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水底で笑う

【あらすじ】
夫との関係に亀裂を抱えたまま、湖畔の別荘を訪れた御堂 瑠璃子(みどう るりこ)
霧深い森で出会った素性の知れない青年は、屈託のない笑顔で二人の間に入り込んでくる。
瑠璃子、夫のヤスヒロ、青年。
三つの視点が交差する時、静かな別荘で起きたことの全貌が浮かび上がる。



プロローグ


「ねえ、おまわりさん」

春が来るたびに、あの声が蘇る。

私がまだ新米警官だった頃のことだ。
春の兆しはあっても、まだ雪が残るような山間部だ。深夜の派出所に通報が入り、湖の近くでずぶ濡れの男を保護した。

男は貸した毛布に包まって、ガタガタ震えながら、妙なことを言い出した。

「深い深い水の底を見てみたい、そう思ったことは、ない?」



第一章 瑠璃子


鮮烈な憧れ。初恋。
あの一等強い輝きはどこにいってしまったの?
星は私を見ていない。
永遠の片想い。

それでも、星に手を伸ばした。



帰宅の電車に揺られながら、御堂瑠璃子は今日の出来事を思い出していた。

瑠璃子が勤務するギャラリーに、育休中の同僚が赤ちゃんを連れて挨拶に来た。

ベビーカーで、赤ちゃんはすやすやと眠っていた。小さな拳を握りしめて、夢でも見ているのか、唇がかすかに動いている。

瑠璃子はしばらく、その寝顔から目が離せなかった。

「瑠璃子さんにも抱っこしてもらいたかったな」
我が子に目を細める同僚が眩しく見えた。

「眠っていても可愛いわ」
瑠璃子はそっとベビーカーを覗き込んで、微笑んだ。

「瑠璃子さんのところはどうなの?」
「え?」
「赤ちゃん。結婚して、しばらく経つから」
「…まだ二人でいたい、と夫が言うの」
「へえ、お熱いんだ。ご主人、背が高くてカッコいいし、投資家なんでしょ?いいなぁ!」

瑠璃子は愛想笑いでお茶を濁した。
そうだ、この同僚は結婚式に出席していた。
確かに幸せだった気がする、あの頃は。

同僚はしばらく話すと、ベビーカーを押してギャラリーを出て行った。
午後の日差しの中、遠ざかっていくベビーカーと同僚を、瑠璃子はぼんやりと見送ったのだった。

ため息をつき、車窓に目をやる。
同僚の何気ない言葉が、瑠璃子の胸に澱のように残っている。
思わず、拳をシートに叩きつけたくなった。
が、スカートをきつく握りしめ、奥歯を噛みしめた。

最寄りのスーパーで買い物を済ませて、自宅マンションに帰った。

「ただいま」
玄関ドアを開けて呼びかけても返事はない。
いつものことだ。
夫の部屋のドアはきっちりと閉まっている。

スーパーで買ってきたものをキッチンに置いていると、リビングの電話が鳴った。母だ。

「はい」
「瑠璃子、夏休みはこちらへ来るのでしょう?たまには顔を見て話したいわ」

瑠璃子はリビングに移動して、ソファに腰かけた。

「ごめんなさい、お母様。夏休みは二人で湖畔の別荘に行くの」
「あら、二人で大丈夫?誰か連れて行く?」
「いいえ、今回は二人で行きたいの」
「…そう。それも良いわね。帰ってきたら良いお話を聞かせてちょうだい」
「ええ、そうね。ではまた」

通話を終えて瑠璃子は大きなため息を吐いた。
クッションを掴むと振り上げて、ソファに投げつけた。クッションは見当違いのところに飛んで行き、ボスンと落ちた。
はあ、とため息をつき、虚しく拾い上げた。

良いお話、良いお話。またそれ。
それしか言えないんだわ、あの人は。

来週、別荘に行く。
夫は船舶免許を取り、新しくボートを買った。
珍しく、嬉しそうにしている。

部屋の隅に、準備途中のボストンバッグが口を開けたまま置いてある。
そう、別荘で何かが変わればいい。



富士の樹海に囲まれた、深い湖。
雄大な山を背に静かに水を満たし、季節を問わず霧を抱えている。

湖面の霧を裂くように、ボートが一艘、滑っていく。操縦席には夫の御堂ヤスヒロ、その隣に瑠璃子が座っている。

ボートのエンジン音に負けないよう、瑠璃子は声を張った。
「ねえ、あなた。少しスピードを落としてくれない?」
ヤスヒロはサングラスをかけ、前を見たまま応えた。
「せっかく速いボートを買ったんだ。もう少しいいだろう」

瑠璃子は、それ以上何も言えなかった。
飛沫の混じる強い風に顔を顰めて、暴れる髪を手で押さえる。

岸に近付いて、ヤスヒロが徐々にスピードを落とした。

湖を見下ろす小高い山の、鬱蒼と茂った森の中に、御堂家所有の別荘が佇んでいる。
祖父が絶景に一目惚れして、山ごと買い取ったと聞いている。富士と湖を独り占めしたかったのだろう。

船着場でボートを降りると、バギーに乗り換える。着替えや食材を積んで、山の上の別荘へ向かった。

バギーに揺られながら森の細道を行くと、石と木を組んだ別荘が見えてきた。

赤い切妻屋根の別荘。
重厚な木製のドアに、外壁には蔦が絡まっている。御伽話の家みたいで、瑠璃子は子供の頃から、訪れるたびにワクワクしたものだ。
けれど、今はどうだろう。
バギーを運転するヤスヒロの横顔を見つめた。

ヤスヒロはバギーを別荘の傍に停めると、鍵を瑠璃子に渡してきた。

瑠璃子は別荘の鍵を開け、先に中に入った。
ヤスヒロは荷物を持って、後に続いた。

リビングは石造りの暖炉を中心に、高い天井には太い梁が通っている。

「あら?」
瑠璃子とヤスヒロの足が止まった。

室内の家具には、埃よけの布がかけられたままだった。別荘は普段は人が立ち入らない。
来る前に使用人に掃除を言いつけるのが習いだが、その気配はなかった。
夏とはいえ、夜は冷える。暖炉に必要な薪も用意されていない。

ヤスヒロが眉を寄せて瑠璃子を見た。
「瑠璃子?」

瑠璃子は不思議そうに首を傾げた。
「私『連絡しておいて』って、あなたに頼んだでしょう?」
「聞いてない」
言ったはずよ。

瑠璃子は言葉を飲み込み、笑顔を作った。
「…二人でやるしかなさそうね」
「いや、今からでも誰か呼ぼう」
ヤスヒロが、固定電話に手を伸ばした。時代遅れのダイヤル式の固定電話。

ここに来た時は仕事を忘れて休みたい、と他ならぬヤスヒロが言ったため、連絡手段は古い固定電話だけだった。

「…通じない。電話線が切れているかもしれない」
苛立ったヤスヒロが受話器を強く置いた。
ガチャンという音に、瑠璃子は肩をびくりと震わせ、思わず眉をしかめた。

少し考えてから、明るく言った。
「じゃあ、私は掃除をするから、あなたは薪を用意してくれない?」
「ああ」
ヤスヒロは外へ出て行った。

瑠璃子はカーテンをひいた。
富士山と湖が、大きな窓いっぱいに広がっている。

初めて、二人でここに来た時のことを思い出した。
ヤスヒロは目の前の絶景にほう、と息を吐いた。
「素晴らしいな、瑠璃子」
そう言うと、ヤスヒロは隣で微笑んだ。

出会いは、御堂グループのパーティーだった。
「見込みのある若者がいる」と父が連れてきたのがヤスヒロだった。
「瑠璃子、ヤスヒロくんだ」
小柄な父が長身の若者を伴って現れた。

