Oblivión【2】
(タイトル写真 by Preillumination SeTh)
カミナータ
まずはパートナーいっしょに歩いてみましょう。でも難しく考えないで。『お嬢さん一緒にお散歩しませんか?』『ええ、喜んで』『素晴らしい! では、お手をどうぞ』そんな感じで。パートナーに微笑んで、そうです、お互い相手に注意を払って。そうすれば、自分だけ早くなったり遅くなったりして、相手にぶつかったり、置いてけぼりにするようなことは起こりません。無理のないペースで。そうです、一緒に歩く、それがアルゼンチンタンゴの基本です。
四谷・午後二時
午後のワークショップはアルゼンチンタンゴ中・上級者向け、となっているが、参加者は「自称」中・上級者なので、そのレベルは中級がせいぜい、というところだろう。それより問題は、フォロワーのほうがリーダーより多い、ってことだ。やれやれ。恭子は、スタジオのベンチに座ってダンスシューズに履き替えながら、小さなため息をつく。今日持ってきたのは、新しいフェリシアの8.5センチスーパーピンヒールではなくて、練習用の肌色の5センチ。もう半年くらい使っているので少しくたびれてきているが、皮も柔らかく足になじんでいるし、軽い。今日はガンガン練習してガンチョを習得したいので、なじんだ練習靴が一番なのだ。
ガンチョの意味は「鈎」。二本の鉤棒が絡んだように、二人のダンサーが脚を絡ませる、みればだれでも、ああ、あれね、とおもうに違いないアルゼンチンタンゴの代表的なステップのひとつだ。したがって、決まると映えること必至なのだが、中途半端だと足が引っかかってコケる寸前といった体になり、映えないこと著しい。恭子もタンゴの練習にかよっている中野のスタジオで何度もトライしてみたが、鏡に映った姿は今一つだった。
「恭子さんは背が高くて足が長いから、僕らの短足じゃうまくいかないんだよ」
練習仲間の浅井さんはそういったけど、まあそれは言い訳だ。だってブエノスアイレスのマエストロたちは浅井さんより短足(で背も低くて太め)だったりするが、自分より背が高いボン・キュッ・ボンで美人のパートナーと、目の覚めるようなガンチョをビシバシ決めてるじゃない。
ため息をかみ殺してもう一度ゆっくりガンチョへのシークエンスを繰り返す。……左足へサイドステップ、ピボットしてボレオ、後、前、後、そして右足でバックオチョ。そこで恭子のフリーレッグが待っていた浅井さんの右脚に絡んでガンチョ、のはずなのだが、彼女の足は浅井さんの脚にぶつかっただけで「鉤」にはならない。リーダーの脚と離れすぎてるのかな? 近づこうと心持ち大きめにオチョをすると、今度は浅井さんの体とぶつかってしまった。やれやれ。どうもリーダーとの適切な距離っていうのがよくわからない……。この練習会はタンゴの愛好家たちがボランティアで運営していて、決まった講師はいない。ちょっとしたことをお互いに教えあったりはするが、基本は自主練習だ。参加者は顔見知り、気の張るダンスパーティーと違ってみな普段着で、気軽に声を掛け合ってペアで練習できるのは助かるし、小さなスタジオの割には大きな鏡があるのでその前で気になるところを一人で練習することもできる。家からも近くて練習場所としてはピッタリなのだが、やはり素人ばかりなのでやれることには限界がある。
だから、今日のワークショップのことを知ったとき、恭子は小躍りしてほぼ即時に申し込んだ。……テーマはガンチョとそのコンビネーション、講師は世界チャンピオン。ブエノスアイレスまでいかなくても本場の有名プロが教えてくれるんだから、このチャンスを逃す手はないでしょ! 誰か一緒に参加してくれるリーダーを探してから申し込んだほうがいいかな、と一瞬思ったけれど、そんなことをしているうちにワークショップが定員に達したら、とすぐ申込ページに入力を始めたから、迷っていた時間は長くて三秒というところか。まあ、この参加費もお得なくらいだわ。ワークショップの後には生バンドのミロンガがあって、その入場料込みなんだし。
いろいろなワークショップをとるのは、趣味のアルゼンチンタンゴの世界では普通のことだ。もちろん、一人の師匠に心酔して、その人のレッスンしかとりません、という人もいるが、こちらのインストラクターからはミロンゲーロ・スタイル、あちらからはヌエボ・スタイル、と講師ごとに得意とするスタイルを習う人も稀でない。つまり、自分がいいなと思った踊り方を選べるので、ダンスを習うといっても、何とかメソッドの師範免許を持っている先生について、進級試験があって、発表会にでて……といったお稽古事方式とはかなり毛色が違う。習う方の選びたい気分を反映してか、有名インストラクターを集めた講習会やダンスパーティー付きのタンゴ・フェスティバルなども頻繁に開催され、海外のリゾート地で行われるフェスティバルにホリデーもかねて参加したり、目当てのマエストロに習うためにわざわざブエノスアイレスまでいく人もいる。恭子はまだそこまではハマっていないが、そういう自由度の高い習い方ができるところも自分にあっているな、とは思っている。
とまれ、今日の目的は本場アルゼンチンのトップダンサーからガンチョの秘訣を学ぶこと。だからリーダーというか練習相手(というか足)が不足しているのは、恭子はにとって由々しき事態だった。何気ない目つきで参加者を見回す。……三十人位いるかな? 自分のダンスパートナーと来てる人も多い。男女比は四対六くらい。これじゃあ常に二、三人フォロワーが余っちゃうよね。もちろん、女性のリーダーもいるかもしれないけど、私が大柄なせいかどうも頼りなく感じてしまう。特にガンチョのような大技をガンガンかけるとなると、ケガでもさせたらどうしよう、って、ちょっと怖い……。
