシーの部屋までいく。
ルーシーはベッドの中で寝具に埋もれるようにして眠っていた。しわ深い口が少し開いて、息が規則正しく出入りしている。そっと傍に寄ってボサボサとした白い髪をゆっくりなでてやると、黄色くくぼんだ眼窩の奥で水色の目が開いた。眼球がグルリとまわってディエゴの方をみる。
「ルーシー、気分はどう? オンチャがよろしく、って」
そういってディエゴはルーシーのしわくちゃになった絹地のような頬に片方ずつキスをした。
「オンチャ、オンチャって?」
「いい人だよ」
「そう? そうね、きっとそうね」
あなたの娘だよ、といってやったとしても、おそらくルーシーはもう思い出せない。数年前までは、昔の話などをそれなりに首尾一貫して話せていたが、最近は自分から話すこともほとんどない。
「あなたは?」
「ディエゴだよ」
「ディエゴ。ディエゴ……」
そういってルーシーはディエゴの顔に目を当てていたが、つと手を伸ばすと彼の頭に触り、長い髪が後ろでまとめてあるのを確かめてから、声に力を込めていった。
「切ったらだめだよ。切ったら。恐ろしいことが起こるから!」
「うん、切らないよ」
するとルーシーは安心したようにまた浅い眠りに戻っていった。
店のカウンターのアイスクリーム用保冷スペースに、持ってきたチョコとピスタチオアイスの容器を入れる。その横のガラスケースには、すでにハムとチーズのサンドイッチがきれいに耳を落とされて積まれている。母の祖父(なのでディエゴの曽祖父)が住居兼アイスクリーム屋として使っていたこの建物の一階は通りに面した小さな店舗で、今は、叔母のダニエラが、日常雑貨やスナックを売る店として使っている。二階と三階の住居スペースには、ダニエラとオンチャの母のルーシーが一人住んでいる。一人暮らしといっても、最近は、近所に住んでいるダニエラと彼女の家族が
なにくれとなく世話をしてなんとか続いている感じだ。
最近のルーシーは家から出ることもあまりないが、少し前はフラフラと出て行っては迷子になることが続いて、その時はオンチャも心配してしばしばここに泊まりこんでいた。そんなある日、ついでにと家の中を整理していたオンチャはガラクタの中から茶色くなった紙束をみつけた。穴をあけて紐で閉じてあるだけのそれは、祖父の手書きらしいアイスクリームのレシピ。興味をそそられたオンチャがそのとおりに作ってみると、懐かしい味のアイスがいろいろと出来上がった。いけるじゃない! こういうの懐かしがって買ってくれる人きっといるわ、と面白がったダニエラが、そうかもね、と半信半疑のオンチャを説得して再現アイスを店に出してみたところ、あっという間に評判に……という作り話のような展開で、Heladería Manzi のアイスクリームは再びカウンターの一角を占めるようになった。はじめのうちは店に眠っていた古い道具を使って作っていたのだが、効率が悪いということで、オンチャは中古のアイスクリームマシンを買い込み、今は、彼女が自宅で作ったアイスクリームを週一、二回、ディエゴがダニエラに届けるという形で落ち着いている。
オンチャは二つの仕事のあいまに時間をみつけては家のキッチンでアイスクリームを仕込んでいる。ドゥルセ・デ・レチェはミルク、クリーム、砂糖を煮詰めて作る一種のキャラメルで、作るのに時間がかかる。それをさらにフレッシュクリームなどと混ぜて作ったアイスクリームは一番人気のフレーバーだが、今週オンチャは仕事で手いっぱいだったようだ。ディエゴが起きる前に一つ目の仕事に行き、学校にいる間に帰ってきて仮眠をとり、二つ目の仕事に出かけるのはいつものことだが、今週はディエゴが眠ってから帰ってきているので、夜も顔を合わせていない。
ドリンクの保冷ケースに水や缶コーラを補充していると、ヴァウターが店に入ってきた。ヴァウターはダニエラの夫で、交通エンジニアだが今はトラックのドライバーをしている。
「おう、どうだ? ルーシーは?」
「寝てる」
「おう。ダニエラはホセファのチアに行ってて」
「知ってる。決勝なんでしょう?」
「オレはもうすぐ出ないといけないし」
「知ってる。だからダニエラが帰ってくるまで店番するよ」
「おう、助かるよ」
ホセファはヴァウターとダニエラの娘で、チアダンスのグループに入っている。今日は地区のトーナメントの決勝で、いつもならダンス全般に興味のないヴァウターがダニエラの代わりに店番するところが、急に長距離の仕事が入ってしまって、ということをディエゴはきいていた。