「はじめまして。本間ヤスヒロといいます」
若者は瑠璃子と目が合うと、鋭い眼差しを和らげて、はにかんだ。
「あとは若い二人で話しなさい。邪魔者は去るよ」
父は笑って人の輪に紛れていった。

ヤスヒロの視線は、遠ざかる父の背中をじっと追っていた。

そのパーティーをきっかけに二人は会うようになった。ヤスヒロは瑠璃子の話をいつも優しく聞いてくれた。

母は良い顔をしなかったが、父はヤスヒロを気に入っていた。それで充分だった。

もう一度あの頃に戻れたら…。
そう思って、夏休みの提案をした。
「夏は湖畔の別荘に行きましょう。二人で」


掃除道具を探し出し、家具にかけられた埃よけの布を外していく。
埃が舞い上がり、瑠璃子は思わず咳き込んだ。ソファやテーブルが姿を表していく。
瑠璃子は雑巾を固く絞った。

ヤスヒロが薪割りを始めたらしい。
斧の鋭い音が、ここまで響いてくる。

瑠璃子は手を動かし始めた。
埃を払い、掃除機をかけ、寝室のシーツを替えていく。
掃除が一通り済んだ頃、ヤスヒロが外から薪を運んできた。暖炉の脇に、ドサリと薪を積んでいく。

「ありがとう」
瑠璃子が声をかけたが、ヤスヒロはチラリと見ただけで、また外へ出て行ってしまった。


「昼はバーベキューをしよう」
珍しく、ヤスヒロが瑠璃子に声をかけてきた。

「それは素敵ね」
瑠璃子もニッコリ笑って賛成した。
掃除をしてクタクタだし、空腹だった。

バギーに必要なものを積んで、屋外の炊事場へ向かった。

船着場から少し離れた開けた場所に、屋外用の炊事場がある。普段は使用人も同行しているが、今は自分たちしかいない。

不慣れな私たちにできるかしら。
瑠璃子の嫌な予感は的中した。

まず、なかなか火が着かなかった。
ようやく火が着いたので肉を焼いてみたが、表面は黒焦げ、中は生焼けだった。

「…難しいのね」
空腹に負けた瑠璃子が、生のパプリカをかじって言った。
「無理だな。別荘に戻ろう」

ヤスヒロはそれだけ言うと、バギーに荷物を積み込み始めた。瑠璃子も慌てて、後片付けを手伝った。

「上手くいかないものね」
そう言って笑いかけてみたが、ヤスヒロは少し目を見開いただけで、すぐに顔を逸らした。

瑠璃子は笑顔を引っ込めた。
こんな時、せめて笑ってくれたらいいのに。

ガタガタと細道を走るバギーの中は、どうしようもない気まずさに満ちている。

もう、離れた方がいいかもしれない。

瑠璃子が助手席から、ふと外に目をやると、木立ちの脇に人が一人、座り込んでいるのが見えた。

ヤスヒロがブレーキを踏み、バギーがその人物の手前で止まった。

「何故ここに人が?」
ヤスヒロはハンドルを握ったまま、動かない。陸路は私道のため、封鎖されているはずだった。

瑠璃子はバギーの窓を開けて声をかけた。
「どうしました?大丈夫ですか?」
「ああ、ちょっと疲れて座ってるだけ」
年若い男だった。
青年はチラリとこちらを見るとそう言った。
立ち上がる気配はない。

茶色がかった長い髪が顔を半分覆っている。
髪の隙間から、瞼と頬に紫色のアザがあるのが見えた。

「ねえ、あなた。怪我をしているみたいよ」
「不法侵入だ。物盗りかもしれない」
ヤスヒロはハンドルを握ったまま、じっと青年を見ている。
瑠璃子もしばらく、バギーの窓越しに青年を見つめた。膝を抱えたまま動かない、細い背中。

森に霧が漂い始めていた。

「でも、このまま放っておけないわ」
ヤスヒロは返事をせず、ハンドルを握る手に力を込めた。
「ねえ、ここは御堂の私有地なのよ。何かあったら…嫌でしょう?」

ヤスヒロは瑠璃子を一瞥すると言った。
「…わかった。君がそう言うのなら」

瑠璃子はバギーを降りた。
「私たち別荘に帰るところなの。一緒に乗って行きませんか?」
青年が瑠璃子を見上げた。
明るい綺麗な茶色の瞳をしていた。

「…すみません」
ゆっくり立ち上がると服の泥を払い、バギーに乗り込んだ。

ヤスヒロはバギーのフォグランプを点けた。

青年は瑠璃子よりも年下に見えた。
色白で痩せている。ヨレたTシャツに薄手のパーカー、膝の擦り切れたジーンズが泥で汚れている。

バギーが揺れた拍子に、ふと煙草の匂いがした。

いつからか、ヤスヒロの服に知らない匂いが混ざることがあった。その匂いに少し似ている気がした。

「ここにはどうやって来た?」
ヤスヒロはハンドルを握ったまま、尋ねた。
「どうやって?」
青年は首を傾げたあと、クスクス笑った。
「昨夜、近くでキャンプしてて。星見ながら酒飲んでたら、迷っちゃった」

瑠璃子が振り向いて聞いた。
「…あの、その怪我は?」
「滑って転んだ」
青年はあっけらかんと答えた。

ヤスヒロがバギーを別荘の傍に停めた。
昼なのに、霧のせいで辺りは薄暗くなっている。

青年はバギーを降りると、別荘を見上げてヒュウと口笛を吹いた。

ヤスヒロが重い扉を開けて、荷物を別荘に運び込んだ。
「どうぞ、お入りになって」
青年は別荘に入ると、物珍しげに室内をキョロキョロと見渡した。

「こりゃあすごい。絶景だ」
青年は大きな窓から見える景色に、ため息を漏らした。

「あなた、ずいぶん派手に転んだのね」
青年が景色に見惚れている間に、瑠璃子は救急箱を探し出して応急処置をした。
片方の瞼が腫れて紫のアザができている。

「酔ってたから、よく覚えてないんだよね」
「…そうなの」
青年が瑠璃子を見上げ、ニッコリと笑いかけた。
「ありがとう、お姉さん」
お姉さん。
青年の言葉に、瑠璃子はつい吹き出してしまった。
「私は御堂 瑠璃子と申します。こちらは夫のヤスヒロ」

「どうも」
青年はヤスヒロを一瞥すると、すぐに瑠璃子に視線を戻し、顔の前で手を合わせて言った。
「瑠璃子さん!図々しいのは承知だけど、シャワー貸してくれない?」

瑠璃子が、ヤスヒロをチラリと伺った。
「…泥のまま上がられても困る」
「そうね、着替えがあるか探してみるわ」
「助かる!」
青年はホッとした顔になった。

瑠璃子が簡単に別荘の案内をした。青年はキョロキョロしながら着いてきた。
「トイレはここ。ここがバスルーム。タオルと着替えは、これを使って」

さきほど「クローゼットにあった」とヤスヒロが着替えを一式持って来た。どうやら予備のようだが、服を置いていたことも忘れていた。

「瑠璃子さん、ありがとう」
青年が静かに微笑んだ。
「ごゆっくり」
瑠璃子も微笑み、ドアを閉めた。

瑠璃子は食べ損ねた昼食を作ろうと、キッチンに立った。
「ありがとう、サッパリした」
しばらくしたら、青年がキッチンに顔を出した。青年の身体は服の中で泳いでいた。

「お腹空いてない?今何か作るわ」
瑠璃子が冷蔵庫を開けると、青年が余った袖を捲り上げながら、横から覗き込んだ。

「俺にやらせてよ」
「え?」
「シャワーと手当てのお礼と言ったらなんだけど。サンドイッチでいい?」
青年はそう言うと、瑠璃子の隣に立ってニッコリ笑った。

何かに気がついて、青年がふと視線を外した。
瑠璃子がつられて入口を振り返ると、いつの間にかヤスヒロが立っていた。
ヤスヒロは黙って踵を返した。

「じゃあ、お願いするわ」
瑠璃子は苦笑いして、青年にキッチンを譲った。

ダイニングテーブルを囲み、三人で青年の作ったサンドイッチを頬張った。

瑠璃子が青年を見て言った。
「あなた、お名前は?」
「名乗るほどの者じゃない。すぐに出ていくよ」
青年は口の端についたソースを指で拭い、舌でペロリと舐めた。瑠璃子はそれをつい目で追ってしまった。
ヤスヒロは黙って、サンドイッチを口に運んでいる。

