たがための羽化
鏡のなかには、赤い目をした自分が映っている。
美容師のLenaは、残念そうに眉を八の字にして、未羽のつやつやした長い黒髪のひとふさを手に取った。
「ほんとうに、切っていいの? 」
未羽はうなずく。
制服のスカートをきゅっと握った。3年間履いた茶色のチェック模様のスカートは、今は真っ白なクロスの下に隠れて見えない。
制服が見えない状態だと、鏡のなかの自分は、大人にも大学生にも見えたし、高校生のままにも見えた。今日が、この制服を身につける人生最後の日になるだろう。
「もし時間があったらなんだけど、理由、聞いてもいいかな。どんなふうになりたいのか、どうしたいのか、わかったうえで切ったほうが、たぶんあなたの求めているものになると思うの」
Lenaは、背の高い、きりりとした美人だった。
髪の毛は後ろの低い位置でひとつに結んであり、そこから何層にも複雑に編まれている。
編まれている、といっていいのかはわからない。それが三つ編みではないことしか未羽にはわからなかった。
「もちろん、言いたくないなら大丈夫。写真を見てもらいながら、イメージをすり合わせていこう」
押し黙っていた未羽を気遣うように、Lenaが言った。
「エルダーフラワーソーダです」
ハットを被った背の高い男性が、未羽の前にグラスを置いた。ぱっちりとした二重の目が印象的な、かっこいい人だ。
ほんのり黄色がかった液体の中に、つぶつぶと泡が浮いては弾けて、消えていく。エルダーフラワーがなにかわからなかったけれど、いつも飲まないものがよかったから頼んでみた。
こくりと口に含む。──甘い。マスカットみたいな、爽やかなにおいが抜けていく。あとから炭酸のしゅわしゅわ感が来た。
「私……」
未羽は、静かにはなしはじめた。小学校の同級生だった大和と、どんなふうに恋をして、どんなふうに終わったのか。
あの日も、卒業式だった。
三年間で一度も同じクラスになったことのない高梁大和に、学校の裏庭に呼び出された。それは、職員室の前ですれ違ったときだったから、誰にも知られていなかったし、彼からも、誰にも言わないようにと真っ赤な顔で言われた。
その表情で、なんとなくこれからなにが起こるのか、想像がついてしまった。未羽は式のあいだじゅう、平静を装うので精一杯だった。
大和は未羽の、初恋だった。
小学校のころ、クラス全員で公園に行くという行事があった。地域探検みたいなものだったのだろうか。
その場所は、未羽の家のすぐ裏手にある公園だった。昨日もここで過ごしていたのだけれど、そのときあるものを見つけた未羽は、自由時間にそっと輪から外れて、がさがさと草むらに入っていった。
「よかった、まだ出てない」
未羽はしゃがみ込んだ。木の枝に、細い糸で張り付くようにしてさなぎがあった。先週見つけてから毎日観察していたのだけど、昨日、中が透けて見えたのだ。羽の模様が、見えた。
羽が透けると羽化が近い。そう言っていたのは、たしかお父さん。
未羽は当時、虫が好きだった。図鑑のなかの、色鮮やかな虫のページを見るのが好きだった。
けれどもそれは、”女子的には”ほめられた趣味じゃないことがわかっていたので、積極的には言わないようにしていた。
そのとき、がさがさと音がした。顔を出したのは、同じクラスの大和。ちくちくした坊主頭に、首元が少し伸びたTシャツを着ている。
大和はしょっちゅうふざけている男子で、未羽は少し苦手だった。
「アゲハチョウの蛹?」
大和は草をかき分けて近づいてくると、はっとしたように声を潜めて、未羽のとなりにしゃがみ込んだ。
「すげー」
目をきらきらさせて言う。そのとき、ぴきり、と蛹にひびが入った。
『割れた!』
声が揃った。顔を見合わせて笑う。それから互いに口元に指を当てて「しー」と言い、また少し笑った。
もぞもぞと青虫が這うように蛹が揺れる。そうして少しずつ頭が、体が出てきた。未羽がそっと手を伸ばすと「まだだぞ」と大和に止められた。手首を握って、そっと放された。
「家で飼ってたことあるんだ。蝶ってさ、羽が乾くまで飛べないの」
言われてみると、くしゅくしゅと皺だらけの羽は、濡れているようにも見える。
「行こう未羽。こっからは長いんだ。集合かけられるぞ」
この日から大和は、気になる男子になった。