そんなことを考えている恭子の方へ、手をおなかのあたりで小さく振りながら駆け寄ってくる人がいる。
「高野さぁん」
え、誰? 苗字を呼ばれて、顔を見直しても一瞬誰かわからない。
「え、田辺さん⁈ うわ~、新しいレッスン着? きれいね!」
中野の練習会で時折みかける田辺きよ美だ。まさかここで会うとは思ってもみなかった。誰だかわからなかったのも当たり前、いつもは地味なTシャツ姿で練習会にやってくる田辺が、今日は袖が黒レースのレッスンウエアで、メリハリ系のメイク、髪もまとめて眼鏡もかけていない。
「えー、ワークショップにはちょっと派手かな、と思ったけど、たまにはいいかなって……」
「似合ってる、似合ってる! 派手じゃないよ、バッチリ!」
「ありがとう! でも、靴は頑張りすぎちゃったかも...…」
少し顔をしかめた田辺がはいているのはフェリシアのスーパーピンヒール。銀色だから恭子の Pink&Black とはかぶらないけど同じモデルだ。それで背まで高くなったようにみえたのか……。恭子はピンヒールのなかで窮屈げな田辺の足を見下ろした。
「田辺さんはパートナーときたの?」
「ううん、一人で」
「私も。……ちょっと余っちゃいそうだね」
「あ、でもディエゴのレッスンでは頻繁にパートナーチェンジするから、大丈夫よ」
「田辺さん、午前のワークショップも取ったの?」
「ううん。でも、去年の夏にね、サンディエゴで彼のワークショップ参加したの」
「え、わざわざアメリカまで?」
「ううん、たまたま出張とかぶってて。ラッキーって」
「そうか、確かにラッキー。で、良かった、ワークショップ?」
「うん、とっても! もう段違いっていうか、Over the Moon だった、っていうか」目のあたりを赤くして田辺はいう。
「へえぇ、そんなに良かったんだ。じゃあ、私もラッキーだ、今日来られて」
それを聞くと、田辺は女子高生のように小さく何度もうなづきながらいった。
「きっと気に入ると思うよ、高野さんも!」
その時スタジオのドアが開いて、ジャンパーを着た中年男性が入ってきた。続いて大ぶりのバッグを肩にかけたチェチリアとディエゴも入ってくる。二人とも真っ白なコットンの襟無しシャツとワイドなパンツを着ている。ひょっとしたらお揃いかもしれない。チェチリアは髪をルースなシニョンにまとめており、中世の聖母マリア像のようなオーラを放っている。ディエゴのほうは長い髪を数ヶ所かでまとめて、女神を守るインディオの神官のよう。二人とも思ったより背が低くほっそりしている。ディエゴなど後ろからみると女性と間違いそうだ。
「えー皆様、本日はご参加大変ありがとうございます」ジャンパー姿の男性が二、三歩前に出ると口を切った「私は本日コーディネーターと通訳を務めさせていただきます黒木と申します。さて、本日、ワークショップの終了は午後五時の予定、そのあと休憩を挟んで、午後七時から四谷オアシス会館のダンスホールに於きましてグランミロンガという運びになります。そちらには……」
事務連絡を続ける男性の後ろで、チェチリアとディエゴがラップトップやケーブルをバッグから取り出して手早くスタジオの音響システムにつなげている。その様子を、田辺はうっとりした目でみつめている。……ふうん、すごい入れあげようなんだ。
四谷・午後六時
ワークショップの後、恭子と田辺はミロンガの前に軽い夕食を食べようと一緒にスタジオを出た。田辺が車で来ているというので、車でないと行きづらいところにあるがすこし洒落たものも食べられる蕎麦屋まで行こう、ということになった。ふだんの練習会のあと恭子が田辺と話すことはほとんどないが、今日は話すことがたくさんあった。
「田辺さん、おっしゃった通り、次元がちがうね、あの二人!」
ダンス関係では点数が辛い恭子には珍しいベタ褒めだ。田辺はお通しのソバの実の入った焼味噌をキュウリにつけながら、そうでしょ、という感じで口の両端をきゅっと持ち上げた。彼女の方にぐいと顔を近づけて恭子がいう。
「ガンチョは脚を引っ掛けるんじゃなくて重心移動と回転だなんて、今までだーれも教えてくれなかったよ!」
すると田辺は、かじったキュウリを吹き出さないように慎重に口元を覆いながら、眼から鱗、でしょ、という。
「もうボロボロ、ボロボロよ!」そういいながら、恭子はワークショップのワンシーンを思い出していた。
恭子がオチョで後ろに踏み出すと同時に、その足が向かう先にリーダーが踏み込む。彼の重心に引き寄せられながら、彼女のもう片方の脚は体重から解放され、三日月のような弧を描いて待ち受けていたリーダーの脚に絡みつくと、一瞬の後、はじき返されて大きく跳ね上がった!
その時スタジオの大きな鏡に映ったのは、まるでタンゴビデオから抜け出たかのような恭子と「白靴」さんの姿(名前が思い出せないけど)。二人とも何が起こったのかという顔だが、正しいことが起こったことだけは確かだ。うわっ、なんか効果音つけられそう! ドン・バッ? それとも、ダ・ダッ? と恭子が思ったと同時に、「Eso!」という声がして、ディエゴが二人の方にやってきた。……もう一度、と促されて動き出した恭子の脚は、白靴さんの脚と鉤型に絡みついただけでなく反動で跳ね上がる。コツをつかんだ二人は、どんどん高く跳ね上がる足にももう驚くことはない。ダ・ダッ。ダ・ダッ。やった、コレよ、コレ!
