【短編小説】 猫を飼う
俺がこの部屋に来たのは、五月。
ゴールデンウィークの一日だった。
ペットショップからマンションの一室へ。
初めての旅をして、この部屋に足を踏み入れる。
「ブラン、今日からここがあなたのお家よ」
クンクン。
まだ新しい匂いだ。ダンボールの匂いが強いな。
部屋の中央に、真新しいソファとテレビ。
ミントグリーンのカーテンが、光に透けている。
窓からの風が髭を揺らす。
新緑の若葉が、外でざわめいている。
よし、窓際の暖かそうなクッションに決めた。
俺は寝そべって欠伸をした。
◆
「ブラン、ご飯よ〜」
カリカリしたドライフードが俺のご飯。
これが、普通に美味い。
たまにくれるウェットなご飯も美味しいし、
“ちゅ〜る”ってやつは一際美味い。
食べ終わって舌でぺろぺろしていると、
我が主達がやって来る。
「美味しかったかい?ブラン」
こちらはアンリ。
眼鏡を掛けた人間のオスだ。
柔和な雰囲気だが、どことなく瞳の奥に光るものがある。
「よく食べたね〜」
こちらはヒカリ。
髪の長い人間のメス。
いつもテキパキ、忙しない。
紅茶の香りのフレグランスをしていて、俺は案外それが好きだ。
アンリとヒカリは、恋人同士なのかな。
何かする度にキスをして、ハグをする。
やれやれ。
俺がいるのに、ハートマーク飛ばしまくるのやめてくれない?
◆
六月。
湿気が髭を重くする。
ふわふわのドームハウスも、水分で重たく感じる。
「ついに、辞令が出ちゃったぁ」
ヒカリの声は、いつもより力がない。
「名古屋支店のプロジェクトに抜擢なんて、
すごいよ」
アンリの声は、相変わらず優しい。
「でも、名古屋に赴任するのよ。一年だよ?」
「うん、離れるのは辛いけど、
ヒカリさんにとって大きなチャンスだ。
僕は応援するよ」
転勤ってやつは、いつだって試練だ。
いや、これはヒカリが観てるドラマの受け売りなんだが。
泣いているヒカリをアンリが抱きしめて、
キスをして……。
おっと!これ以上は野暮だったぜ。
俺はドームハウスで寝るとしよう。
◆
八月。
長期休暇で、ヒカリが帰ってきた。
……いや、ヒカリは毎週末のように帰ってきていたし、交互にアンリも名古屋を訪れていたようだ。
休暇を利用して、軽井沢のホテルに行った。
俺としては自宅以外の場所は初めてで、
なんだかソワソワしたけれど、まぁ、概ねいつものハウスで過ごした。
ふたりは終始笑顔。それが何よりだ。
◆
十二月。
窓には冷たい結晶が張り付き、
俺はずっと床暖房の上で丸くなっていた。
世間ではクリスマスってやつかな。
「……仕事なら、仕方ないよ」
「うん、僕の事は心配しないで大丈夫だよ。
うん、ブランも元気だよ」
アンリの声は、いつも通り穏やかだったけれど、足元が忙しなく揺れていた。
通話が終わると、寄ってきて俺を抱える。
「ヒカリさん、クリスマス仕事で帰ってこれないんだってさ」
そう言って俺を撫でる。
アンリの手は暖かくて、気持ちいいんだけれど、
指の先は冷たい。
頬を舐めてやると、
アンリはくすぐったそうに笑った。
◆
三月。
ヒカリは毎週帰って来られなくなって、
アンリも名古屋に行く頻度が減った。
部屋の片隅に、渡せなかった荷物が増えていく。
俺に出来ることは、せめてスリスリして、
場を和ませることくらいだ。
猫の身では、それしか出来ない。
人間は、出来るはずなのに、しないことが多いみたいだけれど。
◆
また五月がやって来る。
今日のアンリは、すこし緊張している。
いつもより身支度に時間をかけ、
いつもより早く家を出た。
……また、道に迷わないといいけどな。
カレンダーには、花丸の印。
柄にもなく、ピンクで印つけちゃってさ。
俺はやれやれと髭をしごいた。
懐かしい紅茶の匂いが帰ってくる。
カレンダーの文字が弾んでいる。
“ヒカリさん、帰任日”
了

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