「仕事忙しいの? どこまで?」
「サンチアゴ・デル・エステロ」
「かなり北だね。でも商売繁盛はいいことだね」
さっき空き地でみた真新しいトラックを思い出しながらディエゴはいった。ヴァウターは小さく肩をすくめると店の奥に向かい、大きな魔法瓶の水筒に湯をいれ、新しいマテの袋やらスナック、オレンジ、水などをバッグに入れている。すると通りから女の声がして、ヴァウターは、出発は六時半、と大きな声で答えた。
ヴァウターが運ぶのは貨物だが、余裕があるときは人を乗せることもある。今日の乗客は女で、大きなキャリーバッグをゴロゴロ引いて店に入ってきた。ぐるっとあたりを見回し、スナックの袋などを手にとっていたが、やがてカウンターにやってきてアイスクリームを注文した。ディエゴがチョコとピスタチオを一掬いずつカップに入れている間に、女は財布を探している。みつからないのか、ジャケットの前を開け内ポケットやあちこちを探っている。Tシャツの裾はわざとハサミで切って短くしてあり、胸の上にプリントされた太陽の模様が黄色くテラテラと光っている。ようやくどこからかペソ紙幣をつかみ出してカウンターの上に置いた。ディエゴがアイスクリームのはいった紙のカップとプラスチックのスプーンを、どうぞ、と差し出すと、女は、あんた息子? と訊いた。ディエゴが首を横に振ると、女は何もいわずに片手でカップとスプーンを注意深く受け取り、ゴロゴロと店の外に出て行った。
ブエノスアイレス・午後十一時
ありがとう、と手をふると、ブワーンというクラクションの音がして、トラックはゆっくり側道から離れていった。ディエゴは、車の流れに背を向けると家に向かって歩き始めた。クーラーボックスの中で店の裏の木でとれたレモンと、空になった先週のアイスのアルミ容器とがぶつかって、ゴワンゴワン、と音を立てる。
ダニエラは、ホセファと下の子のマヌエラを連れて、八時ごろ店にやってきた。途中エンパナーダスを買ってきたのよ、いっしょに食べましょう! ダニエラがカウンターの周りに手際よく椅子をならべる間に、ルーシーがホセファに手を引かれて、二階からゆっくり降りてきた。紙の上に広げられたエンパナダスはまだあたたかくて、皆はしばらく黙々と口を動かし、とサクサクした小麦粉の皮に包まれたジューシーなひき肉の具を楽しんだ。そのあと今日のチアの出来とか(ホセファのチームは惜しくも二位だった)借りた家庭菜園で作っている野菜のこととか(セロリが育ちすぎてスが立ってしまった)を一通り聞いたあと、ディエゴはそろそろ帰るよ、と立ち上がった。
市のほうに行くトラッカーがいないか、きいてあげるわ。そういうとダニエラも一緒に立ち上がり、ルーシーの方をちらりとみて、空き地まで行って戻ってくるからその間お願いね、とホセファたちにいう。それを聞いてディエゴは、じゃあまた来週、とサヨナラのキスをしようとルーシーのほうに身を屈めた。すると、さっきまで無表情だったルーシーがおびえたような顔になっている。どうしたの? と聞くと、ルーシーは、空き地に行っちゃいけない、という。大丈夫よママ、麻薬の売人はもういないし、トラッカー仲間もいるし、とダニエラがいっても、ルーシーは、空き地に行っちゃいけない、と繰り返す。ディエゴは、わかったよ、空き地にはいかないよ、とルーシーに優しくいう。ルーシーはまだおびえたように、行っちゃいけない、と繰り返す。わかったよ、行かないよ。ディエゴも繰り返す。ルーシーはディエゴの髪にさわり、繰り返す。
「いいかい、切ったらいけないよ。切ったら恐ろしいことが起こるよ」
ディエゴと一緒に通りを歩きながらダニエラはうんざりしたようにいう。
「まあ、今に始まったことじゃないから。ママの迷信、誇大妄想、こじつけは昔っから。髪を切ろうが切るまいが、不幸は起きるときに起きるのよ! ……あなたは優しいから。ママのたわごとに付き合う必要なんてないのよ!」
ダニエラはディエゴの髪にちらと目をやってから、つかつかと空き地入っていき休憩中のトラッカーたちに話しかけた。
家のドアを開けると、電気がついていて、お帰り、という声がした。まだだれもいないだろうと思っていたので、ディエゴは驚いてアパートのドアの枠にクーラーボックスをぶつけてしまった。
「早いじゃん、今日は」
「うーん、まあいろいろあって」少し疲れた顔でオンチャはいう「いまスープ温めてるんだけど、食べる?」
「うん」