……OK、じゃあ次は、とディエゴは二人にむかって説明しはじめたが、スペイン語交じりの英語にぽかんとしている白靴さんの顔に気づき、通訳を呼ぼうとくすんだ色の手を挙げた。彼が指を鳴らそうした瞬間、恭子はいった。あの、私スペイン語わかります、フラメンコ習ったので。……そうですか! じゃあ通訳をお願いします。……いいですか、彼女をここに招待したいのに、そこにあなたの上体があったらぶつかるでしょう? だから彼女が動き出すのと同時に移動をはじめるんです。白靴さんはディエゴの動きをまねて、右足、左足、と上体を回転させながら体重を移動する、特に難しそうでもない動きだ。……じゃあ今度は彼女と一緒にやってみて。え、でも私のステップの説明は? と訊く間もなく、白靴さんは恭子の手を取って動き出す。グルッ、ズバッ、フロントとバックとのガンチョが連続で決まった。……Eso! それを繰り返してもいいですし、途中にステップを入れてもいいし。そういってディエゴが指をならすと、チェチリアがやってきて彼が意図することを動きにしてみせる、後ろにガンチョ、前にガンチョ、もうひとつ前、オチョ、ボレオ、ガンチョ、ガンチョ、またガンチョ。二人の動きは滑らかで、彼の脚に絡みつく彼女の脚が、うねるような白い光跡を描く。ステップじゃない、ポーズじゃない、これは何? ……タンゴだ。ダンスが生み出す高次元のエネルギーだ……。こんなふうにいろいろなコンビネーションを試してみてね、と恭子たちににっこり笑いかけ、次のペアのほうに歩いていくディエゴとチェチリアを見送りながら、どこかで体の力がカクンと抜るのがわかった。今まで何やってたんだろ、私?
「……あれはやっぱり血かしらね? 彼ら、どんな動きも自然にタンゴになってる!」
「あぁ、それ、私もはじめはそう思ったのよね……」少し考えて田辺は言葉をつなぐ「でもやっぱり、ちゃんとした教育とトレーニングも大きいと思うよ。チェチリアなんか国立芸術大学の舞踏科卒で、クラッシックバレエからフォルクローレまでなんでも踊れるみたいだし」
「やっぱり! あの素材にさらに磨きをかけてるから、ああいう奇跡的なことになるのかあ」
大きなため息とともに羨まし気な声を出した恭子の顔がよほど滑稽だったのか、田辺は一瞬プッとふきだしたけれど、すぐ真顔に戻っていった。
「でもね、やっぱりあると思うよ、血の部分も」
「やっぱり?」
「ある。Sangre de tango」
Sangre de tango ねえ。タンゴの血ねえ。
あの娘はだあれ?【2】
あの娘なんて名前だったっけ? よく踊ったのに思い出せない。どこで踊ったのかも。……よく一緒に踊った? 本当だろうか? そんな感じがするだけで今日初めて会ったのかもしれない。でもキレイだ。本当に……。あの目に吸い込まれそうだ。
四谷・午後八時
「こんなとこにダンスホールなんてあったんですねぇ。この辺、大学時代けっこう歩いたとこなのに、ぜんっぜん知りませんでした」
森下が面白そうにいうのを聞いて山野は少しホッととした。無理に誘ったんじゃないかな、と気に掛かっていたのだ。チェチリアとディエゴも参加するグランミロンガの会場で二人が案内されたのは、予約席・山野様と大書きされたA4の紙がのっているステージ近くのテーブルだ。ステージ上にはバントネオン奏者用の踏み台が既にセットされているのがみえる。木の床のホールはかなりの大きさで、両脇には丸テーブルと椅子がいくつも並べられているが、中央はダンスフロアとして大きく空けられている。
生演奏は九時からの予定だがすでTDJが音楽を流していて、少なからぬペアがダンスフロアに出ている。フォロワーたちのいでたちは華美ではないが工夫があって、ある人は情熱的、ある人はエレガント、またある人はメランコリックと、「タンゴ的なもの」のイメージを各々表現しようとしているかのようだ。またリーダーたちも、ニュアンスのある黒やハッとするような淡い色のスーツ、すべらかな生地のシャツや粋にさしたポケットチーフなどでタンゴ的男性性、とでもいえそうなものを発散させている。年齢も体つきも技量も皆バラバラなのに、踊る人たちは不思議な調和をみせてダンスホールをゆっくり反時計回りに流れている。
踊りの輪から目を離して山野がいう。
「普段は多目的ホールとして使われてるそうなんですけど、今でも月に一回は、四谷アルゼンチンタンゴ・ダンス倶楽部の人たちが、ミロンガを催されてるそうですよ」
「四谷アルゼンチンタンゴ・ダンス倶楽部! ……もう名前からしてド真ん中っていうか、キャラ立ってますよね!」
森下の声は、迷宮入り事件解決の手掛かりを掴んだ探偵のようだ。
「はじめはね、『四谷アルゼンチンタンゴ倶楽部』っていう名前で音楽中心のクラブだったんです。レコード鑑賞会とか、プロやアマ、大学生の楽団を招いた演奏会とか。関係者からは結構有名なタンゴミュージシャンも出てるんですよ」
「いつ頃の話ですか?」
「早川真平さんとかのすこし後の世代かな」
「うおー、早川真平とオルケスタティピカ東京! うちのおじいちゃんがファンだったんですよぉ!」
やっぱり、おじいちゃんか……。動揺する理由ないだろ、と自分をたしなめてから山野は、その辺のことは本も出ているから興味あったら……といおうとしたが、森下はもうこっちをみていなかった。
