【#創作大賞2026】一架の声が聴こえる?(八)
前回
(八)
過去が、迫ってくる。
あの手紙を受け取った日から、心の中ではこんな未来がくるとを薄々感じ取っていたはずなのに、ずっと無視していた。見ないふりをしてきた。
五年前のあの日を境に自分の人生にどこか消化試合のような無意味さを感じて生きてきた。もう負けているのに。その自分の弱さがくだらなくて、目を背けていたかった。
「先生!」
やめてくれ、俺はもう先生じゃない。
「藤波先生!」
笑っているその顔をもう見ることができないことを知っている。
「藤波さん!」
あぁ、少し似てるなと思ったのも束の間、強烈な頭痛とともに意識が遠のいていった。
***
次の日、〝打ち合わせ〟の名目で薫陶社へと赴くと編集部のドアの前であんぱんが仁王立ちしていた。
「関係ないとは言わせませんから。今日は話を聞くまで私動きません!」
「ふっ……」
「え、なんで笑っ……⁉︎」
あまりに予想通りの言動で笑いが漏れてしまった。素直な奴である。この女が諦めの悪い人間だということは出会って一週間程度だが身に沁みてよくわかっている。
「場所を変えるぞ」
ちょうど空いていたミーティングルームへと移動するまでの間、あんぱんが黙って着いてくるので調子が狂った。お前いつももっと一人で喋ってるだろうが。
さて、どうするものか……と思いながら席に着くと先に話し始めたのはあんぱんの方だった。
「昨日、藤波さんが帰った後、東堂さんを問い詰めました。東堂さんは全部知ってるんですよね?」
「あぁ、古い付き合いだからな」
東堂のことは前々からよく知っていたが、あんぱんと組むようになってからは「憧れの先輩」としてよくその名を聞いていた。崇拝に近い様子で尊敬していたはずなのに問い詰めるとは。相変わらず度胸がある。
「〝私に聞かないでちゃんと自分自身でぶつかって聞いてきなさい〟って東堂さんに言われて気づきました」
あんぱんの真っ直ぐな眼がこちらを貫く。
「誰かの本当の声を、ちゃんと聞くのが私たちの仕事ですもんね。昨日は怖気付きましたけどもう逃げません」
あぁ、そんな風に真正面からぶつかられたらもうかわせない。胸の内をこじ開けられて隠れたがっている自分が引きずり出されてしまう。
「教えてください。藤波さんに何があったのか。ヒヨリさんは、誰なのか」
その名前があんぱんから出てくるとは思わず心臓がギュッと痛んだ。
「木村日和(きむらひより)は五年前に亡くなった、俺の生徒だ」
***
よく笑う子だった。
しっかりしていて、何かとよく頼ってしまいたくなるようなお姉ちゃん気質の生徒。明るくて、友達もたくさんいて、これからの人生にいくらでも選択肢がある。そんな子だった。
木村日和は五年前、その頃高校教師をしていた俺の担任クラスの女子生徒だった。
「おはよーございます! 藤波先生、今日いつも以上に髪もじゃもじゃー」
「はい、おはよう。こら木村スカート折るなぁ」
「はーい直しまーす!」
友達たちときゃっきゃと笑いながら廊下を走り抜けていく。そんな普通の、当たり前の日常を過ごす彼女の顔を今もありありと覚えている。
「ねぇ、先生。次のテスト数学だけはめちゃくちゃ簡単にしてー‼︎」
理系科目が苦手だった彼女は数学の担当教員だった俺のところへよく質問をしにきていた。
ちゃんと質問をするのは最初の十分くらいでその倍ぐらいどうでもいいお喋りをしていくのが日常だった。一人で来る時もあれば、友達と連れ立ってくることもある。そんなところも何だか人懐っこい彼女らしかった。
数学準備室でする雑談はくだらないことばかりだった。
「ねぇ、せんせ。どうして人は殺しちゃいけないんでしょう?」
「別に人を殺すなって法律があるわけじゃない。人を殺したらその分罰を受けるだけ」
「じゃあなんで法律で罰を受けるってことにしたんでしょうね」
「そりゃ守られるためだろ。何もなかったら殺され放題じゃねーか。法律に守ってもらえるように俺は法律守ってんだ」
西陽の差し込む教室で、なにがそんなにおかしいのかコロコロと笑いながら彼女は言う。
「先生は最初から殺される側なんだ。おもろ。でもそれも一理ありますね」
ナイスご意見! なんて親指を立てられる。
本当にどうでもいい話ばかり。くだらなくて笑っちまうようなやつ。
もし、明日からご飯一種類しか食べられないなら何にしますか。もし、お金がない世界になったらどうなると思いますか。そんな話ばかりして無邪気に笑っているはずだった。
木村日和が学校を休み始めたのはまだ本格的な夏がくる前、初夏の季節。彼女は高校二年生だった。
