透けるノイズ │ 第2章 シナスタジア
妻が消えた。隠された妻の顔と、彼女が消えた理由とは──。
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1.透けるノイズ
『透けるノイズ』
❤45 2025年4月26日11:00
冬河未零
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夫といると、消えたくなることがある──。
そんな書き出しではじまる文章につづられていたのは、具体的な出来事ではなかった。
けれども拓海にはわかった。わかってしまった。
書かれているのが自分の放った言葉だということが。
家の中に透明なノイズがある。
それはほかの家族にとってはなんでもなくて、私にだけ響く不協和音なのだ。理解できない感覚だからこそ、それによって阻まれた現状こそが私の”能力”だと判断されてしまう。
私は妻失格であり、母失格なのだ。
頭のなかでいつも色の洪水が起こっている。でもそんなこと話したって、だれにも信じてもらえない。確かにここにあるのに、ほかの人から見えない幽霊みたいなノイズが、確かに私を侵蝕している。そうして頭のなかがいっぱいになってしまうから、聞いたり、考えたりすることに、一歩、遅れが出る。
──これまでは、良い能力を得られたと思っていた。神さまからのギフトのようなものだと思って磨いてきた。そう。幼いころはこんなことがなかったのだ。研ぎ澄ました結果、創作には役立っても、実生活では呪いのようなものに変わってしまった。
みんなが当たり前にできることが、私にはできない──。
でも、だから私は書くのかもしれない。頭のなかにあるたくさんのノイズのなかからきらめきの上澄みを掬い取って、綺麗なものだけを残すために。あるいは、忘れてしまっても、また記憶をもどせるように。
理解しろとは言わない。
言えない。でも、そっとしておいてほしい日だってあるのだ。
だからわたしは此処から居なくなろうと思う。もう、戻らない。
驚いたけれど、間違いない。妻だ。──冬河未零は、妻のもうひとつの顔なのだ。そう、思った。
公開されてからまだほんの10分ほどだが、そこにはたくさんのコメントが寄せられている。
《未零さん、だいじょうぶ? 毎日書いてたのにいなかったから心配したよ》
《なんで急に投稿再開したんですか?いなくなるってどういうことですか。》
《予約投稿してあったんじゃない? 最後の……遺書なのかも》
「なんなんだよこいつら……」
「え、もう読んだの? ……ああそっか。あんた、読むのが異常に速いんだったね」
《未零さん、体調崩してるだけかもしれないじゃん。変に決めつけて騒ぐのやめようよ》
《俺もそう思います。此処で変に盛り上がってしまったら、未零さんも戻って来づらくなると思いますよ》
《てか、死んだとしたら、旦那さんのせいじゃない? 未零さん、あまり旦那さんのこと書かないからさ、だからこそうまくいってないのかなーって思ってた》
”ちょっとした知り合い”のスキャンダラスな出来事に、ポンポンと活発に投稿がなされていく。
心底気持ち悪いと思った。
拓海はSNSをしていない。見知らぬ人間とつながるメリットもわからないし、実際、こういう希薄な人間関係を築いていた未零を理解できなかった。
そのあと、どうやって姉の家から帰ったのか、覚えていない。
疲れた。
本当に疲れた。
やはり家出なのだろうか。警察に行かなければ。そう思いながらももう、なにもしたくなかった。ソファに倒れ込みまどろんでいって、目を覚ますと日が傾きはじめていた。
「パパー! おなかすいた」
涼に揺さぶられて目を覚ました。頭が鈍く痛む。
こうして途中でむりに起こされるといつもそうなってしまうのだ。冷蔵庫を見たがお茶がない。水はぬるくて飲みたくなかったので、姉の家に行く途中で買ったコーヒーで痛み止めを流し込んだ。
「ねーねーどこか遊びに行こうよ」
「もう夜だよ、涼。行けないよ」
「つまんない!」
「……ママがいないのに、なんで遊ぶの」
漣がぽつりと言った。
「だってママがいなくてつまんないから遊びたいんだよ! パパはゲームもさせてくれないしさあ。カラオケとかいこうよ」
涼は無邪気に言った。3歳というのは、──こういうものなのだろうか。母親の不在が辛くはないのだろうか。澪の問題はなにも解決していない。でも、子どもたちには確かに今の状況は酷かもしれない。
拓海は涼の希望通り、ふたりをカラオケに連れて行った。
