Oblivión【1】
(タイトル写真 by Preillumination SeTh)
クライポレ・午前四時
外気は凍てつくようで、乾ききっていない髪が張り付いた首筋がひやりとする。思わず首をすくめて後ろ手にドアをしめ外扉をそっと押すと、ところどころ錆の浮いた鉄の檻のようなそれは予想に反して音もなく開いた。ダニエラが油を注したのかな? ディエゴはするりと外に出て、軽く金属が触れ合う音がして錠が掛かる音を聞いてから、眠っている人たちを後に表通りに向かって歩き始めた。
体は、まだ半分眠っているようで一歩ずつ左右に振れる。その感覚が奇妙でディエゴは顔をしかめた。まるで赤ん坊みたいな歩き方だな。シンとした通りを足早に進むと左に空き地が口をあけ、夜明け前の闇の中、置き去りにされた土管や四角いコンクリートの建築資材が常夜灯の黄色っぽい光に照らされている。この空き地には店舗兼アパートが建つといわれて久しいが、資材置場はディエゴたちが子供のころ遊んだ時のままだ。それでも一応管理はされているのか、草などはあまり生えておらず、壊され残った建物のコンクリート床がむき出しになって、上に引かれた白いペンキの線が黄色い光の中まっすぐ浮き上がってみえる。
パン、パン、パン……。記憶に促されて立ち止まると、ディエゴは空き地に踏み込み、少し高くなったコンクリ床の上に立った。足の裏に白線を感じると同時に床は消え、彼はもっと一人になる。胸を開き息を深く吸い、少し吐き出すと同時に軽く重心を落として、足を踏み出す。一歩一歩滑らかに且つ確固として。黒い猫のように。この動線だけが世界を切り裂くように。パシッ。所在なさげにサッカーボールを弄んでいる近所の悪ガキどもの挨拶だ。……キチガイだあいつ、毎日あそこで踊ってやんの。お前アホか、アタワルパの息子! 嘲笑する声とともに小石が飛んでくる。パン、パン、パン、パシッ。音とともに痺れるような痛みの記憶がよみがえる。……ウザい事やめろよぉ! 彼の歩みを邪魔しようとするスニーカーの、無遠慮なゴム底の音が空き地の壁に反響しながら近づいてくる。バタバタッ、パン、パン、パン、バタバタバタバタッ、バシッ。痛いっ。
新宿・午後五時
「その黒木さんって人が、チェチリアとディエゴを連れてくることになってるんですよね?」砂糖の空き袋をひねりながら、森下里美が訊いた。
「そのはず、です」そういって山野弘毅はテーブルの上の携帯をちらりとひっくり返してみるが、着信はない。
「その人招聘元の方なんですか、それとも通訳さんですか?」
「どっちも、かな」
そういうと山野は、コーヒーカップの底に視線を一瞬移してからロビーを見渡した。黒木たちとは、このホテルのロビーで午後四時頃に落ち合ってインタヴュー、という予定であったから、森下はかなり気長に付き合ってくれている。だがこれ以上はどうもな、と山野は試案顔になる。
「まー、この間のブラジリアンの時もですけど、南米時間、っていうのはホントなんですかねー、やっぱり?」
森下が自分に腹を立てている様子ではないので、山野は少しホッとする。
森下はフリーランスの写真家で、アート系媒体での仕事が「本業」だが、インタヴュー付きカメラマンのような「副業」も引き受けている。本業の方は風景写真が主なのだそうだが山野はまだみせてもらっていない。だが副業の方のは文句なしで、先月ある音楽雑誌の仕事でブラジル人ミュージシャンにインタヴューした時彼女が撮った写真は特にすばらしかった。なので、山野としては今回も、ぜひ森下にチェチリアとディエゴを撮ってもらいたかった。
チェチリア・フェラリとディエゴ・マンシはアルゼンチンタンゴのダンスペアだ。二人ともまだ二十代半ばだが、ブエノスアイレスで開催されるムンディアル・デ・タンゴを手初めに主要な競技会のタイトルはすでに掌中にしており、また現代音楽とのコラボレーションなど、アルゼンチンタンゴの枠に収まらない活動も展開していて、若い才能がひしめくアルゼンチンタンゴの世界でも一頭抜け出た存在、といっていいだろう。その人気も大変なもので、世界中の劇場で踊って1990年代のリバイバルの後頭打ち感のあったタンゴのダンスパフォーマンスの世界に新しい観客を呼び込み、また、ダンスワークショップなども各地で行って、プロだけでなく趣味としてアルゼンチンタンゴを踊り始める人たちも多く惹きつけている。もちろん東京でも、彼らの初アジアツアーの一環としてダンス公演だけでなく、いくつかのワークショップも日程に入っているらしい。
