風の通り道
ひんやりと冴えた透明な空気が、カーテンを揺らす。
幼稚園へ娘を送って戻るなり、志帆は家じゅうの窓を開けて回った。やっと深く息を吸い込める。
空気がさらさらと変わっていく。
ようやく、ひとりになれた。二週間ぶりだった。
はじめに熱を出したのは夫の直哉だった。
寝室から出ないほうがいいと伝えたのに、彼はまるで聞く耳を持たなかった。リビングで動画を見て笑っていた。
その数日後、夫が回復すると今度は息子が、そして娘が、次々に罹患した。
幸い志帆は健康だったけれど、ずっと気を張っていた。
苦しむ家族を見てやるせなくなったり、朝のカンマ一秒を争う小児科予約のためにスマホを握りしめたり。病院への送り迎えもこの短いあいだに何度したことだろう。
窓の向こうに目をやる。
夫の仕事の都合で一年前に越してきたこの街は、じつは、志帆にとってゆかりのある土地だ。
志帆の家も転勤族で、小学校の何年かをこの街で過ごしたのだ。当時とはすっかり街のすがたが変わっていて、なつかしさよりも新鮮さのほうが勝った。
志帆たちが住むマンションの北側には、小さな教会がある。
名前のわからないハーブや、毛糸のポンポンみたいな花、背の高いススキみたいな草などが所狭しと植わっている庭に、こぢんまりと建っている。
窓を開けると、教会の屋根に設置された風見鶏が見えた。風が吹くたびに忙しなく回る。
自分の意志で動くのではなく、ただ煽られて動くだけのその様子が、自分に似ていると思った。
家族の調子に合わせて動き、家庭という空間で、ただくるくると周り、流されるだけの存在。
5つ年上の直哉とは、一方的な冷戦状態だった。
志帆は、子どもたちが感染したのは夫のせいだとずいぶん責めた。きちんと隔離できていたら、みんな苦しまなかったかもしれないのに。
苦しんだ中には、志帆自身も入っていた。
熱こそ出さなかったものの、夜中も看病のために何度も起きた。咳き込んで吐いてしまった娘の服を替え、髪を拭き、吐瀉物で汚れたシーツを剥がす。
苦しむ子どもたちが心配で、浅い眠りをくり返したまま朝になり、また病院予約の戦いが始まるのだ。
食事も食べやすいものと、回復組とで作り分けが必要だった。直哉はそういった一連のもろもろを、なにひとつやろうとしなかった。
ある夕方、直哉は「一人で出かけてきたら」と志帆にお金を渡した。
「服とか買ったら」
そういうことじゃない。そう思ったけれど口に出さなかった。
ちょっと悪いことをしようと思った。
まだ日は沈んでおらず、うす紫に沈む道を歩いた。
いつもは車で移動するので、この街で電車に乗るのははじめて。
きっぷを買ったものの、どこで渡すのかわからない。そのまま入場して、降りた先できっぷを箱に入れるのだと駅員に聞いて驚いた。
電車を降りると空が狭かった。
家の周りにはない、少し高いビルがずらりと立ち並んでいる。
すっかり日が沈んだのに、なんて明るい。色とりどりのネオン。駅前の商店街に夜に来たことってたぶん、人生で一度もない。
車で来なかったのは理由がある。
お酒を飲もうと思ったのだ。独身時代は、バーで静かにぼんやりする時間を好んでいた。
グラスの中のお酒の透明感や、静かなバックミュージック。
ふわりと立ち昇るフルーティーなにおい。
口の中でしゅわしゅわ弾ける炭酸。
使い込まれた木のバーカウンターのざらりとした感触。
目の前のものに自分のすべてをくったりと預けてみると、今、この瞬間を生きていると実感できた。
それは、頭のなかに風を通すのに似ていた。
忙しない頭のなかから、一旦すべて追い出してしまう。すると花びらが吹き込んでくるように、少しずつ大切なものだけが戻ってくるのだ。
いま考えてみると、バーでお酒を飲むのはそういう大切な時間だった。
駅前のアーケードの天井はガラス張りになっており、清かな月の光が差し込んでいた。夜の灯りのほうがずっと強く、きっと気づいている人はほとんどいない。
ふと周りを見て、恥ずかしくなる。
