掌編小説 │ 酸いも甘いもさじかげん
家族が増えたら、不安が消えると信じていた。でも間違いだった。
家族が増えるごとに、胸の苦しさが増した。ふとした瞬間、薄氷の上を歩いているような、張りつめた気持ちが襲ってくる。
1つ年上の夫からプロポーズされたのは、18のときだった。
場所は地元の海。ヒトデや貝殻がたくさん落ちている、ロマンチックさのかけらもない漁港。磯の匂いの中でBGMはうみねこの鳴き声。
進学について悩んでいた私に、付き合おうとか、好きだとか、そういうのをすべてすっ飛ばして「高校出たら、俺と結婚しろよ」と彼は言った。
地元で一番の進学校に通い、そこでもトップの成績を取っていた私が進学をやめた。狭い田舎町ではちょっとしたニュースになった。
「どうして学歴もない、あんな男と! それもこんなに早く結婚するなんて、親不孝者が!」と、掠れた声でいう父の顔は真っ赤だった。
母は「私たちが近所の人になんて言われると思う? 恥ずかしいと思わないの」と肩を震わせた。
「私が勉強をしていたのは、ほかにやることがなかったからだよ」
両親が真っ赤な顔で口を開けたまま、黙った。なんのことかわからないといった感じだった。
「遊びに行かせてくれなかった。テレビも見せてくれなかった。ほかにやることがなかったから、勉強するしかなかったんだもの」
先生、両親、友だち、いろんな人に説得された。
それを断り、疎遠になり、祝福はされず、それまでこつこつ積み上げてきた勉強をすべて放り出す代わりに、私は自由と愛を勝ち取ったのだ。
29歳になった今、4人の子と暮らしている。上の子は10歳。
決して裕福ではないし、毎日がせわしないけれど、家のなかはいつもにぎやかだ。
でも、子どもたちが全員眠り、夫が帰ってくるのをリビングで待つときなど、ふと、怖くて、泣き出したくなることがある。
夫が事故にあったらどうしよう。
子どもたちが帰り道に誘拐されたら?
学校でいじめにあったら……?
家族を失うことや家族が傷つけられることが100%ないとは言い切れない。未来の不安を考えると、胸がぎゅっと締めつけられるような感覚に息苦しささえ覚えるのだった。
ただ、こういうものはホルモンバランスの変化でやってくる不安のようだ、と最近ようやくわかってきた。「自分が自分じゃないような感覚(強すぎる怒り、不安、悲しさなど)」に気づくことさえできれば、あとはなんとかなるのだ。
まずはコップ一杯の飲みものをゆっくり飲んで、気を落ち着かせる。
うーん、と大きく伸びをする。
それからきゅうりを取り出した。野菜室の中で、保存袋と新聞紙にぬくぬくくるまったきゅうり。この間まではそのまま入れていたけれど、小学校で地域のひとと農業をする時間があった息子が「きゅうりって冷蔵庫に入れたらだめなんだよ」と言った。
調べてみるとどうやら、低温障害というものになってしまうらしい。子どもに教えられることって、たくさんある。
新鮮な、まだ白いいぼが棘のようにちくちくするきゅうりの表面を、包丁の背でそっとこすりおとす。ていねいに下ごしらえをしてゆく。
それから、左手を猫の手のかたちにして、トン、トン、と薄切りに。透けるくらい薄く切れると、なんだかうれしい。塩を振って、しんなりさせる。小さなガラスのボウルに水を張ってわかめを入れる。
手を洗ってから、子ども部屋をこっそり覗きに行った。
みんなすやすやとねむっている。一人ひとりにふとんをかけ直す。
たいてい、これだけで少し気持ちが落ちつく。
些細な、おまじないのような儀式だ。でも、この傾向に気づけたことで人生は大きく変わったと思う。
理由のわからない不安のせいで、攻撃的になったり、悲観的になったりしたことがある。
あるいは、何もしたくなくなって、子どもたちの大量の洗濯ものを溜めてしまったり、洗い物を後回しにしたりして、少しずつ家事のリズムがずれる。
すると、少しずついろいろなものが狂っていく。
不安レベルに異常を感じたときは「今はそういう時期なのだ」と自分に言い聞かせ、負の感情を恥じることなく受け入れるようにした。
今日もまさに、そういう気持ちに襲われていた。 きっかけはテレビのニュース。息子と同い年の子どもが、痛ましい事件に巻き込まれていたのだ。
短いニュースが終わるころには鼻の奥がつんと熱くなり、形の分からない不安で胸がいっぱいになっていた。
昔、母親がニュースを見て泣いている姿を見て不思議に思っていたけれど、子どもが生まれてから、私もやはりこうしたニュースに敏感になった。
それまでは遠い世界のことにしか思えなかったのに。
うちの酢のものは、ちょっと甘い。
ごま油にすし酢、醤油、砂糖。それからお水を入れて薄味で甘めに。長男が幼稚園のとき、給食で好きになった酢の物を、どうにか再現しようと試行錯誤を重ねたらこの味になった。
水気をぎゅうっと絞ったきゅうりとわかめは小さくなった。最後にちりめんを入れて、調味料で和える。そのまま箸で口に放り込んだ。ポリポリしゃっきりと口の中が爽やかになる。みずみずしさが広がる。
まだ味はぜんぜん染みていない。でも、おいしくできる予感。
家族が増えれば増えるほど、不安がどんどん増えていく。今の私は、自分だけじゃなく、5人分の不安を抱えて生きている。 でも、不安だけじゃない。同じように幸せなきもちももらっているのだ。
あとは幸せと不安のバランスが壊れないように、さじかげんを調節する。それだけでいい。酸いも甘いも、私しだいなのだから。
▼この小説は『√365』の一部です。どのはなしから読んでも大丈夫な短編集ですが、序章と終章を読むとすべてがつながります。
▼先週更新したのはこれ。
▼全5話の「恋が叶うサロン アンシャンテ」シリーズ
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