まいにち魔女
「だから、ほんとだって」
沙希は眉を潜めた。
ブラインド越しの真っ白な空に、淡いグレーの羽毛みたいな雲が、ざ、ざ、と流れていく。
風の強い日だ。テラスよりも向こう側で、葉がすべて落ちた木の細い幹が、メトロノームみたいに揺れていた。
「恋が叶うサロン」
目の前の一人掛けソファふたつに、それぞれゆったり腰かけたふたりの女子高生は、きゃらきゃら笑いながら恋のはなしをしている。
沙希は、読みかけの本に栞を挟んでテーブルの端に置くと、ふっと息を吐いた。
カウンターでパソコンをする人、スマホを見ながらぼんやりジュースを飲む人、友人同士で語らっているものの、木の葉擦れのようなささやかな声の人たち。
そんな中で、彼女たちふたりはとても目立っていた。
トラベラーリッドのつまみを引く。
紙コップを覆うこのプラスチック製の蓋には、飲み口の穴が開いているのだけれど、沙希はこれが苦手だった。
口元に近づけた瞬間、ぶわりと熱い湯気が立ち昇ってくる。慎重に冷ましながら飲んだつもりだけれど、案の定、舌をやけどして、蓋ごとはずした。
最近、なにもかもうまくいかない。
ガラスに映った自分の姿を見て、視線を落とす。ううん、きっと、ずっと前からそうなのだ。
ああ、気をつけていたのに、見てしまった。
日焼け止めと色付きリップを塗っただけの、もったりとした色白の冴えない女。
それが自分であることがつらい。真っ黒な髪の毛は重たくて、ごわごわしている。
わかっているからこそ、沙希は鏡を見るのがきらいだ。
数日前、コンビニでお酒を買った。
店員は自分よりずっと若そうな、大学生くらいの青年。
ほっそりした輪郭に、ころんと丸いシルエットの髪型が似合っている。
彼は沙希の顔とお酒を交互に見比べると、眉根を寄せて「年齢のわかるものを出していただけますか」と言った。
沙希は固まった。
「え」
「皆さんにお願いしています」
渋々財布のなかから免許証を出す。顔を上げずに渡す。
「……は」
店員の声が漏れた。
「た、たいへん失礼いたしました」
引きつった笑顔で言いながら、彼はお酒のバーコードを読み取った。
「Lenaさんに髪を切ってもらったら、彼氏できたの」
沙希は顔を上げずに、ちびちびと砂糖をたっぷり入れたコーヒーを口に運んだ。
蓋を開けてしまえば、ちょうどいい温度なのだからふしぎだ。
彼女たちの顔は見えないけれど、つやつやした茶色のローファーの、爪先だけをちょんと床につけているのが、視界の端に映る。ほっそりしたみずみずしい手の甲が髪の毛を持ち上げた。
「水野さんって、めっちゃ若いですよね」
同僚ににこにこしながら言われて、沙希は手を止める。
「地味なだけでしょー」
ふたりの後ろには、職場の”おつぼね”である田中が立っていた。
ベリーショートの髪の毛は、くるくると強いパーマを当ててある。
肌は不自然なほど白く塗られ、青みのある派手なピンクのリップが貼り付けたように目立っていた。
「水野さんって、お化粧しないんだもの。ただそれだけのことよ。あとは髪。髪がよくないの。真っ黒でもいいけど、……ねえ?」
田中は口元に手を当てて、目を三日月型にゆがめた。
「水野さんの髪の毛、綺麗ですけどね。少女らしい瑞々しさを残したままの大人の女性って素敵ですよ」
「小西課長」
突然割って入った上司を見て、田中の顔が引き攣る。
「違う髪型も見てみたい気はします。林さんみたいな巻き髪も素敵ですよね」
同僚は満更でもなさそうに微笑む。
「それに田中さん、ショートが似合うのは美人の証拠ですよ」
「まあ」
田中は頬に手を当てた。
女子高生たちが話していたサロン「Enchante」は、ネットですぐに見つかった。
【鏡を見るたびに、ときめく自分へ】
ヘアサロン Enchante
「似合う」を超えて、「なりたい私」へ。
”Enchante”は、フランス語で「魅了される」という意味です。
オーナースタイリストのLenaが、あなたの骨格・肌色・顔立ちから、一人ひとりに合わせたフルオーダーのスタイルを提案。髪型だけではなく、メイクやファッションをアドバイスするオプションもございます。
鏡を見るたびにときめく。
そんな毎日を、あなたに。
予約は、2週間先まで埋まっている。
けれども、女子高生たちのはなしが気になって、スタイリストのプロフィールに目を通してみた。
オーナースタイリストLenaという女性の写真も掲載されていた。