中学に入ってからは、一度も同じクラスにならなかった。坊主頭だった大和は、バスケ部に入り、相変わらず同じ髪型をしていた。未羽よりも背が低かったのに、気がつくとぐんと伸びて大人っぽくなっていた。
たまに目が合ったなんて勘違いをしながらそっと見ていた。
だから、これからなにが起こるのかわかったとき。未羽はすぐに、うなずくつもりでいた。
「あ、あのさ……」
「うん」
未羽は緊張で震える手を、反対の手でぎゅっと強くにぎりながら、なんとかそこに立っていた。大和とは、目が合わない。
「小学校のころから、永田のこと……ずっと好きだったんだよね」
わたしも。そう言いかけたのに、大和は「へ、返事はまた今度!」と言って、走り去ってしまった。
未羽は大和の連絡先を知らなかった。
「あ、永田……?」
高校生になって二週間ほど経ったころ。
電車を降りたところで、聞き覚えのある声に振り返ると、大和だった。
彼の見た目はすっかり変わっていた。坊主頭だった髪の毛は少し伸びて、整髪料をつけているのだろう、無造作に整えられていた。
それだけで別なひとみたいに見えた。
「いっしょに帰る?」
大和のほうから声をかけられて、どきりと心臓が跳ねた。未羽は「うん」と俯いた。
「自転車取ってくる。ちょっと待ってて」
大和は、駅前の駐輪所から黒い自転車を持って戻ってきた。自転車を押しながら、近況について話す。
「あの、高梁くん、家こっちじゃないよね?」
「……いや、送ろうと思って」
それきり大和は黙り込んでしまった。うれしかった。他愛のないはなしをしていたら、あっという間に未羽の家のそば、あのときの公園まで来てしまった。
なんとなく離れがたいなと思っていたら「寄ってく?」と大和が聞いた。
「あ、あのさ」
「うん」
「卒業式のときのこと……」
大和は、気まずそうな顔をした。
「ごめん、いきなり。忘れてくれてい……」
「付き合おう!」
未羽は、大声を出した自分に恥ずかしくなった。大和は目を丸くしている。
「わ、私も好きなの。高梁くんのこと」
「ガチで?」
「……うん」
「えっと……じゃあ、よろしく」
大和はそう言って手を出した。そっと手に触れる。大きながっしりとした手だった。
それから遠慮がちに手を出して、未羽の髪に触れた。
「お前の髪、サラサラなのな」
そう言われて顔に熱が集まる。
いつの間にか、すっかり日が傾いていた。
「じゃあ、夜にまたLINEする」
「うん」
ひらひらと手を振って背を向けた大和は、ふと振り返った。
「中学のやつらに、付き合ってることは秘密な」
メガホンみたいに口元に手を添えて、大和は言った。
「え?」
「田中たちにからかわれるぞ。お前はそういうの苦手だろ? 」
大和の友達は、いわゆる”陽キャ”ばかり。みんないつもふざけていて、悪ノリしていて。
それはわかるけれど、誰にも話せないというのは辛かった。
それは最初のうちだけだと思っていた。けれども、はじめてのデートのときに言われたことは、悲しかった。
待ち合わせ場所で手を振った大和は、確かに目が合ったのに俯いた。困惑していると、こちらに歩いてきて、通り過ぎた。すれ違いざまに「カラオケ集合で」と言った。
「見つかりたくないからさ、3メートルくらい離れてついてきて」
カラオケの受付で合流する。大和は周りを見回し、誰も居ないことを確認するとようやく未羽と目を合わせてくれた。部屋に入った瞬間、急に抱きしめられて身を硬くした。
ほかの誰かに言ってはいけない恋。
それがはじまってから、もうすぐ3年になる──。
大和は未羽が変わることを好まなかった。高校生になったらすこしおしゃれしてみたいと思っていた。けれども大和が止めた。
「うちの学校はさ、バカなギャルばっかりなんだよ。おまえは違うだろ?」
スカート丈をほんの少し短くしたときも、ペールブルーのネイルをしたときも、大和は眉根を寄せた。
未羽は翌週、その装いをやめる。
「進学はさ、東京行こう」
大和が言った。東京の専門学校に進むのだという。
未羽の成績だと、都内の行きたい大学は少しむずかしかったので、必死に勉強を重ねた。そして、もともと行きたかったところより1ランク上の大学に合格。彼もまた進学が決まった。
卒業式の日、待ち合わせはしていなかった。
けれども、お互い付き合っているのだしと思って、大和の高校の近くまで行った。
寒い日だった。
さらさらした雪がちらつき、強い風に乗って、地面をまるで走るように転がっていく。