瑠璃子が窓の外を見て言った。
「あら、霧が…」
窓の外には霧が立ち込めていた。
ヤスヒロが立ち上がり、窓の外を一瞥した。
「…ウロウロされても困る。小屋なら、いていい」

「小屋?」
青年が首を傾げると、瑠璃子が口を挟んだ。
「あそこに、物置き小屋があるの」
瑠璃子が、窓の外の平屋の小屋を示した。
「また迷うのは嫌だしなぁ。せっかくだからご厚意に甘えるよ」

「妙な真似するなよ」
ヤスヒロは青年にジロリと睨みを利かすと、二人を置いて、二階の書斎に入っていった。

「おーこわ!」
書斎のドアが閉まるなり、青年は肩をすくめた。瑠璃子に向き直り、ニッと笑った。
「小屋に案内してもらえる?」

瑠璃子は寝具を抱えて、青年と並んで物置小屋に向かった。

「物置なんて、申し訳ないわ。お掃除もしてないし」
物置小屋には、祖父の代からの様々な不用品が乱雑に置いてある。瑠璃子は寝具を胸に抱えたまま、落ち着かない様子で足元を見ている。

「いや、俺の家の方が散らかってるよ」
青年は笑いながら、宝探しでもするように、埃よけの布をめくっていく。
布をめくっていくうちに、スプリングが飛び出た年代物の革張りのソファを見つけた。

「今夜はここで寝るよ」
瑠璃子から寝具を受け取ると、ソファに置いた。

青年が振り向いて、少し不安げな顔で聞いてきた。
「もしかして、ご主人ご機嫌悪い?俺のせい?」
「いいえ。あの人、無口なのよ」
「へえ?」
青年は少し眉を上げて、じっと瑠璃子を見た。

無言でしばらく見つめ合ってから、青年はニッと人懐っこい笑顔になった。

「ちょっとこの辺散歩してもいい?」
「え、ええ、どうぞ。でもあまり遠くに行かない方がいいわよ。また迷ってしまうから」
「ご親切に、サンキュー!」

青年は足取り軽く小屋を出て行った。

あの青年を、瑠璃子はどこかで見たことがあるような気がした。

瑠璃子が小屋を出て別荘に戻る途中、ふと顔を上げると、ヤスヒロが書斎の窓からこちらを見ていた。瑠璃子と目が合うと、ヤスヒロはふいと顔を逸らした。


別荘に戻ると、既にリビングの暖炉に火が入っていた。

別荘はテレビもない。
瑠璃子は読書でもしようと、本を手にソファに腰掛けた。

先日の母の声が、ふと蘇った。

「帰ってきたら良いお話を聞かせてちょうだいね」

瑠璃子は二階の書斎のドアを見上げ、ため息を漏らした。

ここまで来たのは何のため?
二人きりになれば何かが変わると思っていた。
でも、もうヤスヒロには、何も期待しない方がいいのかも知れない。

瑠璃子が本の活字をぼんやり追っていたら、玄関のドアがノックされた。
「ただいま」と笑顔の青年が入ってきた。
「おかえりなさい」と瑠璃子も笑顔で答えた。
「迷わなくてよかったわ」
「うん、霧が深くて驚いたよ」

「夕飯は俺が作るよ。今夜の宿のお礼に」
青年は自分の細い腕を叩いて見せた。
「それは楽しみだわ」
瑠璃子は思わず微笑んだ。



やがて日が傾いた。
リビングの大きな窓から富士と見事な夕焼けが見える。湖には霧が立ち込めている。

メニューは、スパゲッティミートソース、野菜とハムのサラダ、オニオンスープだった。
三人でダイニングテーブルを囲んだ。

「お口に合うといいけど」
青年は冗談めいた口調で前置きした。

「どう?美味しい?」
青年がニコニコしてヤスヒロに話しかけたが、ヤスヒロは黙ってパスタを口に運んでいる。
「お口に合ったみたいだな!」
青年はカラリと笑うと、自分もパスタを口に運んだ。

「…とても美味しいわ。お仕事は調理関係?」
瑠璃子が青年のグラスにワインを注いだ。
「気に入ってもらえてよかったよ」
青年は安心したように息をつくと、グラスを口に運んだ。

「仕事と言えるかはわかんないけど、俺、旅をしながら創作活動してるんだ」
「創作?」
「そう。絵とか詩とか。まあ、全然売れないけどね!」
青年は笑ってワインを飲んだ。

「あら、私、ギャラリーに勤めてるの。あなたの絵、興味あるわ。後で見せてくれない?」
瑠璃子が身を乗り出した。
これも何かの縁だ。新しい作家の発掘に繋がるかも知れない。

「ええ?それは緊張するなぁ」
青年はおどけて言うと、グラスを煽った。
「瑠璃子さん、ワインおかわり」
青年が瑠璃子に、空いたグラスをズイと差し出してきた。

「こんな美味い酒、初めて飲んだ」
青年が掲げたグラスをゆらゆらと揺らした。
瑠璃子はくすりと笑ってグラスにワインを注いだ。青年はニッコリ笑ってグラスを口に運んだ。

「そうだ」
ふいに青年は顔を上げた。
「明日、瑠璃子さんをスケッチさせてよ」
「まあ、私を?」
「そう。瑠璃子さん美人だから」
「あら、お上手ね」
瑠璃子もつい笑顔になる。

ヤスヒロは終始黙って食事のために手を動かし、時折、チラリと二人の方を見ていた。

暖炉で、燃え尽きた薪がゴトリと崩れた。

翌朝、寝室で目を覚ますと、隣にヤスヒロはいなかった。もう何年も床を共にしていない。

別荘に来る少し前のことだ。
夕食の席でヤスヒロが暗い顔で切り出した。
「事業が失敗した」と。

「大丈夫よ、あなたなら」
瑠璃子も最初はなんとか励まそうとした。
だが、黙ったまま俯いているヤスヒロを見ていたら、不安と苛立ちから、ある言葉が口をついて出た。

「どうしてそうなる前に気づかなかったの?」

ヤスヒロの顔から表情が消えた。
ハッとして瑠璃子は口をつぐんだが、もう遅い。言葉は戻らない。

「…俺なりに、最善は尽くしたんだ。すまなかった」
ヤスヒロは、それだけ言うと静かに席を立ってしまった。

瑠璃子は一人、テーブルに残された。
目の前が暗くなったような気がした。

自分の発した言葉が駆け巡る。

私は…母と同じ言葉を。
…私が一番嫌いな言葉。

私は、謝ってほしかった訳じゃない。
話し合わないと、このままではダメになってしまう。

立ち上がって、ヤスヒロの部屋の閉じられたドアをノックした。返事はない。

冷たいドアに額をつけて呼びかける。

「私の方こそごめんなさい。あの、責めるつもりはなかったの。私は、ただ、あなたはもっと上手くやれる人だと思ってたから……」

ドアに耳をつけるが、部屋はしんと静まり返っている。ドアはヒヤリと冷たいままだ。

やや間があいて、ヤスヒロの深いため息が聞こえてきた。
「……今日は、もう寝るよ。おやすみ」
「…そう、おやすみなさい」
瑠璃子はドアから離れ、ダイニングに戻った。
ヤスヒロの食べかけの皿が置いてある。
バサリと生ゴミ入れに捨てて、食器を洗った。