「全くの初心者からプロまで、いろんなレベルのレッスンがあるらしいですよ。森下さんもどうですか、……ご興味あったら?」ご興味なさそう……ではあるけれど、と山野が訊く。案の定、
「えー、私ダンスなんかしたことありませんよぉ」と森下は鼻白らんだが、すぐ眉根を寄せていった「でも、なんか変と思いませんかぁ、世界チャンピオンがド素人にも教えるって。アンナ・パブロヴァがカルチャースクールで教える、みたいな?」
藪から棒にパブロヴァか。しかし、話題が待ち人からが逸れたので、これ幸い、と座り直して山野は答える。
「それはね、タンゴが生まれ育ってきた環境がバレエとすごく違うからですよ。バレエは元々ヨーロッパの宮廷で育まれて、今でも、恵まれた素質を持った人だけが『王立』アカデミーでダンサーになる訓練を受ける、っていう感じでしょう? でも、タンゴは庶民の娯楽として発達してきたから、『バリオ』っていう、地域の一般人が自ら踊って楽しむためのコミュニティがダンスの母体なんです。プロのダンサーも、子供の頃はそこで近所のオジサン、オバサンに交じって踊って育つ。だから彼らは、いろんなレベル、体型、素質の人と踊ったり教えたりが、ごく自然にできるんですよ」
「へー、山野さん、さすが詳しい。音楽だけじゃなくダンスも勉強したんですか? ……ひょっとしてカバンにダンスシューズ入ってるとか?」
ナイナイ、と手を小さく振って苦笑しながら、オレは音楽も勉強してないよ、と山野は無言でコメントをつける。愛好家として始めたラテン音楽のブログが評判を呼び、中南米のアーティストとのインタヴューなどを時折引き受けるようになっただけで、正式な音楽教育を受けたことはない。いわんやダンスをや。ダンスは観て楽しむものと割り切っている。
森下はシャル・ウィ・ダンスを鼻歌で歌っていたが、さすがにふざけすぎたと思ったのか、いきなり真面目な顔になっていった。
「アルゼンチンのミュージシャンも一緒に来日してるんですか?」
「いや。でも、日本にもいいタンゴミュージシャンはいるからね」
「……藤沢嵐子さんとか? あ、昔すぎか?」
うん、その名前を知ってるなんて、なかなかだ。お父さんお母さんから聞いたのかな? いやお祖父さんお祖母さんからかもな。
「バンドネオン奏者の小杉太一、ってご存知ですか? ダニエル・ビネリの弟子の。ダンス公演は彼のクアルテットとの共演という事になっているし、東京のグランミロンガで演奏するのは、日本人が中心メンバーのエル・ヴィエント・デル・リオってオルケスタなんですよ」
「へえぇ。でも、グラン……ってなんですか?」
「ミロンガ。タンゴのダンスパーティーのことですよ。今回はオルケスタの生演奏で有名ダンサーも参加するわけだからグランミロンガってことなんでしょうね」
「それはタンゴショーとは違うんですか?」
「ショーじゃなくて、趣味でタンゴを踊ってる人たちがメインの参加者の一種の舞踏会なんです。でも、プロや上手なアマチュアが招かれてエキジビションをすることもよくあるんですよ」
「へえぇ~。ウィーンで、とかならともかく、東京でもタンゴの舞踏会があるんですかぁ。なんかウーバーです」
は? ……舞踏会、ウィーン、ドイツ語、ときてüber? 「ミロンガ」という語はタンゴの近縁音楽のことを指すこともあって、という説明は、森下の自由連想の前に行き場を失ってしまった。
中途半端に開いた口を閉じるべきか、何かいうべきか、山野が逡巡している時、入口の方から声が飛んできた。
「山野さん! お待たせしてしまって、すみません!」
声の方向へ振り向くと、ジャンパー姿の中年男が片手をあげてせかせかとこちらにやって来るのがみえた。男の後ろには若い女性が続く。彼女は薄手の黒いサマーセーターにワイドなジーンズ、素足にシンプルなスニーカーをはいてジャケットを手に持っている。ありふれた服から出ている彼女の手足は華奢で白く、小さな顔は、少しウェーブのかかった濃褐色の髪が完璧なハート型にくり抜いている。長いまつげ、小さな鼻、桜色の唇。伏し目がちに歩いてくるが、それも無理からぬことだろう。もしその瞳を直接向けられたら、みられた方はまぶしさで目がくらんでしまったに違いない。彼女はロビー中の視線を吸い寄せて、光る軌道を描きながらこちらに向かって歩いてくる……。