今日はいい日だ。ディエゴは思う。家族と食べる夕食が二回だ。
中野・午後四時
ううん、違うな。Fosterの語り口と合わない。恭子は下訳を矯めつ眇めつする。さて、どのように直したものか……。原文に目を移す。平穏な日常が一行ごとに闇へと滑り落ちていくその恐ろしさとは裏腹に、さらさらとした手触りの会話。そう、だからここの訳は最小限じゃないといけないけれど、そぎ取りすぎるとかえって変なアクセントがついたりして逆効果だ。確かにむずかしい。下訳の行間からミカさん(ミキさんだったけ?)のうめき声が聞こえるようだ。何気ない「彼」と「彼女」のやりとりが隠された支配の意図をあぶりだす。……怖いよねこういうの。フィクションってわかっていても。愛情だったはずのもの、思いやりに満ちた行為だったはずのもの、幸せを願う気持ちであったはずのもの……。運命の歯車は掛け違ったままゆっくりと回り続け、世界がその負の姿をあらわにする。簡単に分けられるものは何もない。光と闇すらも。そして成功の物語が光に満ち溢れるほどみえない闇は濃さが増すんだ。なぜかディエゴのイメージが浮かぶ。怖いものみたさなのかもしれないな……。恭子は「セミ・プライベートレッスン」と書かれたチラシをもてあそんだ。
新宿・午後二時
今日はこれから研修だよん。じゃあまたあとで! 同じ文面を張り付けてメッセージに返信する。他のアプリと合わせると少なくとも10通は同じメッセージを送ったろう。最後のアプリをあけると、新着メッセージは0件。ふう、とため息をついて隣をみると、ユージも同じように忙しく携帯をいじっている。ソーシャルメディアはホストの最強営業ツール、友達・フォロワー登録数は営業成績の一部だ。ユージはオンライン営業に熱心でユーチューブチャンネルも持っている(「ユージのホスト飯」といって、いかにもホストな衣装にエプロンをかけたユージが、わりと本格的だが短時間にできて美味い料理をつくる、という趣向)。今二人が並んで座っているのは、しかし、クラブの控室ではなく新宿のダンス教室のベンチだ。そこで今日の「研修」が始まるのを待っているのだ。
マネージャーさんはいった。……ウチはね、其処らの素人集めただけのクラブとは違うんだよ。オーセンティックってわかるかい? 第一は、お客様にバカ騒ぎだけでないホストとの時間を体験をしていただくことだ。そこではね、顔やガタイの良さだけじゃダメなんだ。陰影だ、陰影がなきゃ。この男にはみた目の小綺麗さだけでない何かがある、それは何だろうって興味を持っていただける、そういうもんがないとダメなんだ。そういう深さがなけりゃ、客はかえってくるもんか。そのためのスタッフへの投資なんだ。だから、そのつもりでやってきてよ。……というわけで、おれとユージはサロンダンスのレッスンに突っ込まれた。「誘惑はホストの基本のキ」つっても、アルゼンチンタンゴなんて、いくら何でも古すぎねえ? 大体、オレらと踊りたい客なんているか? とユージがいうのはもっともだが、まあ昼飯付きの研修だからいいじゃんか。おまえと違っておれはメシつくれないし。
翔は携帯から目を離してスタジオを見回す。昼日中のこの時間にダンスレッスンって非日常感超級だが、この人数。アルゼンチンタンゴなんてものをイマドキやってる奴がいるってことにマジびっくり。それに、まったくの素人はおれたちくらいで、あっちのペアは結構長く踊っているらしいし(男の方の眉間に、プロ目指してます、的なシワがよっている)、こっちのペアもなんか踊れるらしい。そっちの二人は明らかにヒップホップ系だから、なんでタンゴなのかよくわからないが、よくわからないのは、おれとユージもそうだな。でもおれら、男二人でタンゴの練習ってさ……。ジュンジさんによると「昔、移民があふれてた頃のブエノスアイレスは女性が男よりずっと少なくて、男同士の練習は普通だったんだよ」だそうだが、やっぱちょっとトホホ。
ジュンジさんはダンス・インストラクターで、「アルゼンチン」タンゴの「アジア」チャンピオン。ってなんだソレなタイトルだけど、本場でも名の知れたヒトなんだそうだ。レッスン中の質問なんかにもサクサク答えていて、いかにもできるセンセーだし、さすが踊りはサマになってる。まあ、如何にできるセンセーに教えてもらっている、といっても、おれらは別系統のプロなので、ハナから大した結果は期待していないが、ジュンジさんは、いい線いってるよ! といってくれてる。よっ、アゲ上手!