涙が滲むが、手が泡だらけで拭えない。
鼻をすすりながら、涙は流れるままに、ガシガシと皿を洗った。

ヤスヒロを傷つけてしまった。
どうすればいいか、わからない。
声をかけるべきなのか、そっとしておくべきなのか…。

父が死んでからのヤスヒロは、何かに怯えているように見えた。事業の失敗は話してくれたが、他に何か隠しごとをしているような気がする。

…もしかして、他に誰かいる?
いや、でもそれは…。

それからしばらくして、瑠璃子はずっと思っていたことをヤスヒロに告げた。

「私、やっぱり子供が欲しいの」
ヤスヒロは一瞬口ごもったが、顔を上げて言った。
「瑠璃子、すまない。俺は、君が望むような父親にはなれない」
「そんなことないわ。あなたなら、きっと優しい良い父親になれる」

瑠璃子の言葉に、ヤスヒロは目を見開いた。
「…良い父親」
そう力無く呟くと、食事の途中だったが、一人で部屋に籠ってしまった。


私たちは、もっと話をするべきだった。
瑠璃子は、ため息をついてベッドから起き上がった。
窓から下を覗くと、小屋の方からヤスヒロが歩いてくるのが見えた。

「おはよう、あなた。随分早いのね」
窓を開けて声をかけると、ヤスヒロが身動ぎし、驚いた顔をしてこちらを見上げた。

「…ああ、瑠璃子、おはよう」
「お散歩?」
「そう。景色がいいから」
ヤスヒロが湖の方に目を向けた。
「本当ね。とてもきれい」
朝日に照らされた湖面がキラキラと輝き、柔らかな朝霧が出ている。

瑠璃子はバルコニーに出て、澄んだ空気を胸いっぱい吸い込んだ。


「おはよー」
キッチンで朝食の支度をしていると、青年が大きなあくびをしながらやって来た。いくらか顔のアザが薄くなっているように見えた。

「おはよう」
瑠璃子が笑顔で迎えるた。
「昨夜は良く眠れたかしら?」
フルーツをカットしてヨーグルトに添え、トーストと目玉焼きを皿に並べた。

「うん、おかげさまで朝までぐっすり」
青年は冷蔵庫から牛乳パックを取り出すと、そのまま口を付けて飲もうとした。

「あ、あら、グラスは?」
瑠璃子は驚いて言った。
「あっ、ごめん、つい癖で」
青年は慌てて、苦笑いした。
瑠璃子は笑いながら青年にグラスを差し出した。

青年がグラスを受け取り、チラリと目線をキッチンの入り口に向けた。
「ご主人も、おはよう」
いつの間にか、そこにヤスヒロが立っていた。
瑠璃子も振り向いて言った。
「朝ごはん、ちょうど出来たところよ」
「いや、コーヒーだけでいい」

ヤスヒロは青年の脇をすり抜けてコーヒーを淹れると、カップを持って書斎に引っ込んでしまった。二人は階段を上っていくヤスヒロの背中を見送った。

「ほんと無口なご主人だねぇ」
青年が牛乳を注いだグラスに口を付けた。
「そうね」
瑠璃子はそっと目を伏せ、小さくため息をついた。



静かな小屋に、鉛筆が走る音だけが響いている。

窓辺に置いた椅子に瑠璃子を座らせ、青年がスケッチブックに瑠璃子を描いていく。

スケッチに入る前に、今まで描いたという青年の絵を見せてもらった。独学だと言う絵は、どれも、思っていたよりずっと暗かった。
確かにこのまま出すのは難しいかもしれない、と瑠璃子は思った。

鉛筆を動かしながら、青年が少しだけ笑って言った。
「詩は出会った人に、代筆してもらってるんだ。俺、学がないから字が汚くてさ、自分で書くと後から読めないんだよね」

青年が紙とペンを差し出した。
「ねえ、瑠璃子さん。今、詩が降りて来たんだけど、代わりに書いてくれない?」
「ええ、もちろん」
瑠璃子は紙とペンを受け取ると、青年の声に耳を傾けた。

どんなにどんなに手足を動かしても
この湖を渡りきることはできない

たくさん歩いたけれど
どこに向かっているかわからない

森は深く暗いから

この霧が晴れることは決してない

樹海からは星も見えない
希望すら飲み込まれてしまう

この身体を風に乗せてどうかあの海へ返してください
そうしたらきっと自由になれる

書き終えて、瑠璃子はふと手を止めた。
目の前の青年と、詩がどうしても結びつかなかった。
「…ずいぶん悲しい詩を作るのね」
「そうかな。この森を見てたら、ね」
青年は瑠璃子をじっと見つめて言った。

「書いてくれた人も、旅の記録に残しておきたいんだ。日付と、ここにフルネームでお願い」
青年はニコリと微笑むと、手に持っていた鉛筆で、紙の一点を軽く叩いた。
「ええ、ここね」
瑠璃子は言われた通り、日付と名前を書いた。

青年がスケッチを再開した。
丸い瞳から人懐こさが消え、静かに瑠璃子を見据えている。
「ご主人の、どこに惚れたの?」

瑠璃子は、少し考えてから答えた。
「そうね。出会った頃は、決断力のある男らしい人だと思っていたわ。私も子供だったから」

少し間を置いて続けた。
「…でも、今はどうかしら。よくわからなくなってしまったわ」
ヤスヒロが変わったのか、それとも変わったのは自分かもしれない。

青年は、瑠璃子とスケッチブックを見比べながら、休まず鉛筆を走らせている。
こんな風に真っ直ぐ見てもらえたのは、いつぶりだろう。曖昧だった自分の輪郭をなぞるような。

「そうなんだ…」
青年が鉛筆を置くと、パーカーのポケットを探り、煙草を一本取り出した。
慣れた手つきで口に咥えかけて、ハッと動きを止める。

「……ごめん」
「構わないわよ?」
「んー、今はいいや」
えへへ、と笑うと、煙草をポケットへ戻した。

「ねぇ、そんな男やめて俺にしない?」

驚いて顔を上げると、青年がじっとこちらを見ていた。目が合うとふっと口元を緩めた。

「はい、できた」
青年はスケッチブックをこちらへ向け、体を伸ばしながらニコニコと笑った。

「美人だから、描いてて楽しかった」
そこには、湖をバックに佇む自分が描かれていた。

瑠璃子はスケッチブックをじっと見て言った。
「あなたから私は、とても寂しそうに見えるのね」

「…気付いてない?ずっと傷ついた顔してる」
スケッチブックから顔を上げると、青年は瑠璃子を見つめていた。

さっきの言葉は聞き間違い?
茶色い瞳の奥に、何があるかはわからなかった。

「この詩、やっぱりすごく良い」
青年は詩をそっと手元に引き寄せると、目を細めて微笑んだ。

スケッチのあと、青年が何かを手に戻って来た。
「見て。こんなの見つけたんだ」
古い釣竿だった。

「お昼食べたら、釣りしてみない?」
「ええ、いいわ。楽しそうね」

午後、二人は別荘から続く小道を下って湖畔へ向かった。
ヤスヒロにも声をかけてみたが「俺はいい」と言って、また書斎に引っ込んでしまった。
せっかくここまで来たのに、ヤスヒロはほとんど書斎から出てこない。