「いろんな人が踊ってますねぇ。なんかみんな幸せそうですねぇ」
「山野さん! カメラマン、いやカメラウーマンの方も! よくいらっしゃいました!」
聞き覚えのある声がして、黒木が踊っている人たちを器用によけながらスタスタとこちらにやってくる。片手に逆さにして下げたワイングラスがチラチラ光を反射し、もう一方の手にはワインボトルをかかえている。
森下です、と頭を下げる森下に、すみません、とぺこりと頭を下げてから黒木はいった。
「いやぁ、撮っていただいた写真、チェチリアが『今までで一番!』って、すごく気に入ってましてね!」
森下は、えーありがとうございます、てへへへ、と擬態語つきの返事をしたが擬態語の部分は周囲の音にかき消されたのか聞き返され、慌てて、気に入っていただけたのなら画像ファイル送りますが、と大声で付け加えた。
「きっと大喜びしますよ! いやぁ、山野さんにも素晴らしい記事を書いていただいて。おまけにご自身のサイトでも宣伝してくださって! おかげさまでワークショップはすべて満員御礼、公演のチケットも、なかなかの売れ行きだそうです。あとでチェチリアとディエゴもご挨拶に伺うと思いますが、ともかく、まずはアルゼンチンのワインいかがですか?」
ワイングラスをテーブルに置き、尻ポケットからコルク抜きを取り出すと、黒木は慣れた手つきでボトルを開けにかかった。
「かえって恐縮です……。黒木さんこそ、お疲れでないですか? チェチリアさんたちの日常のお世話に、ワークショップ、ミロンガのセッティングまで、ほぼお一人でこなされてるんでしょう?」
「いやぁ、ウチのや子供たちにも手伝ってもらってますんで。まあ、親父のころからアルゼンチンタンゴ関係っていったら、もう、ウチは総出で。でもまあ、親父の生きてた頃に比べると、今はボランティア程度ですけどね」
問いかけるような森下のまなざしにあって、黒木が付け加える。
「むかーし『四谷アルゼンチンタンゴ倶楽部』っていうのがありましてね。K大の学生さんたちが創設者で、メンバーもK大やT大の方がほとんどだったんです。当時、ウチの親父は大学いかずにもう四谷で酒屋を継いでたんですが、タンゴ気チガイで……。酒を寄付するから、ってことでその倶楽部に入れていただいてたんですよ」
あー「ダンス」が入る前の、と森下がいうと、黒木は、ご存知ですか、と汗の浮いた顔でにっこりする。
「でもおかげさまで、ウチは仕事の方でもアルゼンチンといろいろご縁ができましてね。これはチュブ産の赤ですが、このワイナリーとも、昔から直接取引させていただいてるんですよ」
黒木は、ボトルからグラスに少量注いだルビー色の液体をくるくるまわしてテイスティングをすると、うん、お口に合えばいいんですが、といって森下と山野の前のグラスにもそれを注ぐ。有名どころでないんですが、ちょっと変わったのを作ってる生産者なんですよ、とボトルのラベルをみせながら続ける彼に、アルゼンチンのチュブ県って化石がいっぱい出るとこですよねー、と森下が応える。そう……。山野の脳裏に、露天掘りの化石採掘場の上に広げられた青いビニールシートの映像が不意に浮かぶ。三人は軽くグラスをあげて乾杯しワインを口に含む。石灰岩の、化石の、軋るような味がかすかにする。...…カルシウムがきつい、っていえばそうなんですけど、今日みたいに暑い時はかえってすっきりしていて……といいかけた黒木に、笑顔で近づいてきた白髪の紳士が声をかける。ユタカちゃん元気? 久しぶりねえ! いまさっき受付でサコちゃんにも会って。他のOBはもう来てる? 黒木は山野たちに素早く会釈して立ち上がり、お久しぶりです! ハイ、国立さんたちはもうあちらに……と話しながら、紳士と一緒にホール反対側に向かって歩いて行った。
乾いた砂の味を舌全体に感じながらぼんやりしていると、森下の声がきこえた。
「山野さん、どこみてるんですか?」
「……いや別に。どこも」
ミロンガに一番乗りするのはなんだか物欲しげでみっともない。でも、あまり遅れていくといい席がなくなってしまう。特に今夜みたいに生演奏もプロのデモもある場合は致命的だ、ということで、恭子と田辺は余裕をもって八時前に会場に着いた。受付で名前を告げると、白っぽいジャケットを着た係の女性がプリントアウトを手早くめくって予約を確認し、参加者がダンスホールに自由に出入りできるよう手首にテープを巻いてくれる。ホールは広くて、照明も明るめだ。生演奏にはまだ時間があるけど、もうかなりの人がダンスフロアに出ていて、みんな恭子が思ったよりもドレスアップしている。家に置いてきた Pink&Black のことが一瞬頭をよぎる。年齢層は他のミロンガより高めで、年配のペアが銀色の頭を寄せて、こなれたステップでフロアを横切っていく。……うん、いい感じ! 私も早く靴を履き替えて……一瞬焦りそうになる自分を恭子はたしなめる、ダメダメ、ミロンガはがっついたら負けよ!
運よくステージからもダンスフロアからもあまり離れてないテーブルにまだ空席が残っていた。恭子と田辺は先客に会釈をしてその席に座ると、着替えなどでかさ張ったバッグをテーブルクロスで隠れる位置において、さっそく踊る準備を始めた。恭子がバッグからダンスシューズを引っ張り出していると、横の田辺の動きが止まった。困ったような顔をこちらに向けている。え、なに?