目の前の男の口が動いているのは何かいっているだ、とわかるのに一瞬時間がかかった。……チェチリアのスーツケースがアトランタでの乗り継ぎ時に誤ってボストン行きの便に積み込まれてしまい、地球を大回りしてから今日ホテルに届けられるはずのその荷物がさらに遅れてしまい、というようなことをその男はいっていた。
「……おまけに携帯替えたばっかりで、山野さんの携帯番号がみつからなくって。全く面目ないです」
ああ、黒木さん……こちらは今日写真を撮ってくれる、と山野が森下を紹介すると、黒木は森下にもう一度、すみません、と頭をさげた。彼の後ろでチェチリアともう一人、若い男が静かに立っている。
……ということは、この人がディエゴなんだ、と森下は若い男の方をみる。まぶしいというしかないチェチリアに比べ、彼はちょっとくすんだ感じだ。黒っぽい服、くすんだ色の手、乾いた感じの唇、うすい色の入った小さなレンズの眼鏡の奥には褐色の瞳、左の額に、小さい、ひきつれたような傷がある。が、それより目を引くのは彼の髪である。腰まで届くまっすぐな黒髪を臙脂色のゴムで数か所まとめてある。……タンゴっていうよりコンドルは飛んでいく、って感じよね、と森下は思う。その時、じゃあ、レストランのほうに移ってお話を、という声がして、山野のしぐさに促され、黒木に続いてチェチリアとディエゴが歩き出す。
光と影が寄り添って動いていくのをたくさんの眼が追いかける。……視線っていうけど、レーザー照準ロックオン! って感じだね。えらいこっちゃわコレは。森下は、一呼吸おいてカメラのはいったバックをつかむと皆に続いた。
中野・午前十時
色はいいんだけどヒールのラインがイマイチだな。恭子は眼鏡を押し上げてオンラインショップの靴の写真に見入る。もうちょっと華奢なラインでないとね……。こんなに必死になって靴探しをするのはフラメンコのとき以来だ。面白半分に始めてハマったフラメンコ用の靴は(ドレスも)段ボール箱ン個分か持っているけど、フラメンコとタンゴは全く別物なので、それでタンゴのレッスンに行くわけにはいかない。イマイチ、と口に出してみて、少し自分が滑稽に思えてきた。なんでいまさら新しいダンスよ、それも、相手がいないと踊れないなんて不自由って今まで敬遠してきたペアダンス。新しいトキメキを求めて、とかだったらソレもアリかもしれないけど、大体、私はレッスン受講生タイプの人にはときめけないのにさ。
奇妙に舞い上がった気分に気づき恭子は苦笑する。まあいいさ。今はまだ上手く踊れないけど、さっさと上達して、ブエノスアイレスに行ってミゲル・アンヘル・ソットみたいな渋いミロンゲーロをゲットするってことで。そうつぶやいて眼鏡をはずす。翻訳の仕事、下訳はもう貰っているけど、昼からやろう。恭子はラップトップをぱたんとしめ、立ち上がって、シャワーを浴びにバスルームにはいった。
鏡の中に大柄な女が立っている。不規則なウェーブのかかった長い髪がたてがみを思わせる。大きな目は少し充血しているが、くっきりした眉とあいまって意志の強い視線を返している。肩幅は広く、豊かな胸をきちんと収納して下品にみせない。恭子はふと仕事の下訳をしてくれた若い女性の胸を思い出す。痩せて丸まった背中とあいまって、彼女の胸は存在を主張せず、前ボタンを一番上まで閉めたオフホワイトのシャツのその下に、大きくあいた穴が隠れているかのようだった。……まあ、あの単語単価で仕事していたら、消耗もするわよね。軽く頭を振って彼女の映像を掃いのけ、服を脱ぐ。
ふむ。そりゃあ、若い時に比べたらバストは下がっているし、二の腕はちょっとたぷついてるけど、ウエストはまだきゅっとしてる。このウエストからヒップにかけてのラインを恭子は気に入っている。...…ちょっと若い時のソフィア・ローレン入ってるかも。髪を掻きあげたり唇を突き出したりしてポーズをとってみる。大柄で長い手足、パーツの大きい顔が昔のピンナップガールを思わせる。まあるい胸に触ってみる。滑らかで気持ちいい。それからへその周りを指でなぞる。今度は両手で太ももの内側を何度か優しく撫で上げる。指を滑らせてもしゃもしゃした毛に指があたるのを感じながら、ひだひだの間をゆっくり撫でる。バスタブの縁に腰をかけ、足を開いて指を次第に早くうごかす。呼吸が早く浅くなってきて内腿が硬くしまる。長い息をはいたあと、尻もちついたりしないよう、気をつけてゆっくり立ち上がる。……そうだ、お昼前に翔ちゃんにメッセージいれとこう。そう思いながら恭子はシャワーの栓をひねった。