森の中の細い道を抜けると、だんだんと湖が見えてきた。湖畔の開けた場所に出る頃には、二人とも息が弾んでいた。

湖畔に下りると霧が晴れていた。
青い空と富士が、湖面にくっきりと映っている。

目の前に広がる、富士と湖の絶景に青年がため息を漏らした。子供の頃から来ている瑠璃子も、何度見ても感動する。
「わあ、すごいな」
「本当ね」

本当は、ヤスヒロと二人、並んで感動したかった。どうしようもなく胸が塞いだが、青年の楽しそうな様子に救われた。

青年に教えてもらいながら、二人で釣り糸を垂らした。

「全然、釣れないな」
「そうね」
ピクリともしない竿に二人は笑い合った。

湖上を渡る風が爽やかで気持ちいい。

この人は、優しい。
真っ直ぐこちらを見てくれる。
ヤスヒロのように目を逸らしたりしない。
別荘に来れば何かが変わると思っていた。

隣で釣り糸を垂らす青年の横顔を見て、瑠璃子はずっと気になっていたことを口にした。
「私、あなたを、どこかで見た気がするの」
「気のせいじゃない?ほらよくある顔だろ?」
「そうかしら」

瑠璃子が首を傾げると、青年は口元だけでふっと笑った。
「なぁに、瑠璃子さん。俺を口説いてるの?」
「えっ、そんなつもりは…」
「冗談だよ。ま、瑠璃子さんみたいな美人、俺なら絶対に忘れないけど」

しばらく、二人とも黙って湖面を眺めていた。
湖上を渡る風が、さらりと頬を撫でていく。

瑠璃子は前を見つめたまま、ぽつりと言った。
「…最近、夫が私を見てくれないの」

「そうなんだ」
青年は竿を持ったまま、瑠璃子を振り向いて言った。
「俺なら、放っておかないのに」
青年の茶色い瞳がじっと瑠璃子を見据えた。
その瞳はガラス玉のように、光を反射するだけだった。

その時、不意に竿先が揺れた。
「あっ、来たかも!」
青年が身を乗り出したが、結局魚は逃げてしまった。

「今夜は魚にしようと思ったのに」
「ダメだったわね」
二人は顔を見合わせて笑った。

結局魚は一匹も釣れず、二人は笑いながら山道を上って別荘へ戻った。

ヤスヒロが窓越しにこちらを見ていることに、瑠璃子は気づいていた。





夕食のあと、瑠璃子がリビングのソファで本を読んでいると、シャワーを浴びた青年がバスルームから出てきた。
腰にタオルを巻いただけの姿で、リビングを横切り、キッチンへ向かう。

「あ、あら、ごめんなさい」
瑠璃子は慌てて目を逸らした。

「あれ、まだ起きてたんだ」
青年は瑠璃子に気が付いて足を止めた。
まだ水気の残る髪を掻き上げて、口元を緩めた。

「あの、何か着てもらえない?」
瑠璃子が本で顔を隠しながら声をかけた。

チラリと見えた青年の身体は、しなやかで骨ばっていた。白い肌のあちこちに紫のアザがあった。
あれは、本当に転んだだけだろうか。

「あ、そうだよね。ごめんね」
青年はペタペタ歩いて、バスルームに戻っていった。ブカブカのルームウェアを身に付けるとキッチンに行き、冷蔵庫からシャンパンとグラスを出してきて、ニッコリ笑った。

「ねぇ、少しお話ししない?」
ヤスヒロと飲むはずだったシャンパン。
瑠璃子は二階の書斎のドアを見上げた。
書斎のドアはピタリと閉められ、中に人の気配はなかった。

「ええ、いいわ」
瑠璃子が微笑むと、青年が隣に腰掛けた。
シャンパンを開けてグラスに注ぎ、瑠璃子に差し出す。グラスを受け取る時、指先が少し触れた。

青年が眉を上げて笑った。
「君の瞳に乾杯、だっけ?」
「ふふ、カサブランカね」
瑠璃子もつられて笑う。
二人はグラスを掲げて静かに乾杯した。

「明日、帰るんだろ」
青年がグラスに口を付けた。
「あら、知ってたの?」
瑠璃子が驚いて聞く。

「うん、ご主人に聞いたんだ」
いつの間に聞いたんだろう。
ヤスヒロはほとんど書斎から出てきていないのに。

「スケッチと詩を、手伝ってくれてありがとう」
青年が瑠璃子をじっと見て言った。
「お役に立てたならよかったわ」
瑠璃子も一口含んだ。良く冷えて美味しい。

青年がシャンパンを一息に煽って、テーブルにグラスを置いた。

青年が瑠璃子から目を離さずに、ゆっくりと口を開いた。
「ねぇ、瑠璃子さん」

少しずつ距離を詰め、青年が濡れた瞳で見上げて来る。
「ずっと"良い奥さん"で疲れない?俺なら、瑠璃子さんを放っといたりしないよ」
低い声で、耳元で囁く。
瑠璃子はグラスを持ったまま、動けなかった。
「明日になったら、もう会えないね」

しばらく沈黙が流れた。
青年が小さなケースを取り出し、指先で白い錠剤を摘み上げた。

「コイツのせいにしてさぁ、俺とイイコトしない?」

イイコト?

白い粒と、差し出す青年の顔を見た。
青年の瞳は、近くにあるのに、ぼんやりとどこか遠くを見ている気がする。

体の熱が冷めていく。

ヤスヒロの顔が一瞬浮かんで、消えた。

もう、どうでもいい。

瑠璃子はシャンパンを煽って、グラスを置いた。

手を開くと青年が目を細め、白い粒をそっと手のひらに載せた。

瑠璃子の手のひらで、白い粒が鈍く光った。




足元から、水がこんこんと湧いている。
足首からヒタヒタと冷たい水に浸かっていく。
見上げれば夜空。
シリウスが、白く強い光を放っている。
星に手を伸ばして、指先で摘んだ。

金平糖みたい。
金平糖がコロンと手のひらからこぼれ落ちた。
あっと手を伸ばすと、そのままバシャンと水中に落っこちた。

ハッと目が覚めた。

別荘の主寝室。
カーテンの隙間から光が差し込んでいる。
久しぶりに人肌の温もりを感じる。
しかし、それはヤスヒロではなく、青年の白い胸だった。

私は…。
何も考えられない。

重い頭を振り、体を起こす。
体がだるい。
喉がひどく乾いている。

昨夜のこと。
…夢、じゃない。

瑠璃子は身動きできないまま、呆然と、隣で眠る青年を見つめていた、その時。

突然、寝室のドアがバン!と開いた。

瑠璃子の肩がビクッと跳ね、青年が飛び起きた。
ヤスヒロが、ズカズカと寝室に入ってくる。

青年の髪を掴み上げた。
「何故コイツがここにいる!」

頬を思い切り殴りつけた。
ベッドから転げ落ちた青年の、下着一枚の腹を蹴った。青年は腹を抱えて呻いた。

「説明しろ!瑠璃子!」
ヤスヒロが、青ざめる瑠璃子を睨みつけて叫んだ。
「言えばいい!俺が邪魔になったと!」

寝室のドアを叩きつけて階下に降りていった。
大声で喚きながら、引き出しやドアを乱暴に開けては閉める。手当たり次第にモノを投げて壊していく。

瑠璃子はたまらず寝巻きのまま、裸足で別荘を飛び出した。

鬱蒼と茂った森に霧が立ち込め始める。
朝日が届かない暗い森。

足がもつれて前に進めない。
泣き崩れる瑠璃子の背後に、いつの間にか青年が立っていた。
瑠璃子の肩に毛布をかけ、そっと抱きしめると、髪を撫でて囁いた。
「あなたは、何も悪くないよ」