「高野さん、ダメだわ私、靴が履けない。足が腫れてて、靴擦れもできちゃったし……」
そんなあ。ここまで来てそりゃないでしょ。恭子はテーブルクロスの中に頭をつっこんで田辺の足をみる。確かに一回り腫れた感じで、特に靴の細い皮が食い込んだところが赤くなって痛そうだ。絆創膏か何か……といいかけた恭子を、しょんぼり頭を振って田辺が遮る。一瞬考えて恭子はいった。
「田辺さん、靴のサイズいくつ?」
「二十四センチだけど、なんで?」
「あたしも二十四なんだけど、今履いてるの、ちょっと幅広めで皮も柔らかいし、とっかえる?」
「え、でも、それじゃあ高野さんが困るじゃない!」
「田辺さんの靴みたいにかっこよくないけど、足は楽になると思うよ」
でも、という田辺に試しに一回取り換えてみて、だめなら元に戻せばいいじゃない、といって自分の肌色の練習靴を差し出す。田辺はためらっていたが、試すだけなら、といって受け取ると、銀のピンヒールを揃えて恭子に手渡した。
華奢なヒールは伸びあがるようにカーブを描くソールに優雅な角度で接続している。細い銀色の皮テープを組み合わせたデザインもあってか、靴というよりアーキテクチャだ。恭子の足はその中にすっぽり包み込まれている。...…痛いんじゃない? と心配そうに訊く田辺に、今のところは大丈夫そうよ、そっちは? と訊きかえすと、顔をしかめながらも、これなら踊れるかも、という。じゃあこれでいきましょうよ、いけるとこまで! 痛くなったらすぐにいってね、すぐに靴をお返しするから、とまだ心配そうにいう田辺にニッと笑いかけてから、恭子は体を起こして椅子に座り直した。やれやれ、さてと。誰か知ってる人いないかな? ホール向かい側の席に目をやる。タンゴを踊るには二人、まず踊ってくれるリーダーを探さないとね。
ミロンガにやってくる人は、必ずしもダンスパートナー同伴というわけではない。一人でふらりとやってきてもたいして不都合がないのは、タンゴのダンスパーティーでは相客の中から踊る相手を探すことが普通だからだ。居合わせた知り合いや友人だけでなく、その夜初めて会った人と踊ることも稀でない。初対面の人とだと、自己紹介やらなにやら大変そう、と思われるかもしれないが、そこはよくしたもので、ミロンガにはカベセオという、一般的な社交手順をすっ飛ばしてダンスパートナーになれる独特のしくみがある。
カベセオはうなづきという意味で、まず踊りたい相手に視線をおくり、相手が気づいてOKとうなづいてくれたところでペアが成立(うなづいてもらえない時はゴメンなさいということ)という非言語コミュニケーションである。カベセオしあったペアは、名乗りあうぐらいですぐ踊り始め、ダンスが終わったらありがとうでバイバイ、というあと腐れのない関係である。このやり方を使えば、離れたところに立っている人にも踊りませんか、というシグナルを送ることができるし、断る時もやんわり視線を逸らせればそれでことが足りる。もちろん、普通に話しかけて知り合いになってからダンスを申し込んでもいいわけだが、やはり手間がかかるし緊張するし、断られた・断った時も気まずいという事で、ミロンガではこの間接的な方法が重宝されている。
こうしてみつけたパートナーとは、タンダといわれる四曲程度ひとまとまりの音楽を踊って、次ダンダはまた別のパートナーと踊る、というのが一般的だ。タンダとタンダの間にはコルティーナという短いブレイクがはいりタンゴ以外の音楽が流れて、パートナーチェンジや休憩のために抜ける人、新しく踊り始める人などが忙しく行きかう。
サルサの軽快なリズムが流れる中、踊り終えたペアのリーダーがフォロワーを座席までエスコートしていく。やがてまた音楽が替わりタンゴワルツが流れだす。あ、Lágrimas y sonrisas だ。この曲大好き! 踊りたいけど……。恭子はホールの向かい側に目を凝らす。この、アイコンタクトでパートナーをさがす、カベセオ、っていうのが厄介だよね。直に話しかけて誘ったほうがナンボか……と思った瞬間、恭子の真横で
「シャル・ウィ・ダンス?」
という声がした。あ、ワークショップ参加者の「青シャツ」さんだ(今は黒いシャツに着替えてるけど)。ラッキー! こういう掟破りは大歓迎よ。笑顔になって恭子はパッと立ちあがる。その勢いに青シャツさんは少し後ろによろけるが、すぐ立て直して恭子の手をとると、ちょっと気取った感じでダンスフロアにエスコートしてくれる。
ロンダの脇に立つ恭子と青シャツさんの脇を、踊っている人たちは結構なスピードでかすめていくが、二人は焦らずゆっくりとアブラソをつくる。ダンスホールドがアブラソ、スペイン語で「抱擁」と呼ばれるのは、パートナー間の距離が近くて、抱きあっているようにみえるからだ。青シャツさんと恭子はお互いの重心を確認すると、ロンダの切れ目を待って、すっと斜めに踏み出した。OK、スムーズに流れにのれた。……みんなこういう「基本」を教えてもらってないから、いきなりバックステップでロンダに入って踊ってる人と衝突、なんてことになっちゃうのよねえ。自分も今日のワークショップで習ったばかりなのを棚に上げて、恭子は小さな優越感に浸る。……周りで踊っている人がいるってことを忘れないで。特にリーダーは「交通事故」を起こさないように! リードする時は腕じゃなくて体で。体幹、肩甲骨を意識して! ディエゴの声が聞こえる。そうよね、だから私たちフォロワーは常にリーダーがどっちにどれだけ動こうとしてるのか敏感に感じ取らなきゃならない。どの方向にマークされてもすぐ動けるように、腹筋背筋を使って体を引き上げ、重心は片足の上に。重心移動は骨盤まわりの筋肉も使って素早くかつ滑らかに。体重が両足に残ったら、アドルノだって中途半端になっちゃうし、ガンチョなんか絶対無理……。ワークショップで習ったポイントを一つ一つチェックしているうちに一曲目が終わった。
自分でいうのもなんだけど、今日は動きがスムーズだ。肩や腕に力が入ってない。リーダーとの距離もいい感じで、頭と頭がごっつんこ、なんてこともない。バランスも改善して、どのステップをするにも余裕がある。余裕があるから、リーダーのこともよくわかる。青シャツさんが小さめのステップから始めたのは、私が無理なくフォローできるか気にしてくれたからだ。時々足踏みのようになるのは、彼が音楽をつかもうとしてるからだ……。