年齢不詳な感じだ。
沙希よりは少し年上に見える。
鼻すじが通り、細い眉はきりりとまっすぐ上向きに伸びている。目は一重なのだけれど、厚ぼったくなくて、すっきりとした切れ長。綺麗な人だ。
口コミを開いてみる。
心配性の沙希は、とにかくなるべく間違いが少ない選択を選びたいという考え癖があった。
口コミはほとんどすべてが5。
Lenaさんに髪を切ってもらってから、すぐに彼氏ができました。
そんなコメントが目立つ。
「場所は…… アリカンテ通りの、路地裏か。駅からちょっと歩くけど中心地だ」
ストリートビューで駅からのルートを見る。せっかくだからこの店に寄って、それから……。
画面上でたどり着いたのは、グレーを基調としたスタイリッシュな外観の店だった。
店の半分ほどがガラス張り。黒い窓枠がアクセントになっている。
店の周りには、黒くて四角い鉢に入った植物が置かれている。アガベ、ウエストリンギア、ニューサイラン……。オージープランツばかり。
好きだなと思いながら、自室をぐるりと眺めてみた。
大学生のころからずっと住んでいるこの部屋は、南向きの日当たりの良い部屋で、観葉植物をたくさん育てていた。
昼間は燦々と光を浴びていた植物たちも、いまは間接照明のしっとりとした柔らかい光につやめいている。
夕飯はヘルシーな蒸し料理にした。
クッキングシートに、芹と春菊としめじ、鮭、ゆずの皮を包んで蒸しあげたものがメイン。
炊き込みごはんはひじきと人参、油揚げ。
味噌汁は、薄く切ったじゃがいもと、細く切って冷凍してあった豚肉、わかめ。余っていた卵の白身を最後に入れたら、ふわっと花が咲いたみたいになった。
休日は、誰にもじゃまされずに、心ゆくまで本を読むことができる。
幸せなはずだった。
けれども、こころにぽっかりと穴があいたような寂しさが、時折やってくる。
友人はみんな都会へ行ってしまった。
これまで男性とお付き合いしたこともない。
自分はあまり美人ではないのだと気がついて落ち込んだのはいつだったか。──いまはもう、諦めている。
それでいて、ひとりぽつんと、時が止まったみたいにここにいるのが苦しくなるときもある。
誰かと本の感想をはなしたい。
焼いたお菓子はいつも余って、食べすぎてどんどんふくふくとしてきた気もする。
音のない部屋が寂しい。
変わりたい。
誰かと一緒に生きていきたい。
そう思いながら、もう一度予約状況を確認する。
「あ」
明日の夕方が、空いた。
すこし迷ったけれど、手のほうが先に動いていた。
翌日の夕方に、沙希はアンシャンテのフルオーダーコースを申し込んだ。
「私でも、変われますか?」
震える声で沙希は尋ねた。
鏡のなかの自分は、ちっとも美人じゃなかった。
明るい店の中で、こんなにも大きな姿見に自分が映ること。それがきらいで、美容院は苦手だった。
自分とは違う、垢抜けた人たちに話しかけられても、どうせ自分なんかと思って目を見られなかった。
雑誌に目を落として、ひたすら時間が過ぎるのを待った。
そうやって過ごしてきた。けれども、沙希はまっすぐに彼女を見つめた。
「もちろん」
Lenaは即答した。そうして、自信たっぷりな感じで微笑んだ。
カラフルな布を顔周りに当てたり、腕や鎖骨周りに触れたりしながら、Lenaはメモを取っていく。
その傍らで「雑誌は読む?」「こんな雰囲気や色は無理というのはある?」などと、質問を重ねていく。
ひと通り診断が終わると、鏡のないスペースで、カットとメイクがはじまる。
「準備はいい? じゃあ、振り向いて」
Lenaに言われて振り向くと、鏡の中には知らない人がたっていた。
重たくて真っ黒だった髪の毛は、ココアブラウンというのだろうか、赤みのある柔らかい茶色に変わっている。
肩より上でカットされていて、この長さははじめてなのだけれど、軽くてふんわりしていて、違和感がない。
そしてメイク。すごく濃いわけじゃなくて、透明感があった。ふしぎなことに、顔立ちそのものが変わってしまったかのように、目は大きく、くちびるはふっくらしている。
「すごい……」
沙希はLenaのほうに振り返った。
「じゃあ、練習しましょ」
「え?」
「だって、1度だけだったら魔法じゃない。そうじゃないのよ。日常にするの。自分でこの顔を作れるようにするの」
「もしかしてメイクって、抵抗あった?」