あの娘はだあれ?【1】
眼を開くと白い光がみえた。像が二重になっていて何なのかよくわからない。懸命に焦点をあわせて、どうやら天井灯であるらしい、とわかった。オレはどこにいるのかな? ぼんやり考えていると、頭痛が始まった。目を開けていられない。思わずうめき声を漏らす。ディエゴ! 女の声だ。頭が痛い。顔をしかめ目を閉じると別の声がした。ディエゴ、苦しいの? 今度は誰かが左手を握った。確かに具合はよくない。なんだってこんなに頭痛がするのかわからない。痛みはどんどんひどくなって、耳鳴りも始まった。うめき声はでるが言葉にならない。左手を握る手に力が入る。何がどうなってるのかわからない。頭が痛い。白いものがみえる。目を凝らす。白い顔だ。白い光に照らされた女の顔だ。とても美しい……。誰だろう?
抱擁【1】
「へええ。翔ちゃん、じゃあ、前世の記憶とか、そういうのあるわけ?」
恭子のからかうような問いに、翔は彼女の腕から身を起こして答える。
「やー、特に何を覚えてるってわけじゃないんスけど、時々あるんスよ、あ、おれは絶対ココ住んでたことあるな、とか」
「住んでたことないのに?」
「ないけど住んでたんス」
「なにそれ。じゃあ、その『住んでた時』は何やってたの?」
「だから、そこはわかんないんスけど、や、これは絶対、みたいな」
「なにそれ。じゃあ、その景色に見覚えある、とか?」
「そういう具体的なことじゃなくて、光の感じとか、空気とか……」
「へええ」
「……ないっスかそういうの?」
たわいないことをしゃべっている時、翔の顔は若いというより幼くみえる。小さな揺れるオーナメントのついたピアスと首筋の細いラインのタトゥーが、彼の繊細な耳から首、肩へのラインに似合っていて、とてもきれいだ、恭子は目でそのラインを何度もなぞる。
翔は六本木のはずれでいわゆるホストをやっている。でも私達が遇ったのは神保町の喫茶店(って死語かも。でもホントに喫茶店)。いきなり、あの、以前どこかでお会いしませんでしたっけ? だって。今時だれがそんな誘い方するよ、と怒るより呆れたけど、その後、時々逢うようになったってことは、それなりに有効だったのかも(笑)。会うのは大抵こういう場所で、彼がどこに住んでいるかは知らない。他のこともほとんど知らないけど、翔っていうのが本当の名前でないことだけは100%確実(源氏名っていうの、この名前でお店に出てるし)。でもそういうことは、まあ、どうでもいい。私は、立ち居振る舞いがきれいでベッドでもとても素敵な若い彼が、結構年上の私にプライベートであってくれるのを素直に喜んでいる。
猫のようにゴロンと横になって私の腕の中に戻ってきた彼の、肩のあたりをそうっと指先でなぞりながら、翔ちゃん、ひょっとしたら前世は猫だったのかも、と思う。だって、こういうふわふわした魂は、猫とかホストとか、そういう系列以外に転生しようがないじゃない。
インタビュー記事
――今回のダンス公演で小杉太一クアルテットと共演されますが、小杉さんとはこのコラボレーション以前からのお知り合い、と伺いましたが?
フェラリ:はい。小杉さんがアルゼンチンでの演奏活動を始められた頃、母方の祖父(注1)がブエノスアイレスに持っていたアパートにしばらく住んでいらしたんです。その後もブエノスアイレスに来られるたびに私たちを訪ねてくださって。だから、私は母のおなかにいた時から小杉さんのバンドネオンを聞いているんです。
――なるほど、それならもう呼吸はばっちりですね(笑)。今回演目にはトラディショナルな曲目だけでなく、小杉さんが得意とされるバンドネオンの現代曲も何曲かはいっていますが、こういう、厳密にいえばタンゴではない楽曲を踊られる場合、いろいろ普段とちがった難しさもあるかと思いますが、その辺はいかがですか?