学校での人間関係や生活態度は見た目には良好。仲良しの友達たちも何故突然休み始めたのかを知らず心配して様子を尋ねてくる生徒も多かった。
家庭訪問に行っても本人には会えない。母親が申し訳なさそうな顔をして「今はおかえりいただけませんか」と追い返す日々が続いた。
家庭に問題があるのかと思ったけど、これまでの面談や一年からの引き継ぎにはそのような情報はなかった。
何度電話をしても、話を聞きにいっても「デリケートなことでして……」と誤魔化される。
それでも何度も頭を下げてようやく聞き出した。
彼女の日常を変えてしまったのはバイト先での強姦の被害だった。
相手はバイト先の店長。客も他の従業員もいない店のバックヤードで無理矢理行為に及んだ。彼女は恐怖で声を上げることもできず、そのまま身体を傷つけられた。
茫然自失のまま家に帰った彼女はそんなことをすぐ親に相談できるわけもなく、いつものようにご飯を食べ、お風呂に入り、ベッドに潜った。きっとその夜は眠れなかったことだろう。
翌朝彼女の異変に気づいた母親が事情を聞き出し、病院へ行ったことで事態は明るみになった。
担任である俺に不登校の理由がすぐ言えなかったのも、男性教師であることや学校で噂が広がらないようにといった親御さんの配慮だった。
しかし、本当の地獄はそこからだった。
取り調べでは彼女が行為に強い拒絶を示さなかったことが注目された。
彼女はあの日恐怖でほとんど抵抗できず、声を上げることすらままならなかった。それは一部の検察官に「同意があった、またはそう加害者に勘違いさせる要因があった」という判断をさせることに繋がってしまった。
彼女の事件後の行動も取り調べでは糾弾の対象となった。
その日、お風呂に入ってしまったせいで加害者のDNAが取れなかったのだ。彼女はただ、混乱の中でそれでも日常を遂行しよう、心を落ち着かせよう、気持ち悪い、早く洗い流したい、その一心でシャワーを浴びただけだった。
その行動は「挿入があった事実をでっちあげている」だの「お風呂に入るくらい、翌日まで黙っていたくらい、その行為に大して深刻なショックを受けていなかったのでは?」だのという鋭利なナイフとなって彼女を攻撃した。
結果として、客観的な証拠不十分で犯人のバイト先店長は不起訴となった。
そんなことがあっていいのかと両親も、もちろん俺も憤りを感じたが、もう全部終わりにしたい、裁判には立てないと泣く彼女を前にしてそれ以上戦うことはできなかった。
引きこもる彼女の話を聞いて、あぁ、俺が女だったら今の彼女に寄り添うことができただろうかと思った。
その苦しみを少しでも和らげることができただろうかと苦しかった。何度か手紙を書いた。大したことは書けなかったけれど、学校のこと、友達のこと、行事のこと、数学準備室で彼女がしていたみたいなくだらない話。何度も、何度もやり取りした。
彼女にとっての家族以外の外との繋がりを守りたかった。奪われていいわけがない。せめてものことをしたかった。
最初は返事が返ってこなくて、それで全然かまわなかった。一カ月くらいした頃から手紙が返ってくるようになった。手紙の中の彼女はどこか〝いつもの彼女〟に近いような気がした。
少しした頃、手紙に会いにいってもいいですかという文字が並んでいた。
いつでも来ていいと返した。放課後でもいい。心配だったら保健室で保健の先生と同伴だっていいと書いて送った。
数日後、彼女は数学準備室に姿を表した。
「先生久しぶり」
生気が薄れたその顔を見ると胸に苦いものが広がった。
雑談をした。
今までしていたみたいな。
手紙で何度もしたみたいな。
「先生、〝法の力を借りず己自身の手にて制裁を与えよ〟って言葉知ってますか」
彼女が言う。
「いや? 初めて聞いた言葉だ」
そう返すと彼女は嬉しそうに説明する。
「本当? これ、学校休んでる間に偶然知ったんです。イソップの名言なんだって」
「物騒な名言だな」
「でもこれ見た瞬間思ったんです。いい子で生きてたら法律に守ってもらえると思ってた私がバカだったんだぁって」
そんなことない。そんなことないよ、と言おうとして、その言葉がどれだけ無力かを口に出す前に思い知ってしまった。
その言葉に行き着いてしまった彼女の検索履歴に想いを馳せる。救いを求めたその先で「自分が愚かだった」と己を納得させるなんてことがあっていいわけがなかった。
それなのになんの慰めの言葉も出てこないまま、俺は黙った。何を言ってあげたらいいのか、何を言ったら傷つけてしまうのか、何もわからなかった。
ふと顔を上げると彼女の頬に涙が伝うのが見えた。
せっかく会いに来てくれたのに、いつでも顔を見せてほしいと言ったのは自分なのに、いまこの瞬間すら彼女を傷つけ続けているような気がして怖くて何も言えなかった。