今日も時間通りにジュンジさんとパートナーのユミさんが、おはようございまーす、とスタジオに入ってきた。軽いストレッチとバランス練習をした後、タンゴがかかると、みなアブラソを組んで動き出す。……古っぽい曲だけど悪くないな。ちょっと音楽を聴いてから、とりあえずユージがフォロワーってことで、おれたちも先週習ったことをやってみる。フォロワーの足をとるサカーダというステップが結構難しい。フロアを反時計回りに進みながら、ユージを一方にリードしてから体重のかかってないほうの足をはらう。はらう、といっても、自分の足のサイドで相手の足をそっと押し出すって感じだ。ユージを前に動かして後ろの足をサカーダ、後ろに動かして前の足をサカーダ。そうしながら、おれはユージが動いた後のスペースに滑り込む。二人でぐるぐる、いわば足取り追いかけっこだが、息が合わないと相手の足を逃したり動きがぎくしゃくしたりする。なんとかいけたねオッケー、と思ったら、あれ、おれたち進行方向逆向いてるじゃん……。
「はーい。じゃあ今日はもっとサカーダのバリエーションをということで、インナー・サカーダ、フォロワーの脚をディスプレースメントからロンドジャンブ・デリエールにつなぐのやってみましょう」
なんのこっちゃ、だが、まあみれば何とかなるだろう。ジュンジさんとユミさんのお手本に注目。二人は軽く動いてダンスのラインにのると、ジュンジさんがユミさんを真っすぐ前、だからユミさんからすると真後ろ、に送り出す。ユミさんの後ろ足に体重が乗り出した瞬間、彼女の前足がある場所をめがけてジュンジさんが踏み込む。ジュンジさんの足に押し出されたユミさんの足は、スーッと床の上に弧を描いて後ろに流れていく。サカーダ、スーッ、サカーダ、スーッ。自分のあしの内側で相手のあしの内側を押し出す、ああ、だからインナー・サカーダか。先週習ったぐるぐる回るサカーダと違って、これは真っすぐだ。インナー・サカーダを繰り返し、一歩ごとに足をかき分けて前に進むジュンジさんを、もっと深く誘うようにユミさんの脚がすうっと逃げていく。……やっぱ女は尻にも肉ついてたほうがいいよな。や~魅っせますねぇ、さっすがアジアのチャンピオン・ペア。
当然、おれとユージではそんなスムーズにはいかない。ユージと役割変えて俺がフォロワーでやってみる。げ、脚をスーって流すのって結構ムズい。ユミさんの脚を思い出しつつ、誘うようにスーっ……腹がまた減ってきた。性欲と食欲は連動ってか? ジュンジさんの、パートナチェンジ! の声で今度はヒップホップ女と組む。編み込みの頭がおれの胸くらいの高さなので一瞬アブラソでまごつくが、動き出してみると彼女、体にばねがあって踊りやすい。びよーんという感じで彼女を押し出す、踏み込んでサカーダ、で脚がスーッ。またびよーん、サカーダ、スーッ。びよーん、サカーダ、スーッ……。面白くなって、えいっ、と勢いよく踏み込むと、押し出しされた脚は床を離れ弧を描いて空中を飛んで行った。やばい、強すぎた! ゴメン、と謝ったが、女は気にしてない様子で、やおらバギーなパンツの脚をぶわん動かすとおれの腰のあたりにがっちり絡みつかせ、センセー、こーゆーのどうやるんですかぁ、とジュンジさんに向かって大声で訊いた。
「そうね、決めのポーズとしては……」
ジュンジさんはヒップホップの手を取ると、何気なく向きをかえた。するとその動きにたくし上げられたように彼女の脚が彼のサイドを這い上る。「腕はこう、で正面向いてポーズ。それか、こっち……」
そういって今度は横に踏み込むと、彼の脚は彼女の片脚を絡めとり、両脚を大きく開いてポーズが決まった。
「ワォ、タンゴ~って感じぃ!」
スタジオの鏡に映った姿をみてヒップホップは大喜びだ。やってみる? というジュンジさんに促されて彼女の手を取る。
「そう、もうちょっと後ろの手をあげて。そう、鏡の方を客席と思ってポーズ!」
確かにこんな感じだな。どこか見覚えのある恰好だが、顔はもちょっとシリアスなほうがいいか。鏡の中の自分に向かって少し眉根をよせて、ぐっと女を抱えてポーズ!