…この人は、一体、何者なの。

瑠璃子は振り向いて、間近で青年を見つめた。
青年の茶色の瞳は瑠璃子を見ているはずなのに、瑠璃子を写していなかった。

身体が、芯から冷えていく。
心臓が早鐘を打っている。

何をしてしまったんだろう。

でも、ヤスヒロも私を見てはいなかった。
この人も。最初から、ずっと。
私はもう戻れない。

私がいなければ、あの人はもっと自由になれる。

左の薬指の、銀の鈍い輝き。
もう、諦めましょう。
戻らない輝きに縋るより。

馬鹿な女のふりをしてあげる。
私が消えるのが、あなたの望みなのでしょう。
愛しているから、消えてあげる。

これが、最後の愛。

…ふふふっ

変なの!
なぜだか腹の底から笑いが込み上げてきた。
この震えは、恐れ?
それとも、答えが出たから?

あはっ!
瑠璃子は、笑った。
笑いながら青年の腕を振り解き、ふらりと立ち上がった。

あははは!
瑠璃子が笑いながら、湖に向かって歩き出した。森に乾いた笑い声がこだまする。

青年は霧の中から、瑠璃子の背中を見ていた。
何も映さない瞳で。


第二章 ヤスヒロ


別荘地に近い病院。
報せを受け、瑠璃子の母が駆け込んで来た。
「瑠璃子!瑠璃子は!?」

ベンチから立ち上がり、深々と頭を下げる。

母親が霊安室に入っていった。
嗚咽が廊下まで聞こえてくる。
母親が、瑠璃子の名を呼んで泣いている。

しばらくして、母親が霊安室から出てきた。

「…あの子が、自殺なんてするはずないわ!」
暗い廊下に声が響く。

ヤスヒロがカバンから白い封筒を取り出し、無言で手渡した。母親が封筒を開け、紙を取り出す。

目を通すと、顔を上げてヤスヒロに掴み掛かった。瑠璃子に良く似た瞳が悲しみと怒りで、震えている。

「…これが遺書ですって?ふざけないでちょうだい!こんな、詩のようなものが?」
紙がハラリと床に落ちた。

「ですが、筆跡は彼女のものです。署名もある」
ヤスヒロは母親の手を静かに解き、床に落ちた紙を拾うと、封筒に戻した。ゆっくりと頭を下げた。
「ここまで思いつめていたとは、気づけませんでした。彼女を、止められなかった」

母親は頭を下げるヤスヒロを、きつく睨んで言った。
「あなたとの結婚を許したのが、間違いだった」

「……あなたを絶対に許さない」





秋の富士の麓。森は鮮やかに色づいていた。
早朝の湖上に、ボートを操る男が一人。
ヤスヒロだった。

先日、瑠璃子の母親に会った。
ヤスヒロは御堂家本宅の応接室に通され、重厚なテーブルを挟んで瑠璃子の母と向かい合っていた。

「遺骨を海に撒いた!?」
瑠璃子の母が立ち上がって叫んだ。

「な、なんて、なんてことを…」
母親は立ったまま、言葉を失った。

「遺書にある通り、彼女の望みを叶えたまでです」

ジャケットの胸ポケットから遺書を取り出し、母親の前に差し出した。

「…娘は…瑠璃子は…」

母親は青ざめた顔で、力無くソファに崩れ落ちた。震える手を遺書に伸ばしたが、ヤスヒロは無言で遺書を引き寄せ、ジャケットの胸ポケットにしまった。

「これは彼女からの最後の手紙です。私が持っているべきだ」

湖岸が近付いてくる。
ヤスヒロは静かにボートのエンジンを切って、碇を下ろした。

結婚指輪を外した。腕時計も。
ジャケットを脱ぎ、シャツのボタンを外していく。全て脱ぎ去り、湖に飛び込んだ。

終わった。
終わらせた、何もかも。

水を掻く腕が、身体が、驚くほど軽い。
やっと、自由を手に入れた。

今はただ泳げることが嬉しかった。
ここから俺は生まれ変わる。



ヤスヒロには、自分はどこかおかしいのではないか、という予感があった。
予感が確信に変わるのにそう時間はかからなかった。

幼い頃から、父が、父が振るう拳が怖かった。
母が泣いて赦しを乞う姿は、もっと怖かった。

「ごめんね、ヤスヒロ」
十二の時、母は出て行った。
置いて行かれた。連れて行って欲しかった。

中学二年の頃、上級生の女の子に告白された。
「なんで、俺?」
「背が高いし、かっこいいから」
断る理由は特になかった。

学校帰りに一緒に歩き、休日は公園や図書館に行く。ありふれた、清い交際。

ある日の帰り道、その子が言った。
「ねえ、手、繋ごうよ」

手を、繋ぐ。 
その子の手首は、細くて白くて脆そうだった。

ヤスヒロが指を絡めると、その子は顔を赤くして微笑んだ。その時初めて、その子のことを真正面から見た。

セーラー服から伸びる細い首、黒い髪、柔らかそうな唇。
もっと、触れてみたい。

衝動のまま顔を近づけた。
「イタッ!」

ヤスヒロは思い切り突き飛ばされて、地べたに尻餅をついた。
勢いよくぶつかってしまい、その子の唇は血が滲んでいた。

「…ごめん」
ヤスヒロが謝ると、その子は怯えた目で走り去った。

翌日「一緒にいるのが怖くなった」と告げられ、交際は終わった。その子の顔も名前も曖昧なのに、血のついた唇だけが、鮮明に残った。

高校の頃、父に殴られて、初めて殴り返した。
「何もかもお前のせいだ!」
父は酷く狼狽えた。
こんなに矮小な人間に虐げられていたとは。
その日を境に、父は大人しくなった。