志帆の服はなんだか浮いているような気がした。
行き交う女性たちの髪型も服も、何が違うのかはわからないけれど、志帆のものとは決定的に何かが違うのだ。
人目を避けるように歩いていたら、いつのまにか屋根がなくなり、路地裏に入り込んでいた。
真っ暗な夜。治安が悪かったらどうしよう、と考えて思い直す。
そうだ、志帆はもう来年40になるのだ。
もうそんな心配なんてしなくてもいい。ほっとすると同時に、妙な寂寥感があった。
ずっと自分の時間が止まっているような気がする。
凪いでいる。なにをするにも、いまは「許可」がいる。服を買う。習い事をする。旅行をする。
でも許可があっても、自分のためにお金を使うことには抵抗がある。
また、教会の風見鶏がちらつく。カラカラと風に揺られるだけの人生。
家庭があるというのは、どっしりした幸せだ。
かけがえのないことだ。けれども、堅牢な檻に閉じ込められているような閉塞感もあった。
昭和を感じる古いビルの1階にそのバーはあった。
周りの壁面から浮き出して見えるくらい、そこだけが違う世界のようだ。
凹凸のある壁は、木製で、黒くてつやつやした塗料が塗られており、ネオンを鈍く反射している。看板には『Nagi』と書かれている。
スタンド式の灯り、壁付けのもの、地面に置かれたテーブルランプなど、店の前に置かれたいくつものアンティーク調の照明が、異国のような雰囲気を出していた。
硝子張りの店内で細身の店員が体に沿うようなシャツとベストを着てシェイカーを振っている。
五十代くらいだろうか。穏やかそうな雰囲気でほっとする。
ごくりと喉を鳴らす。強い風に背を押されるように扉を開けた。
まず目につくのは、壁にずらりと並んだボトルの数々だ。
店内は狭く、細長いカウンターがあるだけ。左端に男性客がふたり座っていたので、志帆は右端を選んだ。
「ジン・バックを……いえ」
言いかけた言葉を飲み込んだ。お酒を飲むために来たはずなのに。”良い母親”の文字がちらついて、ノンアルコールのモクテルを頼んだ。どんな味なのか、見た目なのかわからない。
志帆のすぐ横の壁には大量の本が並べられている。
すべての本にブックカバーがかけられており、背表紙になにが書かれているかはわからない。
「よかったらどうぞ。本との出会いを楽しむためにかけてるんですよ」
バーテンが言った。
「本そのものの好みはあると思うので、ほんのわずかにですが、紙の色を変えてるんです。ええと……」
ごそごそとカウンターから出してきたのは、メニュー表のような紙。そこには、正方形に切り取られた紙と、その紙色が表すカテゴリが書かれていた。
物語が読みたいな、と思った。それぞれの紙色は、バーテンが言ったとおり、ほとんど差異がない。アイボリーと生成とオイスターホワイトくらいの誤差だった。
色見本を片手に、目をこらしながら「これだ」と思うものを選ぶ。
読んだことがない小説だ。
風にまつわる短編集。その中のひとつに目が止まる。
「……風の通り道?」
海辺の街に、老婦人が住んでいた。風を呼ぶ女と呼ばれたその老婦人のもとには、時おり旅人がやってきた。彼女の庭は、夕凪の時間帯でも風が吹く。そこにいくと、迷いが晴れるのだという。
ある日、都会から逃げるようにやってきた女性がいた。
彼女は戻るべきか逃げ続けるべきかを迷っていた。思い詰めた様子を見た気の良い男が、彼女をミストラルの庭へ案内した。
老婦人は「しばらくここで好きに過ごせばいいわ」と告げる。
「泊めてあげることはできないけどね」
女性は、わけがわからないまま、街の宿屋からミストラルの庭へ通う日々を送る。老婦人はなにかをしてくれたり、教えてくれるわけではない。
ただ気の向くまま歩いていた彼女は、ふと足を止める。風が止んだ。歩くとまた吹く。自分が歩いているから風が生まれるのだと気がつく──。
ことり。目の前に置かれたのは、はっと目が覚めるようなブルーのモクテルだった。南の海みたい。甘い。爽やかな甘さがあった。