マンシ:現在のアルゼンチンタンゴでは他のいろいろなダンスのテクニック、例えばヒップホップのステップなども取り入れられています。またステップのコンビネーションによって本当に様々な表現をつくり出すことができます。ですから、難しいのはタンゴ以外の音楽だから、ではなくて、その音楽から一瞬一瞬何を引き出せるかではないかな、と思っています。また、僕らはダンサーと音楽との関係は「一期一会」と考えているので、基本的に振付を使わず即興で踊ります。どんなに聞き込んだ曲でも、踊っている瞬間に出てくる動きは毎回違います。だから、踊るのがタンゴでもそれ以外の現代曲でも、観客の皆さんに観ていただくのは、自分がその瞬間、その音楽とどう向き合ってるか、ってことなんです。
――チェチリアさんは?
フェラリ:ディエゴが感じ表現しようとしていことは私の身体をとおして可視化されるわけです。その時の私の体は媒体なので能動的ではないのですが、受動的というのも少し違うんです。光が空気の中を通るのと水の中を通るのではみえ方が違うでしょう? 同じ意図であっても私の体の時々の透過性、っていうかそういうもので見え方がずいぶん変わってくる。だから、どんな曲を踊るときも、私の持っている自由度がディエゴの意図を最大限に表現するように、と心がけています。
マンシ:彼女は僕らの芸術をすべて生み出す母神です。 僕らリーダーはフォロワー(注2)なしでは陸に上がった魚ですから(顔を見合わせて微笑む)。
注1:著名なタンゴ音楽研究家で収集家、故オラシオ・アルバレス博士。
注2:アルゼンチンタンゴではリーダーがフォロワーに体の動きで逐次ステップをマークする。フォロワーは指示されたステップをこなしながら、修飾的な動きを即興的に加えることもある。
公演予定:『風の記憶』チェチリア・フェラリ&ディエゴ・マンシ with 小杉太一クアルテット、トッパンホール……。
写真の二人はくつろいだ感じだ。生身の二人を目の前にするとチェチリアのあまりの輝きにディエゴが暗く沈んだ印象をうけてしまうが、この写真は違う。確かに、チェチリアが白ならディエゴは黒だが、黒の輝きがしっかり写っていて、二人が依存しあう関係でなく相補的な関係にあることが自然と伝わってくる。
「森下さん、今回もすごくいい写真ですね」
「えへへ、ありがとうございますぅ」
「……本業のほうでも、ポートレートやる予定はないんですか?」
「いやー、まー、その辺は」
「風景じゃないとアートにならない、ってことはないでしょ?」
「それはそうですよ」
まあ、アーティストはみんなそれぞれ思想信条やこだわりがあるからな。山野は話題を変えていった。
「あ、そういえばね、黒木さんが、四日のグランミロンガにご招待しますので是非どうぞ、って」
「だから、踊れませんよ、私」
「僕も踊れないけど、今回はご招待にあずかろうって思ってます。チェチリアとディエゴのデモをぜひ観ておきたいと思って」
「やー私、社交ダンス系は……」
その表情から彼女のイメージしているところを察して山下はいった。
「ちょっと違うかもしれませんよイメージされてるのと。アルゼンチンタンゴと社交ダンスのタンゴはかなり違うので」
「社交ダンスはコンチネンタル・タンゴでしたっけ、音楽がちがうんですよねえ?」
「音楽もなんですが、ダンスが全く違うんですよ」
どういう風に? というような森下の懐疑的な顔みて山野は続ける
「もっとパーソナル、っていうのかな。スポーツ的なところがあまりなくて。独特の緊密な空間があるんですよ、思わず引き込まれるような……」
上手い言葉がみつからず説明しあぐねている山野を見て、森下はかえって興味をそそられたようだ。
「緊密な空間って、フラメンコみたいな?」
「ああ、緊張感は似てる所があるかもしれない。でも、虐げられたものの痛み、じゃなくて都会のメランコリーっていうのかな? この辺はやっぱり観てもらうのが一番よくわかると思うけど……」
四日のグランミロンガではテーブル席もあって、踊らなくてもタンゴの生演奏を聴きながら美味しいアルゼンチンワインを楽しめるってそうですよ、と付け加えると、森下の気持ちも動いたようだ。
「アルゼンチンワインかぁ。飲んで観てるだけなら行こうかなあ……」
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