【#創作大賞2024】いなくなったきみへ第七話
いなくなったきみへ
前回
六.傲慢(6-1)
ぼんやりと青白い夜の光が陶器のような彼女の背中を照らしていた。
さっきまで泣いていた。俺にはこの人の涙の止め方がよくわからない。でも、こんなに細くて折れそうなこの人が何か凄く重たいものを一生懸命持っているなら、どうにかして一緒に持ってあげたいと思う。その身体を抱きしめてあげたいと思う。その泣き疲れた顔に触れるようなキスを落としてやりたいと思う。
全てを拒絶するように横たわる背中にゆっくりと手を伸ばす。ひんやりとした肌だった。
この掌の温度が伝わってほしくて。あなたがいつか無防備に眠れるようにと願いながら目を閉じる。
耳の奥でさっきまで響いていた嬌声を呼び起こす。
汗ばんだ手を握りあい、肌と肌を吸い合わせて。しっとりとした体温が混じり合っていく。息遣いが荒くなって、どんどん滑稽に、みっともない姿になって。額に髪が張りついて、綺麗な顔が歪む。どんな顔をしようと、どんな声をあげようと愛おしさが溢れてくる。彼女はこんなに素直に俺を受け入れてくれる。好きだ。どうしようもなくこの人が好きだ。
でも、俺は知っている。
たとえ、0.01mmの距離までその身体を許しても、古河律子は俺のものにはなってくれない。
***(6-2)
全然仲良くなれない人だと思っていた。
静かだし。可愛いけど、なんか騎士に守られた姫って感じ。仲良くなれるならなりたいとは思いますけど、あっちは俺と仲良くなりたいとは全然思ってない。まず、自分から仲良くなりたいって声かけるとかしたことないんだろう。本人は言うよ? そういうの得意じゃないからって。でも、違う。なんもしなくても勝手に寄ってくるから。
だから、せっかく同じサークルにいるけどそんなに仲良くなれないだろうなとずっと思っていた。
初めて二人きりで会話したのは雨の日だった。
いつも通り部室に入り浸っていたら彼女が来た。俺のことは大して気に留めず、
「寒すぎて帰る気なくなっちゃった」
と話しかけるでもなく呟いた。
もう秋もだいぶ深まって、服装にだいぶ迷う時期だ。
「律子さん、薄着ですもんね」
「朝、練馬を出た時は暑かったんだよ」
「え、練馬ってそんな名古屋とか熊谷みたいな扱いなんすか」
その後は二人ともしばらく黙っていた。
俺は部室に据え置きのゲームをやり続け、彼女は静かに雨を眺めた。
部室には他に誰が来ることもなかった。雨だからむしろみんなまっすぐ帰ったのだろう。ほんの気まぐれで声をかけてみる。
「やります? ゲーム」
少し間が空いて
「やるわ」
それから時々一緒にゲームをするようになった。
女の子なのに意外と上手くてちゃんと盛り上がった。結構やるのかと訊くと
「中高と根暗ゲームオタクだったんよね」
と言っていた。意外だ。
それから少しずつだった。彼女が俺と話してくれるようになったのは。
***(6-3)
「っていうわけでさぁ。遊びいくことになったんすよねぇ。どう思います?東海林さぁん」
バンドの練習終わりの飲み会で男の先輩たちに惚気といえなくもない浮かれた相談をする。いっちゃえよ待ちのやつ。押して〜、背中押して〜ってやつ。
「っつーか、律子って芳賀と付き合ってんじゃないの?」
「いやあれは夏前に終わってたっしょ」
「俺ら黙って見守ってたのになぁ」
「え、じゃあれから彼氏なし?長くね?」
「いやいや!笹原さんとなんかあったじゃん」
「いやぁ、あれはさぁ」
古河律子を巡って同期である彼らは言いたい放題だ。今日のバンドは彼女がメンバーにいないから日頃言えない噂話も言い放題である。
「笹原さんと古河って結局付き合ってたん?」
「わからん。誰もつっこめん」
「律子からとか。芳賀から乗り換え的な」
「え、でもあれってさ」