風が強すぎて黒髪は乱れ、雪のつぶがぶつかってくる。目を開けるのもつらい。
前から、腕を組んだカップルが歩いてきた。
「やばーい」
明るく染めた髪が風に舞い、彼女はそれを恥ずかしそうに片手で押さえながら笑っていた。お揃いのカーディガンを着たふたりの、男性がふと顔をあげた。
目が合った瞬間、息が止まる。
「……大和?」
笑っているその人は、間違いなく大和だった。
大和は見るからに焦った顔をし、隣の女の子の腕を振りほどいた。
「先行ってて」
彼女は「ふざけんなよ」と口をとがらせながら、スカートをひるがえして去っていく。
「あのひと、誰?」
「高校のクラスメートだよ」
へらへら笑いながら大和が言った。
「どうして腕、組んでたの?」
私には“3メートル後ろをついてこい”と言ったのに。その言葉は喉の奥でつっかえて、出てこなかった。
視界がじゅわりと滲む。雪のせいだけじゃない。
大和は露骨に面倒くさそうな顔をして、ため息をついた。
「高校の間くらい、遊んで何が悪いの?」
「え?」
「ああいう子のほうが、遊んでて楽しいじゃん。まあ、結婚とか考えるなら、頭足りないやつは無理だけど」
何を言っているのか、理解できなかった。
「……ばいばい」
なんとかそれだけ絞り出し、未羽は走った。荷物が重くて遅かったけど、大和は追いかけてこなかった。
「私の3年間、なんだったんだろう」
通知がずっと鳴っている。
追いかけることさえ、してくれなかったのに。
風は相変わらず強くて、雪といっしょに未羽の黒髪を吹き上げる。彼が愛おしそうに触れていたこれが、汚らわしいものに思えた。
「切ろう」
美容院を探してあてもなく歩いていたら、スーツを着た男性にぶつかってしまった。転んだ未羽を助け起こすと、彼は気の毒そうに眉を寄せた。
「あの、美容院知りませんか」
なぜだかわからないけれど、未羽はそう口にしていた。男性はきょとんとしていたけれど「路地裏の……」と口にした。
「会社の女性が言ってました。彼女、そのままでももっちりした肌の可愛らしい人だったんですけどね、ある日急に垢抜けたんですよ。輝きが違いました」
「はあ……」
男性は「すみません、話が逸れました」と言った。
「アリカンテ通りの、路地裏にある店がいいと。なんでも、恋が叶ったとか」
「恋……」
渇いた笑いが漏れた。恋はもう終わったのだ。
男性は、ハンカチを出して未羽に渡した。
「おろしたてなんです。よかったらどうぞ」
ベニテングダケがたくさん配置された不思議な模様のハンカチだったけれど、つるつると肌触りがよく、上質な素材のようだ。
そのときはじめて、頬に熱いものが伝っているのに気がついた。
「……その人、恋が叶ったんですか」
「ええ。寿退社しちゃいましたよ。真面目でいい子でしたし、何より可愛かったのでもっといっしょに働きたかったんですが……」
男性は心底残念そうに言った。
「あの、お名前は……」
「小西です。それは差し上げますよ」
そんなわけには、と言いかけたけれど、次の瞬間、男性の姿はもうなかった。
「なんっっってひどい! ひどい男ですよ」
飲みものを運んできてくれた男性が憤慨した。Lenaは「ハウス」とぴしゃりと言った。
「はなしてくれてありがとう。つらかったね」
ほしいのは、あの人を貶す言葉じゃなかった。
ただ共感してほしかっただけなのだと気がついて、まだ涙が溢れた。制服のポケットをごそごそと探って、キノコ柄のハンカチで涙をぬぐった。
「あの人が好きだと言ったこの髪を、……私はこの髪を捨てたいんです」
Lenaは「そっか」とぽつりと言った。
「それはあなたの復讐なんだね。ささやかな」
そう言われて、たしかにそうかも、と思った。
「ねえ、おすすめの方法があるんだけど。興味ある?」
鏡越しのLenaはいたずらっぽく笑った。
大学生になって数週間が過ぎた。
目を覚ますと午前5時前だった。
未羽は身じたくを整えると、夕飯のために野菜を切って蓋付きのバットに入れておいた。冷水筒の中に、鰹と昆布をぽちゃぽちゃ入れておく。これは味噌汁用。
眉毛は小鼻と目尻をつないだ延長線まで伸ばして書くと、一気にきりりとした大人っぽい顔になる。それから猫みたいに目尻がきゅっと上がるようにラインを引いた。
クローゼットの中には、ボーイッシュな服がずらりと並ぶ。大和と付き合っていたときに身に着けていた清楚なワンピースはすべて捨てて、自分のこころに正直に買ってみた。たのしかった。