食事もそこで済ませることにした。
漣は歌いたがらなかったが、一度曲が入ると、少しすっきりした顔になった。心のうちにこもったものを歌に乗せて、すこしは吐き出せたのだろうか。それにしても、ずいぶん歌がうまくなった。カラオケに表示される歌詞を自分で読んで歌っている。
まだ文字が読めない涼は、耳で聞いて覚えているようだ。
休みの日はこうしてよくカラオケに来た。──そういえば、澪は歌詞を覚えることができなかった。ふとそこにいないはずの横顔が見えてくる気がした。
くり返し歌ったはずの曲なのに、いつになっても歌詞を覚えられずに不思議に思ったものだ。澪は10年以上ピアノをやっていて、一時期はピアニストを目指していたくらいなのに。
やがて注文した食事が出てきた。ポテトとチキンと、チャーハン。チャーハンの中心部は、まだ冷たかった。それでも子どもたちは、気にせず口に運んでいる。
澪が消えても、時間は勝手に進んでいく。
ふいに不安になった。
2.シナスタジア
その夜、拓海は、はじめて妻の書いた文章を読んだ。
5年間で書かれたという2000近い文章を、最初から最後まで。
これまでの違和感が、信じきることはできないものの、──納得はできた。
3年ほど前に妻が、澪が書いたある文章を読んだときのことだ。
シナスタジアという答え
❤126 2022年7月23日 23:58
冬河未零
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そうか、そうだったのか──。
驚きと納得のあまり、先生の声が遠くなっていった。
その文章は、そんな書き出しではじまっていた。
あれはたしか、高校の英語の授業だったのだと思う。"シナスタジア"と呼ばれる人たちについて書かれた文章だった。それを読んだ私は、なぜ自分が「黒いノート」をつくるのか、ようやく腑に落ちたのだった。
黒一色でつくりあげるノートは、私を安心させてくれた。書いた内容が短時間でじゅわりと浸透するような、わかりやすさがあった。参考書でも問題週でもそうだ。
逆に最初の数ページで挫折したのは、カラフルなもの。あらかじめ大切な部分が赤字や青字になっていたり、蛍光マーカーのようにハイライトがついていたり、図版がすべてカラーだったりした。とても綺麗な本で、わかりやすくまとめられている。
それなのに、──まったく頭に情報が入ってこない。目がすべる。結局、開くだけで気疲れしまって、進めることができなかった。
今ならわかる。それは、ここにあるのが"私に見えている色"と違うからだ。混乱して情報過多になっていたのだ。
そこまで読んで、トイレに向かった。
頭の中で反芻していた。何度読んでみても、理解することはできなかった。
シナスタジアは"共感覚"のこと。生まれつき、文字や音などに、特定の"感覚"を感じる性質を持った人たち。
感じ方は人によって違うらしい。
私の場合は、特定の文字に「この文字はこれだ!」という色があるような、不思議な確信がある。数字、ひらがな、アルファベット、カタカナ……同じ読みだとしてもそれぞれが違った色を持つ。
また、音階にも音がある。ドなら赤、レなら黄色、ミなら緑……といったように。すべての文字に色を感じる訳ではない。1つひとつの文字として見たとき、あるいは言葉として見たときに、この色で書いたら心地よいなという雰囲気である。
文字に色がある。──音に色がある? なんだそれは。
ふと、トイレットペーパーがなくなりそうなことに気がつく。ネットショップで注文するが、クレジットカードの番号がわからない。
「澪……」
そう言いかけて、口をつぐんだ。玄関から財布を取ってきて、1文字ずつ打ち込んでいく。
「0426、8253、4974、3624……」
この16桁の番号を、澪は暗記していて、ネットで入力が必要なときは、カードを持ってくるよりも彼女に聞くほうがずっと速かったのを、思い出した。
歌詞を覚えられないのは、色が邪魔をしていたとしたのだろうか。
はじめは思い込みなのだろうかと思い、参考になるサイトをいくつか見てみた。調べてみたところ、私が「これは」と思っている感覚は、共感覚の中でも「色字共感覚」というもので、割合が多いようだ。
一方、共感覚にはほかのタイプもあることを知った。読んでみたが、当てはまらないという確信がある。そして同時に、「そんなことあるの!?」と驚くような不思議さを覚えた。文字に味がある。音ににおいがある。──それは、私には決して持ち得ない感覚だと思った。