だが、ヤスヒロは自分自身が怖くなった。
この身体には、父と同じ血が流れている。
大学進学を機に家を出た。
それ以来、父とは会っていない。

大学で御堂教授と出会った。
穏やかで、優しかった。

教授が、本当の父親だったなら。

投資家として芽が出始めた頃、教授の娘、瑠璃子に会った。可憐で脆そうに見えた。

素晴らしいことを思いついた。
瑠璃子と結婚すれば、御堂教授の息子になれる。

本間の姓を捨て、御堂の家に入った。
御堂教授の大切なひとり娘。
俺も大切にしなければ。
しかし、瑠璃子を大切にしたいと思うほど、触れるのが怖くなった。

事業が傾き始めたことを、夕食の席で瑠璃子に告げた。
「どうしてそうなる前に気づかなかったの?」

瑠璃子の目を見ることができず、席を立った。

暗い部屋で俯いていると、ドア越しに瑠璃子の声が聞こえてきた。
「責めるつもりはなかったの。あなたなら、できると思ったから」

あなたならできる……。
いや、違うんだ、君が見てる俺は。

「……今日は、もう寝るよ」
そう言うと、瑠璃子の足音は遠ざかっていった。

結婚して三年目の秋、瑠璃子の父が急逝した。
唯一ヤスヒロを擁護してくれた、理想の父。
心の支えを失った。

瑠璃子も離れて行ってしまうかも知れない。
そして、新しい家庭を持つかもしれない。
いつかの、母のように。

そうしたら、俺は御堂の姓を手放すことになる。

その頃、ある出会いがあった。

何度か顔を見るうちに、わかった。
あの男なら、頼める。

第三章 青年


俺は御堂瑠璃子を知っていた。

早くに親と死に別れた俺は、天涯孤独となった。俺が育った教会の孤児院は、御堂家の支援で成り立っていた。

御堂一家は、クリスマスのミサに必ず訪れ、孤児院の子供たちに、美しいクリスマスカードと美味しいお菓子を配った。

仲睦まじい両親、手厚い教養。
俺には、どちらもなかった。

ある年のクリスマス。
瑠璃子が両親から離れて、一人、教会の小さなステンドグラスを熱心に見つめていた。

その少女の横顔を、俺は遠くから眺めていた。ステンドグラスの光に包まれて、少女はまるでマリア像のように見えた。

ふと振り向いた彼女は、俺が見ていることに気が付くと、一瞬驚いた顔をしたが、柔らかく微笑んだ。
たったそれだけのことだったが、俺の胸に刻まれた。

だから、この男が瑠璃子の夫と知った時、俺の胸にザワリとさざなみが立った。

完璧な彼女ではなく、何も持たない俺を、この男は欲している。

今、開けてはいけないドアを叩いている。

俺の背筋を、ゾクゾクするような快感が走っていく。



ある秋のことだ。
長かった夏がようやく終わろうとしていた。

俺は寂れた古書店でバイトをしていた。店主の爺さんは偏屈だったが、居心地は悪くなかった。

狭い休憩室でカップ麺を啜っていたら、ドアベルがチリンと来客を告げた。

「はーい」
麺を慌ててかき込み、スープで飲み込んだ。外していたエプロンを引っ掛ける。

「いらっしゃいませ」
バックヤードからのれんを潜ると、店のカウンターに男が一人立っていた。

紺のポロシャツに黒のスラックス、革の靴。
地味だが高そうに見える。
背が高く、不自然なほど姿勢が良い男だった。

「店主は?」
「買い付けに行ってて、しばらく留守です」
「…出直します」
「あ、探し物なら手伝いますよ」
踵を返す男を、俺はなぜか呼び止めてしまった。

「これなんですが」と、男がスラックスのポケットから、几帳面に折り畳んだメモを取り出した。

メモを受け取り、タイトルを確認する。そのタイトルには見覚えがあった。
「あぁ、最近入荷したような…」

カウンターを抜けて店に入り、本の場所に案内する。
「これですか?」
平積みされた一冊の本を示すと、男は少し眉を上げた。古びた分厚い本を、丁寧に持ち上げる。

「そんな難しそうなの、よく読めますね。俺にはさっぱり」
俺は肩をすくめて、畳んだメモを男に返した。
メモを返す時、指先がほんの少し男の手のひらに触れた。

男は俺の顔をじっと見ると、低い声で言った。
「でも、見つけてくれた」

「また来る」
男は本を買い、去って行った。
ドアベルがチリンと鳴った。

その後、男はたびたび店を訪れるようになった。

風に冬の気配を感じ始めた頃。
夕方、仕事を終えて店の裏口から出たら、男が路地の暗がりに立っていた。

「あれ?店はまだやってるぜ」
俺が裏口に鍵を掛けながら言うと、男はゆっくり近付いてきた。
「今日は、店に来た訳じゃないんだ。よかったら食事でもどうかな」

ちょうど夕飯時で空腹だった。
「奢りなら」
「もちろん」
男は口元を緩めた。

俺の馴染みの居酒屋に行った。
酒とタバコの煙、下品な会話が飛び交うガヤガヤと騒がしい店内で、男の伸びた背筋は異質だった。

カウンターに並んで座り、俺はビール、男は水割りで乾杯した。
俺が喉を鳴らしてジョッキを空けるのを、男がじっと見ているのが横目でわかる。

常連の男が通りがけに、俺の背中をバシッと叩いていった。
「トオルよぉ!やけに色男連れてるじゃねぇか!」
「いてっ!うるせぇな、ほっとけ!」
男の背中に向かって叫んだ。

俺はポケットからタバコを取り出して口に咥えた。隣の男が、こちらに顔を向けて言った。
「君は、トオル、というのか」
「そう。あんたは?」
「私は、ヤスヒロという」

灰皿を引き寄せてタバコに火をつけた。
「んで? 俺に何か用事?ヤスヒロさん」

ヤスヒロは低い声で言った。
「…君に頼みがある」
「…頼み?なんか、いい話じゃなさそうだな」

グラスを傾ける彼の薬指に、指輪が嵌っているのはだいぶ前から知っていた。
「まあ、そうかもな」
ヤスヒロはグラスに口をつけた。

俺はタバコをふかしながら言った。
「まあ、奢ってもらってるし、聞くだけ聞いてやるよ」

ヤスヒロが静かに言った。
「…君と、関係を持ちたい」
「へえ、いくら出す?」

彼は目を細めた。
「いくらでも。君は、とても良い」
「いくらでも?」
俺は思わず目を丸くした。
タバコの煙を吐き出してから、ニヤリと笑った。
「口説かれるのは初めてじゃないけど、こんな熱烈なのは初めてだ」

ヤスヒロは手の中でグラスをゆっくりと回している。彼の左手の指輪を指差して言った。
「あんた、奥さんいるんじゃないの」

ヤスヒロは、グラスを置いて俯いた。
「…俺は妻を抱けない」

灰皿にタバコの灰を落とした。
「ふうん?なんか、いろいろあるんだね」

ヤスヒロは背筋を伸ばしたまま、時折、グラスを口に運んでいる。

ざわめきのような、静かな興奮が身体を包んでいく。

カウンターの上のヤスヒロの指に、小指を引っ掛けたら、ヤスヒロが顔を上げた。
黒い瞳と視線がかち合う。暗くて冷たい瞳だった。

その瞬間。
店の中は、相変わらず騒がしいはずなのに、音が一瞬遠のいた。

ヤスヒロの瞳の奥に、チラリと何かが顔を出した。妖しい炎のような。

…もっと知りたい。
胸がドクンと高鳴った。

俺は口の端を上げて言った。
「いいよ」


居酒屋を出ると、夜空には細い三日月が出ていた。しばらく歩いたところに、俺の住む古いアパートがある。
塗装の剥げた外階段を上り、部屋のドアの前で、ヤスヒロが足を止めた。