「大丈夫ですか?」にっこり笑って青シャツさんがきく。
「ハイ。大丈夫です。素敵です」
二曲目が始まった。二人はまた抱擁するようにお互いの体に腕をまわし、音楽の中に入っていく。
四谷・午後九時
生演奏の時間が近いとあって、会場は目にみえて込み合ってきた。思い思いにドレスアップした人たちが、ダンスフロアとテーブルの間を、触れ合わんばかりの距離ですれ違いながら行き来している。フロアを挟んで山野たちが座っているのと反対側のステージ近く、少し奥まったところに、真ん中に小さな生花のアレンジメントをのせた他より大型のテーブルが置かれている。明らかに特別なそのテーブルについて、和やかに談笑しているのは三人の年配の紳士だ。髪は真っ白だったりまばらだったりだが、皆どこかに学生っぽい面影を残していて、オールドボーイズ、とでも呼べそうな雰囲気だ。そこに、髪をオールバックになでつけ、複雑な光沢の黒いジャケットを着た三十代とおぼしき男性と、タイトに結った髪に甘すぎないが華やかな飾りをつけ、長いつけまつげに真っ赤な口紅の女性という、いかにもタンゴなペアがやってきた。二人は礼儀正しくオールドボーイズに挨拶している。
あれは新宿の「ミロ」で教えているプロのダンスペア、ユミとジュンジ、だったっけ? 去年ブエノスアイレスのタンゴ・ワールドカップのサロン部門でいいとこまで行ったんだよね。じゃあ、あそこはVIPテーブルかな。踊りの輪から離れながら、恭子はちらりと「VIP席」の方をみる。今夜はついているのか、次々ダンスを申し込まれたのはいいが、休みなく踊り続けてさすがに足が痛い。靴を脱いで足の様子をみようと、空いた椅子のある手近なテーブルにむかったが、腰を下ろす寸前に「予約席」という紙が目に入った。
「あ、すみません」
恭子が慌てて立ちさろうとすると、そのテーブル席に座っていた若い女性がいった。……ほかに誰も座ってませんから、どうぞ、どうぞ! 連れらしき男性も、ご遠慮なく、という感じでにっこりしてくれたので、恭子は二人に会釈して座りなおし、足の様子をみることにした。
ストラップをはずし靴からそうっと足を抜くと、ソールのサポートを失った足はぺたんと床に落ちた。皮のベルトに押し付けられていた小指に血が回りだし、痛いような熱いような感覚がする。ずっと踵を浮かせておどっていたので、足の指の、拇指球というのか、少し盛り上がったところがジンジンしている。脱いだ靴が目に留まったらしく、予約席の女性は、ひゃぁ、そんなハイヒールでよく踊れますねぇ、と心底信じられない、というような声を出した。貴女は踊られないんですか、と恭子が訊きかえすと、私は体育館シューズでも無理ですぅ、というので吹き出してしまった。私も普段はもっと低い靴使ってるんですけど、たまにこういうのも華やかでいいかなと思って、と恭子がいうと、いいです、ばっちりです! ダンスもお上手ですねぇ、ステップがバシッときまってましたよぉ、といってくれた。あれ、ひょっとして目立ってた私? 別に人にみせるために踊っているわけじゃないけど、褒めてもらうとやっぱり嬉しい。くすぐるような感覚が鎖骨のあたりから這い上って頬を熱くする。
ありがとう、と微笑んで座りなおすと、奥のVIPテーブルにチェチリアとディエゴがやって来たのが目に入った。オールドボーイズの一人が立ち上がって二人を迎え、チェチリアの頬に片方ずつ軽く唇をつける仕草をし、ディエゴと握手を交わす。ユミとジュンジも立ち上がり、二組のダンスペアはあいさつのキスと抱擁をかわす。チェチリアたちは楽しげに立ったまま話をしていたが、ややあってディエゴがチェチリアのコートを手伝って脱がせてやり、一緒にVIPテーブルについた。チェチリアはワークショップの時のナチュラルでルースな感じと一転して、髪をタイトなシニョンにまとめ、ラメだろうかパールだろうか、細かな光がチークのうえでシャープに踊り、巧みに強調された目が小さな顔の中で宝石のように輝いている。その横のディエゴは、まるで彼女の輝きがまぶしすぎるというように、薄い色付きの眼鏡をかけ、微笑んで彼女の方をみている。
その時拍手がパラパラとおこり、ミュージシャンが楽器を手にステージに出てきた。「体育館シューズ」の若い女性が、あ、バンドネオンに女性がいる、といってすぐ、アホか私はぁ、と付け加えたのは、そんなことで驚いた自分が許せないってことかな、と解釈し、恭子はにっこりする。そうよね、女性がバンドネオン奏者で驚く理由ないし。だけど実際のところ、アルゼンチンタンゴの世界は男性ホルモンの濃度が高い。バンドネオン奏者だけでなく、歌手以外、有名なミュージシャンはほとんど男性だ。また、ダンスでもリーダーは男性が大多数。さらに、踊っている間フォロワーはリーダーのマーキングにだまって従がわなくっちゃならないときている(ねえ次はガンチョ決めようよ、なんていっちゃいけないのだ)。いうなれば、不平等な固定的性役割の踊る見本だ。確かに最近は人気のプロに同性ペアや女性リーダーもいるけれど、全体的にはヘテロで男性優位主義という印象は否めない。ミロンガでも、保守的なところだと女性から男性にダンスを申し込んじゃダメ、同性で踊っちゃダメというところもあるらしい。だから、いまどきそういう世界ってどうよ、と敬遠する向きがあるのは、まあ、当然だ。
でも、私はお客さんだから。恭子は割り切って考える。タンゴ界を改革するとか、そういうのは他の人に任せて。私はいま魅力的に感じることを楽しみたいだけ。前世紀的ヘテロ男性中心主義云々も、タンゴっていうお店にいるときだけ味わえる特別な料理のスパイス、って考えればいいのよ。一歩外に出たらサラサラごめんだけどね。まあ、ダブルスタンダードっていったらそうかも。確かに、そういう矛盾をみないフリで、タンゴの素晴らしさを押し付けられたってのれないわよね。でも……恭子は横顔に微笑を刻む……でも、彼は押しつけがましくないじゃない。連れの男性がさり気なく、今日のミュージシャンたちについて説明するのを、体育館シューズちゃんは、ほおえぇ、と受け流していた。
