第一章 自分が飼い犬になった日 —内なる檻からの解放
※感情に触れるような表現を含むことがあります。
もし読みにくく感じたときは、無理をなさらず、時間をおいてからお読みいただけたらと思います。
会社を辞めた。
大きなリュックに荷物を詰め、片道4万円の航空券と働いて貯めた100万円を持った。
空港のトイレで鏡を見た。
背中のリュックがやけに大きく見える。
鏡に向かってカメラのシャッターを切った。
“旅立つ人間”の顔をしていた。
その私は、どこか誇らしげで、見たことのない自分だった。
行き先はケアンズ。
早朝に着いて、ベンチで眠った。
英語はほとんどわからない。二十七歳の、初めての海外生活。
宿のプール、世界中の若者。
働かず、予定もなく、ただ時間があった。
自由の中に、不思議と罪悪感があった。
プールにぷかりと浮かんで空を見上げた。
目覚ましもかけず、寝たいだけ寝て、ふらっとあてもなく歩く。
そんな日々が続いた。
日本人とは距離を置くことを決めた。
ひとまず数泊して、また延長する。
移動する理由も、しない理由もない。
数週間でそれが日常になった。
誘われて夕食を食べに行き、
会話が途切れても笑い合い、また別れた。
大きなボックスワインの“goon(グーン)”を教えてもらい、たまたま居合わせたメンバーでそれを飲んだ。
「ラグーンに行こう」
アイルランドの女の子二人に声をかけられた。
海沿いの人工の海水ラグーン。
彼女たちの隣に寝転がり、太陽を浴びた。
嬉しかった。
でも心のどこかで思った。
“声をかけられて尻尾を振ってついてきた犬みたいだ”と。
心地いいのに、どこか惨め。
それでも尻尾を振っている自分がいた。
三人で水際に座った。
太陽が眩しくて、寝たふりをした。
このまま、本当に寝てしまいたい―。そうすれば全てが完璧に収まるから。
気持ちの良いはずの風や自然の音はぜんぜん頭に入らない。
風も音も遠くに消えた。
一緒にいるのに、独りだった。
「シドニーへ行く」と彼女たちは言った。
「車に乗っていかない?」
リフト――燃料を割り勘して旅する方法。
同じく南下しようと思っていた私は戸惑った。
結局
彼女たちは去り、私はケアンズに残った。
ホッとしていた。
こんな矛盾と混沌の中に自分を放り込む。
それを“旅”と呼ぶ。
私は、人間としての自分を取り戻した。
ケアンズの風は穏やかだった。
ラグーンの水面は、波ひとつない。
もう、シッポを振らなくても良い。
自分は、自分のものになった。
逃避から始まった旅は、もう逃げではなくなっていた。
そんな自分が、誇らしかった。
今日も同じ宿で、プールにぷかりと独り浮かんで空を眺めていた。
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