【短編小説】 副編集長が方向音痴過ぎる
案の定、アンリは迷っていた。
東京駅は、広くて複雑だ。
けれど、何十回、何百回と使っているのに迷うのは、ひとつの才能だと思う。
名古屋支店での長期プロジェクトが終わり、
一年ぶりにわたしは東京へ帰任した。
etoile文芸部編集室。
東京本社。
キャリーケースを引いて、副編集長アンリを待つ。
もう、三十分過ぎたよ?
アンリは、
仕事はできるし、原稿も読める。
作家の機嫌も読める。
(ついでにわたしのご機嫌も)
……だけど、地図だけは読めないんだ。
◆
『ヒカリさん、今どこ?』
アンリからメッセージが来る。
『八重洲中央口だよ』
『たぶん、丸の内南口にいる』
え〜、なんで?
八重洲で待ち合わせって伝えたじゃん。
見事なまでに間違えてくる。
これってある種、能力よね?
◆
こういう時、アンリは妙に落ち着いている。
不思議と冷静に見えるというか……得だよね。
『動かないで。そこ行くから』
『分かった』
うーん、信用ならない。
アンリは、筋金入りだから。
案の定、五分後。
『赤レンガの見えるところにいる』
『えっ、移動したの?』
『あ、緊急案件発生!』
『ヒカリさん、待っていて!』
えーーーー!?
ちょっと、説明しなさいよ。
いつまで、どこで待てばいいのー。
◆
わたしは駅ナカのカフェに入った。
コーヒーを置いて、パソコンを開く。
来月号の特集ページに赤を入れる。
エッセイ連載のタイトル案を整理する。
まぁ、仕事なんて山ほどあるしね。
ん?社畜って??
ううん、考えたら負けだよ。
◆
編集部のチャットが俄に騒がしくなっていた。
『ヒカリ編集長、桂木先生が泣きべそです!』
新人作家の桂木ユイ先生が、
今日入稿の短編を、全部書き直したいと泣き出したらしい。
付き合ってあげたいよ?
世に出す前に、とことん納得したい。
——その気持ちは、よく分かる。
でもね、締め切りも大切なのよ。
こういう時わたしはいつも、
天使と悪魔に両手を引っ張られている気がする。
そして、アンリは
桂木先生のところに向かってくれているらしい。
任せるよ?
いつもと同じように。
◆
『会えたよ』
しばらくして、メッセージが届く。
『どう?』
『泣いてたけど、シヅカ洋菓子店のクッキーを渡したら、泣きやんだよ』
『一応、最低限の修正で納得してもらった』
あはは。
あそこのクッキー美味しいもんね。
アンリは、そういうところ気が利く。
真っ直ぐ説得するんじゃなくて、
すこし横から心をほどく魔法を差し出してくる。
その魔法に、何度も助けられている。
◆
仕事は片付いた。
桂木先生の原稿は、入稿完了。
レイアウトの修正案を作成し、SNS告知文も整えた。
窓の外を見る。
薄い橙の夕陽が、ゆっくりと街路樹を照らしている。
アンリはまだ来ない。
「まだかなぁ〜。
ヒカリさん、今日名古屋から帰ってきたんだぞ」
独り言が宙に溶ける。
バッグの中に目を向ける。
小さなラッピングの箱が、静かに佇んでいる。
そっと手に取ると、すこし重たい。
それはきっと、クリスマスからの重み。
◆
先に帰ろうかな、と思った。
そのときだった。
「待って」
振り向くと、アンリがいた。
少し乱れた髪。黒縁メガネ。
慌てた顔で、息を弾ませている。
ん、花束?
アンリは、小さな薔薇の花束を持っていた。
大きくはないけれど、すごく、綺麗な花束。
彼は、花束を差し出した。
甘くてとろける香りがする。
はにかんだ笑顔。黒縁のメガネ。
そっと、わたしに微笑んで言った。
「ヒカリさん、おかえりなさい」
了