「ブエナスノチェス! ご来賓、紳士、淑女の皆様、ようこそ、ようこそ! ラ・プラタを渡る風、レコレタを濡らす雨、プラサ・デ・マヨのざわめき、そしてタンゴ! 魅惑の夜!」時代がかったいい方のMCが場を盛り上げる「タンゴは愛、タンゴは夢……。皆様、今宵も共に夢のようなひとときを、エル・ヴィエント・デル・リオの演奏とともに!」
バンドネオンが刻むリズムの上を、バイオリンが甘いメロディーをきらびやかなピアノを伴って奏ではじめると、待ってました、とばかりにダンスフロアのあちこちがさざ波のように動きだす。『Poema』だ。今日、歌手は入ってないけど、カナロのレコーディングではだれが歌ってたんだっけ? スタンダード中のスタンダードといっていいメロディーを聴きながら、山野はぼんやり歌詞を思い出す。
……心酔わせるあのときの詩
今は消えてしまったあの想い
悲しみとともに別れを告げる
私の痛みをあなたは感じるだろう
私の痛みを
森下が、靴を履きおわった女性のほうに、ついっと上体を傾けていう。
「あのう、あそこに立ってる男のひと、踊ってほしそうですよ」女性は面くらったようだが、森下は真顔で続ける「さっきからずうっとこっちをみてて……」
どの人? と聞く女性に、あそこのベージュのジャケットの、と森下は身を乗り出してさらに説明する。一瞬視線をさまよわせたのち、女性はホール入り口方向に向かってうなずくと、山野らへの会釈もそこそこに、そちらのほうに歩いていった。
「みんなシャイなんですかねぇ? 踊りたいなら誘いに来ればいいのに」
「ああ、それはね、タンゲーロスの間では、カベセオっていってアイコンタクトでダンスパートナーを誘うのがスマートだってされているからですよ」
「ああ、それで視線があっちやらこっちやら飛び交ってるんだ!」
ややこしいですねえ、と呆れたように森下はいう。
オルケスタはスタンダートナンバーを次々に、現代風の色合いを加えて演奏していく。ロッテルダムの芸術大学を卒業した日本人三人が中心になって結成したオルケスタで、メンバーは若いが国際的なコンサートの場数も踏んでおり、ミロンガでの演奏にも定評がある。ロッテルダム、と訊いて森下は少し驚いたようだ。
「アルゼンチンじゃなくてオランダなんですか?」
「うん。ロッテルダム・コダーツにはタンゴ専攻の修士過程があるんですよ。それにあの国ではダンスも盛んなんです。もちろん、今はオランダだけじゃなく、いろいろな国でバンドネオンやタンゴのアンサンブルを学べるますけどね。タンゴはジャズなんかと同じように、もうグローバル音楽だから……」
グローバル化したらいいってもんじゃないけど、という部分はかろうじて飲み込んだ。なんだか、若い女性が聞いてくれるのに甘えて、愚痴めいたことをしゃべっている老人になったような気がしたからだ。
何回目かのタンダの後、観客の拍手にかぶせてMCが叫ぶ。
「エル・ヴィエント・デル・リオ! ラ・プラタか、二ヴェマースか、それともはたまた荒川か! エル・ヴィエント、素晴らしい演奏をムーチョスグラーシャス! 皆様、もう一度盛大な拍手を! ……さて、皆様、ご来賓、紳士、淑女の皆様、今宵は特別な夜。さらに特別な、特別なゲストに来ていただいております。世界を吹き渡るアルゼンチンの新しい風、チェチリア・フェラリ、イ、ディエゴ・マンシ、デ、ブエノスアイレス!」
また大きな拍手が起きると同時に、ダンスフロアにいた人たちはゆっくりとテーブル席や壁際の椅子のほうに退いていく。チェチリアとディエゴのダンス・デモンストレーションがはじまるのだ。間近で観ようというのか、もう椅子がないのか、フロア端の床の上に座り込んでいる人もいる。恭子も田辺と一緒にテーブル席の椅子をフロア中央に向けて座る。田辺は足をかばいながらも結構踊ったらしく、表情は明るい。彼女から、サンディエゴでの二人のデモがどんなに素晴らしかったか、と聞いているので、嫌が上にも期待が高まる。
手を取り合って中央に出てきたチェチリアとディエゴは、軽くフロアを一周して観客にあいさつする。二人とも黒い衣装。チェチリアは小さなクリスタルがちったホルタートップで、スカートには長いスリットが入っている。アルゼンチンタンゴならではのシンプルながらセクシーなドレスで、一歩ごとに彼女の長い脚がどきっとする角度で見え隠れし、口笛やオオーという賞賛の声がやかましい。ディエゴは黒いサテンのシャツにシンプルな黒のジャケットと幅の広いパンツ。長い髪はぴったりとなでつけてから細くまとめて、ジャケットの内側にでも垂らしてあるのか、毛束は外からはみえない。もうメガネはかけておらず細く高い鼻梁がシャープな輪郭をみせ、引き締まった顔は狩りの前の黒豹を思わせる。シャツのカフをジャケットの袖から引っ張り出す何気ない仕草までが、フェロモンを発散しているようで目が離せない。……なるほど田辺さん、たしかに踊る前から惹きつけるね。男性的なダンサーの多いアルゼンチンタンゴでは、ディエゴはちょっと線が細いんじゃ、と何気なく恭子がいった時、彼のパフォーマンスを観たらその辺も納得してもらえると思うよ、と田辺は自信たっぷりにいったっけ。OK、お手並み拝見。
二人はフロアの両端に分かれて立ち、やおらディエゴが人差し指をあげると、間髪を入れずMCが入った。
「皆様、大変お待たせいたしました。チェチリアとディエゴ、一曲目は永遠のマエストロ、我らがプグリエーセの、Gallo Ciego!」
嵐のようなアンコールとはこういうのをいうのだろう。拍手、口笛、足踏みが続き、観衆は声を合わせて「Otro! Otro! 」と叫ぶ。恭子も声を合わせながら横をみると、田辺は涙ぐみながら叫んでいる。タンゴとバルスを続けて踊ったため額に滲む汗を、ディエゴはハンカチでおさえ、ジャケットを整える。視線のすべてを集めて輝くその姿に緊張はない。そして、こちらもまったくの自然体でたたずむチェチリアに微笑みかけると、再びDJに向かって指をあげた。今度はシンコペーションのはいった二拍子の早い音楽が始まった。ミロンガだ。