外に出ると、東の空からピンクに滲むような朝日が顔を出していた。まだ午前6時前。
3駅先の街まで歩いてみる。日によってルートを変えながら、東京の街を朝からたくさん歩くのが未羽の日課だった。
地図アプリを見ながら進むけれど、方向が合っていたら適当に進んでみることにしている。
一本だけ道をずらすだけで、隠れ家みたいなカフェや、ブティックや、書店に出会うことができた。
今までは、道行くカップルを羨ましいとばかり思っていた。
ひとりで歩くことがこんなにたのしいなんて思わなかった。失ってしまった3年間を取り戻すように、未羽は新しい世界を吸収していた。
やがて、香ばしいにおいが漂ってきたのに惹かれて、未羽はふと足を止めた。通りの一角、こぢんまりとしたベーカリーカフェがひっそりと佇んでいる。
無機質な東京の街から浮き上がるようなピンクベージュの外壁に、大きく取られた窓。店の前には鉢植えのオリーブやアイビーが並び、風に揺れている。
「OPEN」の文字に、未羽のお腹が鳴った。毎週水曜日は、外で朝ごはんをたべると決めているのだ。
ドアの脇にかかった黒板には、手書きの文字で「本日のおすすめ」と書かれ、可愛らしいイラストが添えられていた。ガラス扉を開けると、カランとベルが鳴る。焼きたてのパンの香ばしい匂い。
「……素敵」
未羽は、小さくつぶやいた。
これから卒業まで、きっと何度も来る店になる。確信があった。
さくさくのデニッシュで朝食を終え、コーヒーを飲み干すと、すっかり体が暖まっていた。
電車に乗り、大学の2駅前で降りる。
駅前のベンチでは、酒に酔っているのだろうか。赤い顔をした男性が壁にくったりともたれかかっていた。
「未羽……?」
顔を上げた男性を見て、未羽は息を呑んだ。
「大和」
「やっと会えた。おまえ、連絡先もブロックしただろ。俺たち付き合ってるのに」
大和はそう言うと、ふらふらした足取りで近づいてきた。ぷうんとアルコールのにおいが広がり、未羽は思わず顔をしかめた。
「私たち、あの日に別れてるよ。ばいばいって、そう言ったでしょ」
ぶわりと風が吹いてきた。大和はこれまで見たことがない、傷ついた表情をしていた。傷つけたのはそっちじゃないか。
悔しい思いと、数少ない楽しかった思い出が、吹き飛ぶように流れ込んでくる。
「……未羽、なんか、変わったな」
大和はさみしげに言うと、背中を丸めて歩いていった。
「要は、別人になりたいってことだよね」
あの日、卒業式の夕方、Lenaは言った。未羽はこくりとうなずく。
「バタフライカット、してみない?」
Lenaは、タブレットで画像を見せてくれた。
顔周りを中心に、少しずつグラデーションをつけるように長さが変わっていく、立体感のある髪型だった。
「切らなくても別人になれるんだよ。失恋のために切るのはもったいないよ。未羽ちゃん自身のために切ろうよ」
鏡を見られないので、はさみを入れている音だけが響いていた。小気味のいい音を最後にカットは終わり、Lenaはブラシでていねいに顔についた毛を払った。
「おまけ。メイクレッスンもしちゃう」
Lenaはそう言うと、鼻歌をうたいながら筆やブラシを使って、まだ化粧をしたことがない未羽の顔をなぞっていった。
仕上がったのは、黒髪ロングのまま別人になった自分だった。
「……これが私?」
歩くたびにふわっと軽やかに動く髪は、蝶の羽がひらひらと舞うみたい。レイヤーが入ることで、大人っぽさが出るのかも、と思った。
真面目な優等生って言われ続けてきたけど、そうは見えない。猫みたいにぱっちりした、いたずらっぽい雰囲気の目。
とぼとぼと駅を後にする大和の姿を見つめながら「私は、私のために変わる」と、改めて決意した。
しゃらしゃらと街路樹が揺れた。
少し前ならきっと綺麗だったであろう桜。いまは葉っぱだけで、春の面影がなかった。まるで、変身した未羽みたいに。
もう、3m離れて歩く必要はないのだ。
羽化したのは、ほかの誰のためでもない。
未羽ただ一人だけのためなのだ。
(7,000字)
それぞれ独立したおはなしとして読める「アンシャンテ」シリーズです。
▼1作目はこちら。
勝手に出してごめんなさい……🍄 #なんのはなしですか
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