「あれは。無理矢理でしょ」
そう強い言葉で断言したのは川島夏希というその場で唯一の女の先輩だった。
「あれは律子じゃなくて、笹原さんでしょ」
「えー、じゃあ今は律子さん笹原さんと切れてるんですかね」
「切れてると思うけど……。宮野、あんた律子はやめな〜」
夏希は鬱陶しそうな顔で手をひらひらとふる。余計なお世話である。でも、年上女子の貴重なご意見でもある。
「なんでそんなこというんですか夏希さん。俺を応援して、アドバイスしましょうよ」
一方的に夏希に軽く乾杯して手元のレモンサワーのグラスを空ける。それを見て夏希もハイボールを一気に飲み干して冷めた口調言った。
「宮野はね、優しいからやめな。あれは究極のお姫様だから」
「そうですか。わがままって感じしないですけど」
いつも接している彼女のイメージはむしろ謙虚で控えめだ。人の顔色を見て、他の人の意見にそれとなく合わせる。
夏希はそうは思わないらしい。
「いやぁ、あれは頑固だね。私、自分の意見なんてないですって顔して誰かが自分の思い通りにしてくれるって思ってる」
夏希がハイボールを二杯オーダーする。先輩だからって、俺の酒、勝手に頼みやがった。溜息をつき、呆れた顔で夏希は言い放つ。
「でも、律子は満足しないからね。あれは穴の空いたバケツと一緒だから」
「えー、俺そんな恋愛に振り回されるタイプじゃないすけどね」
女同士だと何か見えるものがあるんだろうか。俺にはその時はまだわからないことだった。
宮野〜、気をつけろよ〜、ボロボロにされるよ。
夏希の不穏な呪いを振り払うように席に届いたハイボールを煽った。
***(6-4)
その日、彼女は震えていた。
華奢な肩が緊張を羽織って、潤んだ瞳で俺に問いかける。
どうするの?って。
だから俺は応えたいと思った。どっちにしてもこの人の欲しいものをあげたいと思った。
春から住んでもうとっくに慣れた部屋に慣れない彼女がそこだけ空気が違うみたいに鮮やかに存在している。小さな花柄が散ったふんわりとしたワンピースが何か背徳的な興奮を煽る。
彼女の肩にそっと触れる。小さく震えていた。血がドクドク巡る熱い掌が彼女を怯えさせないよう、細心の注意を払って愛撫する。
「俺、律子さんが好きだよ」
「うん」
「律子さんは?」
ずっと、光って揺れていた大きな瞳からボロッと涙が溢れる。踏み込みすぎたかと焦って距離を離そうとすると、身体に触れた手の上に包み込むように彼女の掌が乗る。違うの、違うの、という涙の合間の言葉を一粒も聞き漏らさないよう耳を澄ます。
「わかんない、わかんないの……」
ごめん……。小さな、小さな声だった。
ごめん、の意味を委ねられてしまった。今ならまだなかったことにしてもいいよ、と。でも、重ねられた弱い掌が離さないでと言っている気がして俺は彼女に告げた。
「まだわかんなくていいから。そのまんまでいいから俺ら付き合ってみましょう?」
ゆっくりと身体を引き寄せ抱きしめる。硬直していた身体が力を緩め、体重をかけてくるのを感じた。
「ねぇ、律子さん。律子って呼んでもいい?」
肩口に顔を寄せた彼女は艶やかな声で「ありがとう、宮野」と俺に応えた。
それから沢山の時間を重ねた。
想像よりも律子の気持ちと向き合うのは根気強い積み重ねの連続だった。
二人でいたら勿論楽しい。ゲームも盛り上がるし、美味しいものを食べに行くのもデートらしくて嬉しかった。
でも、楽しい日と同じくらい律子の調子が悪い日が多かった。
宮野、ごめん。どうしても行けない。埋め合わせさせて。
そんな言葉を何度も聞いた。気持ちに余裕がなくて。母が家を出してくれる雰囲気じゃなくて。律子の言葉が嘘じゃないということはわかっている。
「大丈夫? 行こうか?」と言うと律子はいつも「実家だから」「お母さんにバレるから」と俺を遠ざけた。