ミロンガは、ダンスパーティと同音異義語だが、タンゴ音楽の一種である。タンゴ音楽の形成に大きく寄与したアフリカ系音楽の影響を色濃く残していて、早いだけでなくリズム構造が複雑だ。ディエゴとチェチリアは、しばしリズムをとると、顔も胸も吸い付くように合わさったタイトなアブラソをつくり軽快に動き出した。メランコリックなタンゴと違って、ミロンガの細かいリズムにのった動きは軽快で、お祭り気分に満ちた南の空気を醸し出す。
皆の手拍子の中、チェチリアとディエゴは、やおら速度を落として動きををスロー再生のようにみせていく。ステップをわざと失敗したように演じて、しまったという顔つきまでスロー再生してみせる二人のエンターテイナーぶりに場内は大きく沸く。そしてまた標準速に戻ると、今度は五十センチ四方ほどの小さな空間の中で、ありとあらゆるフィグラとアドルノをやってのける。シャープで正確無比な動きに、Eso! Esa! とかけ声があちこちからとび、口笛、拍手が沸き起こる。そしてコーダ、転がるような音楽に複雑なステップシークエンスをのせ、二人はダンスフロアを対角線に切り裂いていく。その目を疑うほど早く細かい動きが最後の音とともに華やかなポーズでフィニッシュすると、頂点に達した観客のエネルギーは天井も吹き飛ぶか、という大歓声となって爆発した。
甲州街道・午後十一時
「すごかったわねえ」
「すごかったねえ」
さっきから何度おんなじことをいってるんだろう。
電車でも充分帰れる時間だったが、送るわよ、ミロンガのあと人を送るの慣れてるし、といってくれた田辺の言葉に甘えて、恭子は彼女の車にのりこんだ。二人とも無口だが、時折今日の出来事のワンシーンを思い出したように口に出しては、すごかったわねえ、すごかったねえ、となってしまうのだ。今日一日で経験したことが多すぎて頭がオーバーヒートしているらしく、静かな車内に座っていてもイメージが奔流のように押し寄せてくる。
いまや恭子と田辺はある点で完全な意見の一致をみている。それは、ディエゴ・マンシは天才である、という点だ。もちろん、チェチリアもずば抜けて才能あるダンサーだし、二人のパートナーシップはまさに天の配材というしかない。でも、ディエゴはがいなかったらこの奇跡は成立しない。彼の音楽に直結する能力、時空を自在に操る動き、そしてパフオーマンスの場に何かを引き寄せる力。フラメンコでいうところのドゥエンデを呼ぶ力だ。オカルトがかって聞こえるが、そういう能力を持った人がいる、ということを恭子は知っている。ディエゴはただのうまいダンサーじゃない。神様に選ばれた特別のなにか、なんだ。
文字通り観客を熱狂の渦に巻き込んだチェチリアとディエゴのデモンストレーションのあと、ダンスフロアは何事もなかったかのように再開し、音楽が流れる中、人々はまた灯に引き寄せられる蛾のようにロンダに引き込まれていった。汗と涙にまみれた顔で、ちょっとお化粧直してくる、と立っていく田辺の背中をみながら、恭子はこの後どうしたらいいんだろうと考えていた。もっと踊る? でも誰と? あんなダンスをみせられたら他の誰とも踊る気なんかしなくなる。
VIP席のほうをみると、もう着替えたのか、今度は白いシャツ姿のディエゴと白いミニドレスのチェチリアがみえる。二人はVIP席からステージの前を横切ってホール反対側へと歩いていく。そして例の予約席の前までくると「体育館シューズ」の女性と連れの男性に親しげに話しかけている。チェチリアが椅子に座って何かを紙に書きながら屈託ない様子で体育館シューズ嬢と話をしている姿には、先ほどの超人的なところは微塵もない。その様子を微笑んで見守るディエゴも、ダンススターというより近所の好青年、という感じだ。
……この人のどこにあの魔物がすんでいるのだろう? そう思ってみつめる恭子とディエゴの視線が一瞬交差した。私をみた! 恭子は必死に彼の視線に縋りつくが、アイコンタクトはスーッと切れてしまう。
その時ディエゴたちのほうにジュンジがやってきて、軽くあいさつしてからチェチリアにダンスを申し込む。チェチリアは気さくに笑って立ち上がり、ジュンジとダンスフロアのほうに歩いていく。二人が踊りの輪に溶け込んでいくのをしばらく眺めてから、恭子は一人呆けたように座っている自分に気づいて、そうね、私も化粧直しでもしよう、と緩慢な動作で立ち上がった。そして顔も上げずに化粧室の方へ一歩踏み出したとたん、誰かにぶつかってしまった。
あ、すみません! 慌てて離れようとする恭子の体を、くすんだ色の手がすっと捕えた。かすかな整髪料の匂い、後ろにぴっちりなでつけてからまとめた長い黒髪、奥まった褐色の目。
……じゃあ踊りましょうか。
しゃれた返事なんて出てこない。顔なんて怖くてみられない。胸元をしがみつくように凝視するのが精いっぱいだ。白いシャツのすき間から太陽を吸った肌がのぞき、細い銀の鎖に小さな楔形の石のついたネックレスが下がっているのがみえる……。ディエゴは、その場に立ちすくむ恭子のトルソに腕をまわすと、彼女を音楽の中に連れ去った。
ディエゴのリードは恭子に告げる。私たちが歩くのはこの動線。一ミリ右でも左でもなくその真上。早く、遅く、大きく、小さく。二人の一歩一歩が大地を目覚めさせ、そのエネルギーを開放する。世界が始まる前から決定していたかのような確信で与えられる指示の前に、私の意図なんて入る余地はない……恭子は自分を明け渡す。大きく開いた彼女の中を高エネルギーの粒子が流れ、奔流となって背中から噴き出す。そうして二人は大きな一つのナイフとなって、世界を切り裂いていく……。
田辺が何かいった。……え、うん、そう、ここを右折。黄色い光が一瞬恭子の体を照らし出した。自分の体じゃないみたいだ。余韻というには強すぎる感覚が、波のように何度も押し寄せてくるのを持て余しながら、恭子はまた記憶の中に沈み込んでいった。
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◀️Oblivión【1】 付録:Obliviónの音楽
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