Lenaが尋ねた。
鏡のなかの沙希は、魔法が解けて、元通りのぼんやりした顔に戻っている。
沙希は迷ったけれど、うなずいた。
沙希は、父に先立たれた母に、女手一つで育てられた。母は結婚しても出産しても仕事を辞めずにいたから、女性でありながらもどんどん出世していった。
いつも、パリッとしたスーツを着て、赤というほど濃くはないけれど薄くもない、絶妙な色のリップを塗っていた。
くちびるをひらいたり閉じたりして、馴染ませている鏡越しの母の記憶が残っている。
母は、沙希を祖母に預けて働いていた。参観日も入学式も、来てくれるのは祖母で。
大して思い出もないまま、高校生の頃に祖母が、大学生の頃に母が亡くなった。沙希は、本当にひとりきりになった。
いま考えてみると、母を奪っていくメイクへのひそかな反抗があったのかもしれない。
「ばかですよね。そうやって自分で拒否しておきながら、傷ついてるなんて」
Lenaは、ぽつりぽつりと話す言葉を全て受け止めてくれた。はなしを遮るでも、否定するでもなく、ただ聞いてくれた。
指導通りにメイクを進めていくと、さっきと同じ顔の自分が作れた。
「そういえば、表の植物、素敵ですね」
「ありがとう。ここから駅と反対にすこし言ったところにね、植物の店があるのよ」
「行ってみようかな」
ルートにない店だった。
沙希の予定では、これから駅前のカフェで食べて帰るだけだった。
あえて反対側に行こうなんてきっと思わなかっただろうに、まだ、魔法は解けてないのかもしれない。
教えてもらった店は夢のような空間だった。がまんできずに、大きなものは配送を頼み、エアプランツをいくつか持ち帰ることにした。
この子はどうやって飾ろう。そう考えていたら幸せで……。
「あの、前に会いました…?」
顔を上げると、レジの男性は、たしかにどこかで見たような人だ。沙希は、年齢確認の人だと気づいて、身体が硬くなる。
「こないだは失礼しました」
「いえ……」
魔法が解けたみたいに、すん、と心の温度が下がるのがわかった。
「俺、30です」
目の前の彼が、言った。
くりっとした目や、すべすべした肌。パーツの配置のせいか、どう見ても大学生にしか見えない。沙希よりも年上だなんて。
目を見開いていると彼は、苦笑した。
「幼く見られるの、いやでしたよね。すみません。俺もそうなのに……。だからずっと気になってたんです」
それからなぜか植物の話になった。意気投合して、気づくと閉店間際になってしまった。
彼、花村健太郎の実家がこの店なのだという。花屋だったここを男性も入りやすい店にしたくて改装したものの「夜はコンビニでバイトしてます」と情けなさそうに笑った。
「遅くなっちゃったんで、よかったら駅まで送りましょうか」
彼が言った。沙希はふだんなら遠慮したと思うけれど、なぜだかうなずいてしまった。
いつもと違う自分だったから、だろうか。
すこし歩くのが速い彼は、足を引きずるように急ぐ沙希に気づいて、ペースを落とした。
それからエアプランツの入った袋を持ってくれる。
男性といっしょに歩いたことがなかったので、ふいに見上げるようなかたちになる。
そうしてはじめて「あれ、いつもと雰囲気が違います?」と聞かれた。こんなに変わっても気づいてくれたことがうれしくって、顔に熱が集まるのを感じた。
彼の顔を見るのにいっぱいいっぱいになっていて、気づくとアンシャンテの前を通り過ぎていた。
「──恋がはじまる予感?」
店じまいをしていたLenaがほほえみながら、こっそりウインクしていたことに気づかずに。
(5,000字)
※※このおはなしは、『恋が叶うサロン・アンシャンテシリーズ』です。単体でも読めますが、この順番で読んでもらうとより楽しめます※※
あとがき
このはなしは、コニシ木の子さんの、「なんのはなしです課」通信 観察の三十三通目のコメントを読んで書きました。たぶん思ってるのと違った感じになったかも……。このはなし、しかも、あと3人分できそうです。気が向いたら読んでもらえるとうれしい。
そうそう、店が位置する路地裏の名前はアリカンテ通りという名前にしたのですが、「スペイン アリカンテ通り」で検索してみてください。きっと叫びます。
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最後までお読みいただき、ありがとうございます♡