【余談ながら】 第2話「Norway — Bergen」― 深夜のバーと、ジントニックと、“東郷ビール” ―
もう三十数年前、1990年前後の話です。
私は単独出張で夜遅く、ノルウェー西岸の町ベルゲンに入りました。空港からタクシーで峠を越えて街に入った頃には、すでに一帯は夜の帳に包まれていました。
ホテルのチェックイン時、「何か食べたい」とフロントに尋ねると、開いているのは地下のバーだけとのこと。仕方なく荷物を部屋に置き、腹を宥めにそのバーへ向かいました。
入口には西部劇に出てきそうなスイングドア。目線だけを遮る、あの簡素なドアに違和感を覚えながらも、空腹には抗えず中へ。
店内には丸テーブルがいくつも並び、カウンターにはアンソニー・ホプキンス似の男がひとり。しかし、客は他に誰もいませんでした。
私は彼の視線を感じつつ、奥のスツールに腰を掛け、「何か食べたい」と言ってみましたが、無言で首を振られました。
まあ、バーですから仕方ない。とはいえ何も口にせず戻るのも癪で、ジントニックを頼みました。ドライジンの冷たさが、空の胃袋へ静かに染み込む頃――
突然、スイングドアの向こうからドヤドヤと賑やかな音。十数人の男たちが、雪崩れ込むように入ってきました。
振り返ると、皆バイキングを思わせる大男たち。さすがは北欧、と感心しつつ、私は一杯だけ飲んで引き上げようと思っていました。
ところが、そのうちのひとりがこちらへ近づいてきて、いきなりこう聞くのです。
「お前、日本人か?」
その英語に、冷たいジントニックを抱えた私の胃袋は、濡れ犬のようにブルブルと震えました。
「ええ、日本人です」と答えると、男は背後に向かって何かを叫びます。
すると、彼らの一団が進路を変えて、こちらへと詰め寄ってきました。
それから十数分、質問攻め。中にはこう聞いてくる者もいました。
「お前、トゥゴウを知ってるか?」
パニック気味だった私は、てっきり同僚の「東郷」と思い込み、
「ああ、知ってる」と答えてしまいました。
すると彼らは「オーッ!」と歓声をあげ、バーテンに何か叫びます。
例のホプキンス似が無言で瓶を一本、私の前にトンと置く。その男がラベルを指差しながら「グレート!」と叫び、「飲め」と言ってくるのです。
仕方なく瓶を手に取ってラベルを見ると、
そこには軍服姿の「東郷平八郎」が。
「これは……」と言いかけたときにはもう遅く、
乾杯の連鎖が始まっていました。
この“東郷ビール”は、私の記憶では21世紀には姿を消していました。しかし彼らは、1905年の日本海海戦を知っていて、トーゴーを英雄として讃えていたのです。
私自身、彼を美化するつもりも、戦争を持ち上げる気もありません。
ただ、極東の小国が大国ロシアを破ったという事実が、百年近く経った異国の地にも、こうして影響を残している。そのことに、少なからず衝撃を受けました。
けれど――その奇跡の勝利の先に、私たちの国がどんな道を歩んだか。
万事、塞翁が馬。火山の爆発は遠く離れた地にも影響を及ぼす。
火元であった我が国は、果たして――
灰燼に帰すことなく、何を得たのか。
そんな思いに至る夜でした。
(了)/文・小林正典