「おー、コぺスも真っ青! 翔クンやるねぇ」
「ウワーオ! あんた、イケてるよ! コレはお客さん、絶対落ちるね!」
客とタンゴでポーズって、それどういうシチュエーションよ? ありえんっしょ、まったく。
次のパートナーは地味な女だ。女っぽいところをすべてキャンセルしたような線の細い体つきで、化粧っ気なく、ぴっちりまとめた髪の分け目だけが白く目立っている。アブラソを組もうとすると、女はおれの右上腕を左手でつかんだ。がっちりってわけじゃないが、ブロックされてアブラソは閉まらない。あれ~おれタイプじゃなかったですかあ? って冗談はさておき、まあどうでもいいさ。
開いたアブラソで踊りだすと、体が離れているので方向転換で遠心力がかかるが、相手は軽いので問題はない。女は時折足をひらりと返して動きにアクセントをつける。
「もうちょっとリラックス……」
ユミさんの声がかかった。すると女はおれからパッと手を離してユミさんの方に向き直る。
「……ロンドジャンブなんだけど、もうちょっと足首をリラックス。でないとバレエになっちゃう。それと左手ね、ずっと同じとこ掴んでいるとフレームが壊れるから滑らかに変えられるようにね。どの位置でもコネクションを失わないように」
ユミさんは女の左手をとると、おれの右腕から肩の上を滑らせる。ひょっとしてユミさんはジュンジさんより年上? でも色気あるよな。やっぱタンゴは誘惑だしな。
バレエ女と再び動き出す。女は思案顔でまだ左手の位置を確かめている。……練習熱心はスバラシイんですけど、目の前にいるこんなイイ男を無視っていうのは、どーなんでしょうねぇ、タンゴとして? モリネッテを続ける女を遮って素早く方向転換すると、おれの右腕の上に自信なく置かれていた左手が一瞬浮いた。すかさず、その下をかいくぐって細い胴に右腕を回しアブラソを閉める。右腕の中にすっぽり収まった女は、一瞬ヒクっと体を固くしたが、そのまま抱いていると、体の芯が柔らかくなって、おれの胸に自分の胸を合わせるのがわかった。……こういうコトなんじゃねえの? 文字通りアブラソの状態で左右に少し動いてみると、女の体を伝わった動きはやわらかい波動になってかえってきて、彼女の足がどこにあるか手に取るようにわかる。彼女の足はおれの足だ。
四本の足は一つの音楽にのって歩きながら、複雑な綾目模様を描き出す。二人の胸は溶け合い、翔は彼女の中の白くて拍動しているものをみつめる。ドクン、ドクン。ドクン、ドクン。……魂の形はみんないろいろだな。ブルッ、ブルッ。ブルッブルッ。それは何かを求めるように震え、身もだえするように動いたかと思うと伸びあがり、やおら翔に飛びかかった。
音楽がおわり、女は翔の右肩をとおり越して首にかけていた左腕を外すと、体を引き剥がして一瞬彼の顔に目をあてたが、無表情なまま何もいわずに次のパートナーの方に歩いていった。翔はそおっと胸に触る。まるで鋭い歯のついた小さな口が喰いちぎっていったところから血が流れているかのようだ。痛……だからあいつら油断できねえ。
ブエノスアイレス・午前九時
申し込み締め切りは六月三十日、推薦者が二人必要。セラーノ先生のほかにもう一人誰かに頼まなくちゃならない。ディエゴはダウンロードした募集要綱をにらむ。パタゴニアで行われる地表水調査の支援スタッフの募集だ。支援スタッフといっても。複数のベースキャンプに資材や食料を届けたり、キャンプで出る様々なゴミ・廃棄物を管理回収したりと、いうなれば雑用係だが、若い世代にこういう環境調査活動を直接体験して興味を持ってもらおう、ということで「ジュニア枠」が設けられていて、今年の十月一日で十八歳以上二十歳未満であれば、環境調査の経験がなくても応募できる。期間は半年、キャンプでの生活費は調査隊持ち、少しだが給料もでる。昨夜この募集のことを話した時、オンチャは少しびっくりしたようだった。地元の大学の応募書類もいくつか学校からもらってきてあったから、そのままそっちに進むと考えていたのだろう。面白そうね、といったあと、