「…今なら、まだ戻れるぜ」
俺は鍵を開け、肩越しに振り向いて言った。
「でも入ってから、やっぱりやめた、はナシだ」

「戻る?一体どこに?」
ヤスヒロは呟くと、一歩を踏み出した。
俺はドアを開けて迎え入れた。
ヤスヒロの硬質な靴音が部屋に響いた。

六畳一間の狭い部屋。

ヤスヒロはジャケットを脱ぐと、敷きっぱなしの布団の端に腰を下ろした。

ヤスヒロの広い背中に抱きついて、耳元に唇を寄せる。
「俺になら、何してもイイんだぜ?」

ヤスヒロは下を向いたまま、無言で体を固くした。薄い耳たぶを指でくすぐる。
「奥さんに出来ないこと、俺が全部引き受けてやるよ」

俺が囁くと、ヤスヒロは振り向いた。
瞳に暗い炎が灯り、静かに揺れている。

ヤスヒロの大きな手のひらが、俺の後頭部を掴んでグイと引き寄せた。唇を重ねた瞬間、ヤスヒロから戸惑いが消えた。

布団にひっくり返され、気づけば天井を見上げていた。

ヤスヒロは上に乗ると、俺の首に手をかけてきた。指がゆっくりと喉に食い込んでくる。

長いまつ毛に縁取られた瞳に、涙が膜を張っている。底なしに深くて、暗い。

深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いている

本当だ

溺れていく

息が、出来ない


ヤスヒロがハッと目を見開き、手を離した。

俺は呼吸を許され、ひどく咽せた。
咳き込む俺の背中をヤスヒロがさする。
「すまない」

咳の合間に切れ切れに言葉を発する。
「…言った…ろう、何してもイイって」

ヤスヒロの瞳が揺れる。
「……本当に?」

俺はニッと口の端を上げた。
「そういうのはなぁ、野暮って言うんだぜ」



夜が明けた。
ペラペラのカーテンから朝日が差し込んで、部屋が明るくなってきた。

俺の生っ白い身体はアザだらけになったが、求められるのが嬉しかった。

身体のアザを見て、ヤスヒロは怯えた表情を見せた。ヤスヒロは身体を起こして「すまない」と呟いた。眉を寄せて俺の頬を撫でた。

「こんなの、どうってことない」
痛めつけられたのは俺だが、ヤスヒロの方が痛々しい顔をしている。

俺は薄っぺらい布団に寝そべったまま、タバコに火をつけた。
「スッキリしただろ」
「…そうだな」
俺が煙を吐き出しながら言ったら、ヤスヒロはフッと微笑んだ。

タバコを灰皿代わりのビールの空き缶に押し付けて、ヤスヒロを布団に引っ張り込んだ。

「人間なんて薄皮一枚剥がせば、みんな似たようなもんが詰まってんだぜ」

ヤスヒロの頭を抱いて襟足を撫でる。
「だから、そんなに考え過ぎなくていいんだよ」

ヤスヒロは、ふうと息をついて呟いた。
「…初めて言われた。そんなこと」
「そお?」
「ああ。やっぱりトオルはいい」
黒い瞳でじっと見上げてきた。
その瞳には俺しか映っていない。

叶えてやる。お前の望みを。





あの夏の深夜。
森には虫の音だけが響いていた。夜空にはたくさんの星と、消えそうに細い三日月が出ていた。

誰かが、物置小屋の戸を、ほとほとと叩いている。

俺が戸を細く開けて伺うと、暗い森を背に、ヤスヒロが立っていた。辺りを伺ってから、そっと招き入れた。

ヤスヒロは小屋に入るとすぐに、俺を抱きしめた。
「…トオル」
瑠璃子さんの前では呼んでもらえなかった。
ヤスヒロの黒い瞳をじっと見つめる。

小屋の中は暗く、明かりは小さなランタンのみ。

ヤスヒロの肩に額をつけたら、頭に手を置かれた。
大きく、パサついた手のひら、節の太い指。
この手を想うだけで、俺の内側はじんと熱を持つ。ヤスヒロに判を押された日から、俺の身体はこの手でないと駄目になってしまった。

ヤスヒロの手を取り、自分の頬に押し当てる。
「なぁ、本当に上手くいくかな」
「できるさ、お前なら」

ヤスヒロが俺の肩を掴むと、体を引き離した。
「まさかお前、今さら怖気づいたんじゃないだろうな」

正直なところ、いい気はしない。
瑠璃子さんは純粋で綺麗な人だ。

「…離婚では、ダメなんだな」
「ああ、駄目だ。離婚では…耐えられない」
ヤスヒロが俺の背中をかき抱いた。

そうだよな。わかってる。
どうせ俺たちはもう、まともな場所には居られない。

「……お前にしか頼めない」
ヤスヒロの言葉で身体の内側に火がつく。熱はじわじわと広がっていく。

俺はこの男に必要とされている。

ヤスヒロの頬に自分の頬をピタリと付けた。
目を閉じて、ヤスヒロの襟足を指ですく。
「わかったよ。ヤスヒロ」

耳元で低く囁く。
「俺と一緒に、地獄に堕ちようぜ」





秋の空は青く高い。

陸の見えない沖合で、ヤスヒロが小船のエンジンを止めた。穏やかな波に、船は静かに揺れている。

見渡す限り、海の青、空の青。
世界に、ヤスヒロと二人だけになったみたいだった。

変わり果てた彼女を海に撒く。
白い粉。
青い、青い海。

隣でヤスヒロが手のひらに残った彼女をそっと送り出し、深く息を吐いた。

美しい海に混ざり合って溶けていくのを見ていたら、冷たい墓石の下より、ずっと良いような気がした。

ヤスヒロが花束を海に投げた。
花束はバラバラになりながら、しばらく浮いていたが、そのうちに波に揉まれて沈んでいった。

これでよかったんだよな、ヤスヒロ。
暗い瞳で海を見つめる男を仰ぎ見る。

ヤスヒロの瞳の奥底にあるもの。
あの冷たさと暗さ。
俺にはとても心地良い。

知らない方がいいものが世の中にはある。
でも知ってしまったら、もう戻れない。

俺たちはきっと地獄に落ちるだろう。
業火に焼かれて、俺たち二人真っ黒な灰になる。

いつか来るその日まで。
俺はこの男と共にいる。





季節は変わり冬が来た。
湖畔の別荘は雪と静寂に包まれている。
別荘への登り坂を、ゆっくりと雪を踏みしめていく。
待ちかねたように、ヤスヒロがドアを開けた。

「トオル」
名を呼ぶ響きを噛み締める。

互いの頬をぴたりとつけ、目を閉じた。
ヤスヒロの襟足を撫でて囁く。

「これからは二人だけだ。時間はたっぷりある」

手を取り、別荘へと向かった。
ドアが静かに閉まった。


エピローグ 水底で笑う


春が来るたびに思い出すことがある。
湖の近くの派出所に勤めていた頃のことだ。
春とはいえ、まだ雪が残り、朝晩は冷える。

深夜、一本の通報が入った。
「湖の近くを、ずぶ濡れの男が歩いている」

新米の私は、先輩とパトカーで現場に向かった。
男は暗闇を一人、裸足で歩いていた。

「お兄さん、大丈夫ですか」
声をかけると、男がゆっくりとこちらを振り向いた。懐中電灯に白い顔が照らされる。

署へ連れ帰り、予備の服と毛布を貸し出し、ストーブにあたらせた。温かいお茶を手渡したら、男は震えながら、小さな声で「ありがとう」と言った。

「お名前は?」
男は答える代わりに、微かに口角を上げた。
茶色がかった長い髪が、まだ水気を含んで頬に張り付いている。

身分証もない。濡れた服を探ってみたが、濡れてひしゃげたタバコしか出てこなかった。

「何があったか話してくれる?」
男は何も言わず、また口角を上げた。
酔っているようには見えなかった。

男が不意に顔を上げた。

「ねえ、おまわりさん」

茶色の瞳が、じっとこちらを見据えてくる。
視線は合っているはずなのに、男の目はどこか違うところを捉えている。この世ではないような。

「深い深い水の底を見てみたい、そう思ったことは、ない?」

「……水の底?」

「そう」
男は少し前のめりになり、言葉を続けた。

「治りかけのカサブタをそっと剥がす時、まだ早くて、血が出てしまう。痛いけど、もう少し、もう少し…」

「そんな時、ない?」
男が、真っ白な顔でニヤリと笑った。
ゾッとして思わず身を引いた時、無線がけたたましく鳴った。

『――湖上でボートが炎上中!』

先輩が無線機に飛びついた。
背後の無線機に気を取られた、一瞬。

振り向くと、そこには誰もいなかった。

後日、湖に沈んだボートから焼死体が発見された。遺体は御堂ヤスヒロ氏と見られている。

私は今、あの土地から離れて暮らしている。

けれど、春先の冴えた夜風に吹かれると、あの囁きが蘇る。

「深い深い水の底を見てみたい、そう思ったことは、ない?」







人形

サイドストーリー

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