ひと口ずつ大切に味わいたくて、口に含んではぼんやりし、またひと口運ぶ。
そんなふうにちびちびと飲んだ。
思考が静かになり、ふと、隣にいる男性たちの会話が耳に入ってくる。
「どうしよう。最近、周りの女性たちが美しくなっていくんだ。好きになってしまう……」
「課長が女性好きなのは、今にはじまったことじゃないですよね」
頭を抱える男性に、もう一人が冷ややかに言った。
「いや、それはそうなんだけど。なんて言ったらいいのかな。魔法みたいなんだよ」
「魔法?」
「そう。みんな、ある美容院へ行くと、さらにうつくしくなる。まるで花開くように。あるいは蛹から羽化するように……」
「いや、ほんとになんのはなしですか?」
ふたりの語り口が面白くって、思わず笑ってしまった。
きのこ柄のネクタイをした男性と目が合う。
「す、すみません」
「いえいえお構いなく。女性と話すの好きなんですよ」
「は、はあ……」
「あなたはご存知ですか? 最近話題らしいですよ。アンシャンテという美容院」
「課長、絡むのやめてくれます? 」
眼鏡の男性がなだめるように言った。
「いいでしょー舞斗」
なんのはなしかわからなかったけれど、志帆の頬はゆるんだ。
モクテルを一杯だけ飲んだ。
時間はまだ20時にもなっていなかったけれど、子どもたちのことが気になった。本を読んでいても、耳を澄ませてみても、頭から離れない。店を後にした。
お酒は飲んでいない。
それなのにふわふわとした感覚が体を包んでいた。
懐かしい新鮮さに酔っていると、ふいに、足元がぐらつく。
鈍い痛みとともに視界が回り、次の瞬間、目の前には見知らぬ男の顔。
腕を強く引かれたのだ。
酒臭い、生暖かい息が顔にかかり、頭が真っ白になる。
「なにしてんだい!」
前方から女性の声が飛んだ。
男は舌打ちし、足早に去っていく。志帆はその場にぺたりと座り込んだ。
「びっくりしたね、大丈夫?」
カツカツとヒールを鳴らして駆け寄ってきたのは、六十代くらいの女性だった。驚きと動揺でへたり込む志帆の背中を、優しくさする。
志帆は思った。罰が当たったのだ。母親なのに、夜遊びなんてするから。
「なにがバチなもんかい!」
無意識に声に出していたらしい。女性は喝を入れるように言った。
「女は、いつまでも女なんだよ。あたしを見な。もう70過ぎたバーサンだけど、暗がりならいまだに声をかけられるのさ」
からからと笑う声が、夜風に溶ける。
「あんた、Nagiから来たの?」
それがバーの名前だと気づくまで、少し時間がかかった。
こくりとうなずくと、女性は「待ってな」と言い残し、ヒールを鳴らして歩いていく。
ぶわりと風が立つ。
「──ほら、あんたたち。駅前まで送ってやりな。アタシが奢ってやるから」
1分も経たずに戻ってきた女性の後ろには、先ほど店で飲んでいた二人の男性がいた。
申し訳なくて断ったが、ふたりとも嫌な顔ひとつせず、志帆を明るいところまで送ってくれた。
翌日は、夫の休みだった。
彼の定休日は月曜日と木曜日。土日は志帆がひとりで子どもたちを見る。
けれど、夫が休みの日に二人でどこかへ出かけることはない。家にいても、会話はほとんどなく、それぞれ違うことをして過ごすだけ。
この時間が、志帆は苦痛だった。せっかくならどこかへ出かけてみたいのに。
「ママ、美容院行ったら?」
窓ぎわで本に目を落としていたら、ふいに声をかけられた。
いつの間にか、夫が背後に立っている。
「白髪、気になる」
つむじをのぞき込むような視線に、かっと顔が熱くなる。
美容院には、もう何ヶ月も行っていない。髪は定期的に暗めの茶色に染めているはずだった。けれど、少し前に子どもたちが体調を崩し、予約をキャンセルしたままになっていたのだ。
急に気になって、洗面台の鏡に顔を近づける。よく見えない。腹を縁に乗せるようにして前のめりになり、顔の側面を鏡に寄せた。
指先で髪をすくい上げる。
息をのんだ。
内側の髪に、何本も、何十本もの白い線が走っている。
(これが、私……?)