「ごめんなさい、もう今日は帰ります」
涙を急いで拭うと彼女は立ち上がった。
「藤波先生、ありがとう」
彼女が亡くなったのは次の日だった。自殺だった。
葬儀の日、親御さんに呼び止められた。
「先生のことも書いてあったんです。よかったら読んでやってください」
それは内密に内密に、関係者のみに公開された木村日和の遺書だった。
家族への感謝、友達への感謝、生まれてきて本当に幸せだったこと。彼女の言葉は彼女が周りに与えてきた幸せをなぞるように感謝に溢れていた。
けれど決してそれだけではなかった。
私に酷いことをして、それなのに野放しになっているあの人が憎い。人じゃないと思う。私から多くの物を奪って、あの人が失ったものってなんだろう。
この世には「法の力を借りず己自身の手にて制裁を与えよ」という言葉がある。
法律が私を守ってくれないんなら、私が自分で殺しにいこうと何度も思った。でも、できない。こんなに憎いのに怖い。あの人のことが怖くて、男の人のことが怖くて、元の自分にはもう一生戻ることができないのが怖い。
わかっているのに乗り越えられない自分が情けない。
藤波先生からたくさん手紙をもらえて嬉しかった。気にかけてくれてありがとうございました。何度も何度も連絡してくれて、話を聞こうとしてくれて、会いたいと思った。
それなのに私、数学準備室にいた時、怖くてたまらなかった。そんな自分が許せなかった。
遺書の最後はもう一度周囲の人間への感謝で締めくくられていた。
遺書を読んだ時、何かを自分が大きく間違えたことに気づいた。何が間違いでどうしたらよかったのかなんてわからない。それでも自分はたしかに彼女を死へと追いやる最後のスイッチを押してしまったような気がした。
どうしたらよかった。
もっと慎重に会えばよかった。
どうしたらよかった。
女性をちゃんと呼んでおくべきだった。
どうしたらよかった。
手紙なんて何度も男性教師から送るべきじゃなかったかもしれない。
どうしたらよかった。
どうしたらよかった。
どうしたらよかった。
もう、教師を続けることはできなかった。
退職してからは教師時代からバイト感覚で教育系の記事を書いていた薫陶の綿貫の世話になった。彼が気にかけてくれたおかげで、なんとか死なずにやってこれた。
あんぱんの先輩である東堂も副業として書いていた頃から知っていた。女性だったこともあり、木村日和が亡くなる前から当時はよく相談に乗ってくれていた。
本格的に薫陶で教育誌のライターにならないかと誘われた時は半ばパニックになって断った。
「教育についてなんて俺が書けるわけないじゃないですか。人殺しですよ」
「落ち着いて。君は人殺しじゃない」
「あの子を死に追いやったんだ。一緒ですよ」
半狂乱になって編集部を飛び出した。その会話を誰がどれだけ聞いていたかなんて気にかける余裕はなかった。教育のことなんて書けるわけない。教員でいることからも逃げた。それと向き合うことからも逃げ続けた。
毎年、木村日和の命日に花を贈る。でも、それすら遺族を苦しめるのではないかと思うと自分の名前では送れなかった。東堂に話を通し、薫陶社の名前で送り続けた。
それくらいしか、できなかった。
***
「手紙を見た瞬間、あぁ、あの時の関係者だって思ったよ」
話を聞き終えたあんぱんは神妙な面持ちで首を縦に振る。
「だから、イソップの言葉もことも知ってたんですね」
「あぁ。同時に宮島結愛の事件にもきっと押し潰された何かがあると思った」
だから、この依頼を断ることができなかった。
また誰かを救えないんじゃないかと思うと恐ろしかったが、彼女の手を離したらまた同じことが起こると思うとその方がよっぽど怖かった。
「FAXを送ってきた人も同じ人でしょうか」
「だろうな。まぁ、おおよそ検討はついてる」
「話を聞きにいきましょうか!」
「たりめーだ」
会社を出る準備のために編集部を通ると綿貫がいつもの狸顔でにんまりと笑っているのが見えた。なんでもお見通しってことか。喰えないジジイである。
「あ、藤波さん昨日めちゃくちゃお酒飲んでませーん?」
「あ? なんでわかった?」
「え、めっちゃ酒臭いですよ普通に」
あんぱんは生意気にも本当に楽しそうに笑う。
「藤波さんって意外と弱いとこあるんですね!」
「悪いかよ」
「いいえ、その弱さと優しさが誰かを救うかもしれないですよね!」
その笑顔がどこか木村日和と重なる気がして、あぁ、彼女ももしかしたらこうだったかもしれないと込み上げるものをグッと抑える。
「やかましいわ。あんぱん、さっさといくぞ」
「はい! 二人で宮島結愛を救いましょう!」
続く