だから、ほかの人から見たら、私もそういうふうに見えると思う。「思い込みだ」とそう言われても、ちがうとする証拠もないので、人にはこの感覚を言わずに生きてきた。
美しいイラストが添えられていたり、綺麗に色分けされているノートに憧れていた。今でも好きだし、できたらそういうものを作りたい。
けれども、やってみてもしっくりこなくって、結局私はここに……黒いノートにもどってくるのだ。
最後まで読んだとき、ふと違和感があった。
なにが違うのかわからなかったが、そのまま読み進めていく。そして、ふたたび最新の投稿……きょうの日づけになっている記事にたどり着いたとき、拓海は違和感の正体に気がついた。
そして、警察へ向かった。
3.疑惑
寝不足のままコンタクトを入れたので、何度も失敗した。
重たいまぶたをなんとかこじ開けて登園したときの雰囲気は異常だった。
すれ違う母親たちの一部が、拓海を見てひそひそと話をしている。
教室の前まで漣と涼を連れてきたとき、ふと目の前に「ゆずちゃんママ」がいることに気がついた。
「おはようございます」
拓海に気づくと、ゆずちゃんママも、彼女と話していた先生も、ぴしりと表情を強張らせた。
「お、……おはようございます」
ゆずちゃんママは、口の片方だけをあげた。無理に笑おうとしている感じだった。
「あの……。私がなにか……」
拓海が尋ねると、彼女は「いえ、なにも」と俯いてしまった。
「すみません。言いづらいことなのかもしれないですが、……こうして遠巻きにされている状況は正直、気になります」
ややあって彼女は、言いづらそうに口を開いた。
「その……。漣くんママが……」
それから彼女はそっと拓海に近づくと「不倫をしていたって」と小声で告げた。
「最後にお見かけした日のお話をしたと思うんですけど……」
拓海とゆずちゃんママは、園庭の隅に移動した。
あちこちから高い声が飛び交っていた。色とりどりの帽子が視界にちらつく。澪は、こういう場所をどんなふうに見ていたんだろうか──。ふいにそんなことを思った。
「あのあと、……その……、漣くんママを見かけたって人がいるんです。高松港で」
「高松港……」
「離島に行く船に乗っていたそうなんですが、そのときに漣くんママと若い男性が話していたのを見かけたって。パパだと思って気にもとめていなかったそうですが、その、最近、パパが送りでしょう?」
「そいつとは別人だというわけだ。それで駆け落ちってうわさでも出てるんですか」
拓海が自嘲すると、ゆずちゃんママは気まずそうに目をそらした。
二人を気にもとめずに歩いていく人がほとんどだが、やはり一部の母親はこちらをちらちらと窺っている。──くだらない。
「もどられてないんですよね? じゃあ、やっぱり……」
ゆずちゃんママは、言いにくそうに口をにごした。
「駆け落ちですか? それはないですよ。ない」
「でも……」
これ以上話しても無駄だ。そう思い、拓海は会社に向かった。
澪の父親は、彼女が幼いころに蒸発している。
彼女の友人の母親といっしょに。駆け落ちしたのだ。そのことにいつまでも傷ついていた。拓海との結婚を迷うくらいに。
「もう、あんな思いはしたくないの。捨てられるのはいや。いやなんだよ」
だからこそ、澪がその選択肢を選ぶことはありえないと思った。そう言い切れる自信があった。
帰宅後、未零の書いた文章──『透けるノイズ』を読み直していた。コメントが増えている。
たぶん、未零さん、見つけました。前に載せてた結婚指輪とバッグ、どちらもいっしょだから間違いないと思う。男の人といっしょに映ってたんだよね。見たい人いたらDMして。
>イヲリさん
いや、さすがにそれはちょっとやりすぎだろう……。大体どうやって見つけたんですか。
>YJさん
インスタで船の行き先になってる島の写真を検索したんですよー。いまイベントをやってるみたいで、たくさん上がってたんで。
しらみつぶしに探していったら、それっぽい人見つけました。
いや~思ってたより若くなかったです。笑
>イヲリさん
これまでの一連の流れを見てきましたが、あまりにもひどいのではないでしょうか。未零さんがどんな理由でお休みしているのだとしても、あなたがしていることは人としてどうかと思います。
翌日からゴールデンウィークに入り、会社も休みになった。
拓海は子どもたちを徳島の姉に預けて、離島へ向かうことにした。
第3話へ
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