信じられなくて、何度も見直す。
普段は髪を結んでいるから、こんなふうに内側まで気にしたことはなかった。
まだぎりぎり30代だ。 5つ年上の夫には、あまり白髪がない。なのに、どうして。
何ヵ月も染めていない髪は、根元から何センチも黒くなり、余計に白髪を際立たせている。ぱさついて、うねる毛先。
じっと見つめても、鏡に映る姿は変わらない。 思っていた自分と、目の前の自分が、違う気がした。
実年齢よりも5つくらい、いや、それ以上に老けて見えた。
志帆は、慌ててスマホをたぐり寄せた。今から行ける美容院を検索する。
その中にふと気になる名前があった。
昨日バーで出会った男性が話していたのだ。行った人がみんな綺麗になったというサロン。幸い、ひと枠だけ空きがあった。
髪の毛を後ろの低い位置でひとつに結んだ。もう何年もこの髪型ばかりしている気がする。
アイシャドウは若い頃からずっと同じものを使っている。薄いブラウン。アイラインをしっかり引いて目の周りを囲む。マスカラは一度塗ったあとにもう一度重ねる。
美容院『アンシャンテ』は、バー『Nagi』から、2本ほどずれた通りにあった。
カルテを書いたあと、俳優みたいに目鼻立ちがくっきりした華やかな男性に案内されて、クロスをつける。
明るい店内で見てみると、思っていた以上に自分は老けて見えた。自然と背がまるまった。
「担当させていただく、スタイリストのLenaです」
現れたのは、きっと志帆よりいくつも年下であろう若い女性だった。
背中まである長い髪の毛はつやつやで、白髪なんて一本もない。鏡越しに目が合うと、彼女は探るように志帆の顔をのぞき込んだ。
「あの、もし違ったら申し訳ないのですが」
Lenaは、迷った感じで切り出した。
「志帆ちゃん……?」
志帆は驚く。目の前の女性の顔を食い入るように見つめる。
でも、思い出せない。れな、玲奈、麗奈……?
「あ、ごめん。私これ本名じゃないの」
「は……?」
「あの、私、ナミです。連城南海子」
その瞬間、ぶわりと記憶が蘇った。転校してきたこの街でなかなか馴染めず、帰り道がいっしょで仲良くなった隣のクラスの女の子。
「ナミちゃん? え、うそ」
ふたりは手を取り合ってきゃらきゃらと笑った。
転校してからも、南海子とはしばらくは連絡を取り合っていた。
まだ携帯が一般的ではない時代で、毎月のようにポストに届く手紙に頬がゆるんだ。
南海子は子どものころからおしゃれについて考えるのが好きだった。華奢できれいな子だった。
父の母校へ入るためにずっと勉強だけを強いられていた志帆からすると、眩しい存在だった。
「手紙、急にやめてごめんね」
「ううん。でも気になってた」
「いやあ、3個目の学校でかなあ。ちょっといじめ? みたいな。心が折れてなにもできない時期があってさ」
苦々しい記憶が蘇る。
転校というのは、ギャンブルだと思った。
住み慣れた街、親しい人たちからいきなり離れて、ぽんと知らない場所に放り込まれる。
そこにはすでにコミュニティが形成されているわけで、うまく馴染める場合もあれば、排他的に拒絶される場合もあった。
何度も思った。この街に帰りたいって。
学校帰りはいつも南海子の家に遊びに行っていた。
志帆の家はゲームを禁止していたから、南海子と彼女の兄と三人でゲームをしたっけ。
「志帆ちゃん、ゲームの攻略ノートうちに置いてたよね」
「え?」
「覚えてない? どうしたら簡単に、最短でクリアできるかって。見つけた宝箱の場所とかさ、ステータスとか。そういうのを全部ノートにメモしてた」
「そうだっけ……?」
記憶が随分薄れている。
「私、あのノートのおかげで全クリできたんだよ」
「ぜんぜん覚えてないよ」
「うそー」
ああ、人と話すのって楽しいことだった。ずっと忘れていた。
「あとね、あの書き方役立ってるんだよ」
志帆は、腰についたハサミや櫛などの道具がたくさん入ったバッグの中から、手のひらサイズのノートを取り出した。
「ほかのページは見せられないんだけど……」
そう前置きして見せてくれたところには『3/10 石本志帆様』と志帆の名前がかかれている。
まだほとんどが空欄のそのページには、ラベルシールのようなもので「今日の服装・髪型・メイク」「好きなもの」「長く読んでいた雑誌」「プライベートなこと」「今日の施術メモ」といったように、さまざまな項目が、余白を持って貼られていた。