そんな言葉無視して会いに行けばよかったのかもしれないと今なら思える。そうできなかったのは律子から三年の笹原さんの話を聞いていたからというのもあった。
先輩後輩の立場で迫られて何も言えなかった。悪い人じゃないのはわかってるし、もしかしたら好きになれるかもと思うと断れなくて二人で会うようになった。上背もあるし、段階を踏んだから当たり前、みたいな空気で押し倒されて本当にびっくりした。自分の気持ちが置き去りのまま触られていることが怖くて、気持ち悪くて。その時は未遂で終わったけど今も思い出すの。怖かった。
時間をかけて聞いた。聞いたからこそゆっくり進めたかった。律子が今日会うのが難しいなら会える時までのんびり構えていようと思った。
手を繋いで、キスをして、ただくっついて寝てみたりした。指を絡めて、10cmの距離で見つめ合う。
「宮野、全部宮野にしてよ。上書きして」
だから、俺は俺なりに正解がわからないまま丁寧に律子を抱いた。
全部わからなくなりたい。痛みを一つ残らず快楽で麻痺させたい。汗が肌を伝いぱたぱたと律子の肌に落ちる。寝具が気持ち悪く濡れていくのさえ気にならなかった。間接照明に照らされた美しい身体が自分だけに許されていることに堪らなく興奮した。清楚で純粋なあの笑顔が自分の下で思うように乱れていく。出会った頃はまだ短かった黒髪が控えめな胸の周りで情欲的に揺れている。
何度もそうやって小さなワンルームで律子を抱いた。
だけど、何度身体を重ねても律子の心がここにないことを知っていた。
どこにもないのだ。律子の気持ちが。
ドタキャンも、押し黙って涙が出てしまう日も、家庭の事情も受け入れられた。申し訳ないと言う律子を全て許した。焦らせず、でも、その内自分の気持ちで自分のことを選べるようになればいいと思った。そうやって一緒に変わっていけばいいと思った。
律子はよく聞く。
「宮野、私のこと好き?」
「私の何を好きになるの?」
だから、律子が律子を好きになれるように毎回答えた。律子も不安だったのかもしれないけど、俺だって不安だった。これって付き合ってるっていうのかな。律子は俺のこと今も「わからない」まま? 噛み合ってるのか、噛み合ってないのか考えることもままならず時間が過ぎていく。それでも、どこかにゴールがあると信じて律子と過ごそうと思った。
ある夜、そのまま眠るのかと思ったら律子が身体を起こした。
「宮野」
カーテンの隙間から差し込む街灯が律子の素肌を照らした。
見下ろされた姿勢のまま律子の言葉を待つ。
「宮野、私のこと大事?」
「大事だよ。好きだよ」
「じゃあなんで!」
声を荒げて、そんなことをした自分にハッとして、そして瞳が揺らぐ。そういう風に見えた。
「もうやめたい……」
そう小さく呟くと散らばった服を身につけ律子は立ち上がった。
引き留めなきゃと頭では思っているのに言葉がついていかない。話を聞かなきゃと思うのにもう何を聞いたらいいのかわからない。
「もう、終電ない……」
口をついて出た言葉はこんなまぬけな、馬鹿みたいな台詞だった。
「タクシーで帰る」
その声を聴いた時、俺らの間に横たわる何かが終わったんだとわかった。
律子が好きだった。違う。ちゃんと愛していた。大学生の薄っぺらい恋だったかもしれないけれど、それでも律子がちょっとでもいい方向を向けたらと思って愛を注いだ。
穴の空いたバケツと一緒だから。
夏希の言葉を思い出す。
じゃあなんで、の続きがわからなくて眠れない日が続いた。律子の体温も体重もベッドから消えて、ただただ心臓が抉られたみたいに悲しかった。
それまで色んな恋をしたはずだったけど、それまでの恋なんか恋じゃなかったみたいに痛かった。
俺の人生の初恋は今も古河律子の形をしている。
続く