「でも半年、ってちょっと中途半端じゃない? その後はどうするの?」と訊いた。
「しょうがないんだよ。五月以降、地表水は凍り付いちゃうし。あとの半年はバイトして、来年度から大学に行く資金をためるよ」
オンチャはすこしまぶしいような顔をして、そう、といって二人分のスープ皿を片付けにかかった。
セラーノ先生は二つ返事で推薦書を書くのを引き受けてくれた。いいね。とてもいい経験になると思うよ。でもきっと競争率は高い。だから、やっぱりプランBは作っておいた方がいいね。地元の大学へ応募書類はもう準備したかい? 外国の大学も調べてみた? サンチアゴ・デ・チリの地球科学学部もとてもいいよ。アリゾナの環境科学学部も……。外国の、それもアメリカの大学に進んだらオンチャはとても喜んでくれるだろう。二つ目の仕事を今のに変えた時、あなたの留学資金とかもいるかもしれないしね、と冗談っぽくいっていた。でも正直にいうとディエゴは留学にあまり興味がない。どこかに、それではどうにもならない、という漠然とした閉塞感がある。でもこの募集をみた時、パタゴニアの冷たい風がこの閉塞感を払ってくれるような気がした。なぜそういうふうに感じたのかはわからない。でも、今もそう感じる。
ブエノスアイレス・午前十一時
税関のオフィスは九時に開いたが、担当者は十一時になってやっと空港での緊急検疫から戻ってきた。急に調子が悪くなった馬の輸出書類に問題があって、という担当官の話を聞きながら、競走馬かな、と真澄は思った。アルゼンチンは世界有数の産馬国で、特にアルゼンチン産のサラブレッドは天文学的な値段で取引され、ヨーロッパの有名育成牧場や中東のオーナーの厩舎などに細心の注意を払って空輸される。従って、馬に何かあると、共積みの貨物や乗客まで足止めを食らうこともまれではない。それに比べると真澄が運び出そうとしているものはずっと地味だ。今、税関の倉庫に足止めされている彼女の荷物は化石、それも恐竜のではなく、白亜紀の初めに火山の噴火とアンデス山脈の形成に伴って押し流されて埋もれた植物の化石標本だ。貴重という点では競走馬に全くひけは取らないが、死んだりする心配はもうないので税関の優先度もそれなりになる。
アルゼンチンは化石の産出国としても知られていて、世界中から古生物学者が集まってきて、発掘、保全、研究に忙しい。植物の化石というとサンタ・クルスの「化石の森」、ペトリフィカドスが有名だが、真澄たちのグループが集めたのはもっと小型の、葉や種子の化石だ。税関から書類不備で通関できません、という短いメールが届いてからメールや電話で何度もやり取りしたが埒が明かず、担当の係官と直接話をするために予約を取って、真澄は発掘拠点のあるサルミエントからブエノスアイレスまで二日がかりでやってきた。アリゾナの研究所に送るための通関書類は合計十五枚、今まで何度も同じ様式を使って同じような標本を送っているので、どうして今回はダメなのかさっぱりわからない。真澄は居住まいを正して担当官に向かい合った。
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