「これは、私の仕事攻略ノートなの。お客様と話したことや見ていて思ったことは、走り書きでもいいからここにメモしてる。ここに店を構える前からずっとやっていたその一つひとつの蓄積がね、知識につながったって思ってるんだ」
そう言って笑う南海子が眩しかった。
今回頼んだのはフルオーダーコースというものだ。
ヘアメイクからファッションまですべて提案してくれるというもの。
お酒を頼まなかったので余っていたお金と、美容院代。あとは服を買うようにと渡されたお金を使わずにコツコツ貯めていたものをすべて出してきた。
「鏡、見えないんだ」
「ふふ。魔法をかけるみたいに、変身を楽しんでもらいたいの。だから最後のお楽しみね」
Lenaは、最初に服だけは提案してくれていた。
自転車によく乗ることや、スカートが好きではないことなどを伝えていたから、動きやすくて安く買えるスウェットパンツにパーカーとロングコートを合わせたもの。
「私、見た目を自分の好きなように変えるために大事なのはね、バランスだと思ってるの」
Lenaが言った。
「バランス?」
「そう。可愛いものが好きでも、全部それにしない。ちょっとかっこいいものを混ぜるの。その比率をどれくらいにするかが人によって違う。ちょうどいい配合が見つかると面白いんだよ。……はい、できた」
鏡に映った自分は、35歳くらいに見えた。
実年齢よりも5歳くらい若い。どうしてだろう。囲み目もボリュームのあるマスカラもつけていないのに、顔立ちがはっきりしている。
「すごい……ぜんぜん違う」
ぱさりと表面の髪の毛を持ち上げてみる。白髪も隠れていた。うれしくって涙がじわりと滲んだ。
「私、私ね。ずっとこのままでいいのかなって思ってたんだ。頑張っていい大学に入った。好きな仕事をしてた。でも結婚したら、子どもが生まれたら、どちらも両立することはできなくて。せっかくこれまで身につけてきたものを捨てるみたいな生き方だなって」
南海子は、ただ黙って聞いてくれた。
「でもわかった。どっちも言い訳にして逃げるのいやだなって。それで罪悪感を覚えるくらいなら、”攻略”しようと思うの」
「攻略?」
「そう。ゲームをやるみたいにさ、仕事も子育ても家事も。全部じょうずに攻略する」
志帆は、帰りに駅前の書店でノートを買って帰った。
朝、いつもより十五分だけ早く起きた。
髪の毛を後ろでひとつに結ぶ。けれども、爪の先でつまむようにして髪を放射状に引き出すだけで、疲れた感じに見えなくなった。
窓を開ける。
裏の教会の庭では、ミモザのふわふわした花が満開だった。
ベッドに腰かけて、サイドボードにのせたノートを開く。
真っ白なノートに書くことが思いつかない。少し苦笑する。
経歴を生かしつつ家でもできる仕事を探す(翻訳家、フリー編集者とか)
子どもたちに手作りのおやつ
色の綺麗なワンピースがほしい
夫といっしょにバーに行きたい
書くたびに心が軽くなっていく。
胸に風の通り道が生まれるみたいに余白が広がっていく。
裏の教会のものだろうか。
吹き込んできた爽やかな花の香りが、レースのカーテンを揺らした。
(8,000字)
▼アンシャンテシリーズは、それぞれ単独でも読めますが、最初から読んでいただくとつながりが見つけられるかもしれません。こちらが1話目。
あとがき
路地裏から勝手にスカウトおふたりめ、すみません……!👓️
甘いお酒しか飲まないけど、お酒はだいぶ強いほうです。子どもが生まれる前はとても少食で、飲み会で食べてないのが悔しくて飲んでたら「あれ、酔わないのでは……?」と気がつきました。
書いてたらわたしもバーに行きたくなりました。
去年家族旅行をしたときに泊まったホテルで、夫から「行ってきたら」と言われたんです。
でも、久しぶりすぎるのと、夫が子を見てるのに(といってもすでに子らは寝ていて、夫はゲーム中)わたしだけ、と思うと行けませんでした。
”母”という名で後ろめたさを感じるのは、人の目のせいなのかなと思っています。
「ああいうのは母親らしくない」という言葉をいろいろなシーンで見聞きして、だんだん臆病になっていく感じ。
「男だから」「女だから」「母だから」「父だから」。そういう呪縛のない世界に、いつかなったらいいですよね。
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