シャボン玉を、まだ流したくなくて

シャボン玉指のまるから生まれたる虹をながめてきみは「あわあわ」
3歳の娘は、シャボン玉が好き。
公園で空に飛ばす、あのふわふわしたシャボン玉はもちろん、
最近の娘が夢中になっているのは、もっと身近で。
手を洗うとき、自分の指でまるをつくって、そこにうすい膜が張る、その一瞬。
「できた」
そう言って、洗面台の前で目をきらきらさせる。
指先に生まれた、透明なまる。
光の加減で、虹色にも銀色にも見えるその膜を、娘は飽きもせず見つめている。
けれど、そこからが長い。
手を洗っているはずなのに、その“できた”がうれしくて、なかなか流そうとしない。
こちらは「はい、もう流そうね」と声をかけるのだけれど、本人はまだ終わらない。
だって今、指の先には、小さな奇跡ができているのだから。
「あわあわ〜」
その言い方がまた、たまらなく愛おしい。
泡を見ているというより、泡と遊んでいるような声。
ことばを話しているというより、うれしさそのものが、音になってこぼれているみたいな声だ。
大人にとって手を洗うことは、ただ清潔にするための動作になりやすい。
急いで、きれいに、さっと済ませるもの。
けれど娘にとっては、その時間のなかにもちゃんと発見がある。
指でまるをつくれば膜ができること。
そこに光がのること。
すぐ消えてしまうものほど、じっと見たくなること。
娘は、そういうことを、誰に教わるでもなく知っている。
洗面台の前で立ち止まりながら、私はふと思う。
子どもはきっと、世界を「役に立つかどうか」で見ていない。
きれいだとか、おもしろいとか、いま見たいとか、ただそれだけでちゃんと立ち止まれる。
すぐに消えてしまうものに心を奪われること。
なくなる前の一瞬を、こんなにも大事そうに見つめること。
それは、シャボン玉が好きというより、
この世界にまだ何度でも驚ける、ということなのかもしれない。
指の先の、小さな膜。
流してしまえば、それで終わる。
けれどその前に、娘はちゃんと足を止めて、「見て」と教えてくれる。
ああ、こういう時間を、宝物っていうのだろうな。
空へ飛ばすシャボン玉もいいけれど、
洗面台で生まれる、小さな小さなシャボン玉もまた、
たしかに今日のしあわせで。
娘は今日も、指でまるをつくって、
うれしそうに「あわあわ〜」と言う。
その声を聞くたび、
世界はまだ、こんなにやわらかいのだと思う。
喜木 拝
#シロクマ文芸部 のお題で綴りました。
短歌に挑戦してみましたが、なかなか難しいですね。
3歳の娘が手を洗うたびに、楽しそうに「あわあわ」しているのが羨ましくて。ここまでお読みいただき、ありがとうございます💖

いいなと思ったら応援しよう!
サポート頂けると飛んで喜びます!
本を買う代金に充てさせて頂きますね〜
感謝の気持ちいっぱいです!!