午前0時のママチャリ
真夜中に外に出たのは、──12年ぶりだった。
車輪がからからと回る音が、夜に溶けていく。
いつもは子どもを乗せて走る坂道を、わたしは一人で駆け下りていた。
大通りから一本入ったその道は、田んぼや畑が続き、街灯のひとつもない。遠くまで続く田んぼも、ぽつりぽつりと見える家々も、昼間とはまったく様相を変えていて、真っ暗で。星の光だけが冴え冴えと輝いている。
その日、昼間の気温は35度で、日が落ちてもまだ蒸し暑かった。
家を出たときは少し自転車を走らせただけで汗が吹き出してくるくらいだったのに、虫の声が空気を冷たく揺らす。火照った頬に受ける風が身体をしんしんと冷ましていく。
ようやく秋の輪郭が見えてきたのだと、知った。
風を切るような感覚が、同級生と塾に向かうときに通った坂道を思い起こさせた。勉強と遊びだけしていればよかったずっとずっと昔にタイムスリップしたような清々しさを覚えた。
それまでのわたしは、日々、小さな不満を抱いていた。
子どもが生まれてから、わたしだけが自分の時間をほとんど持てなかったからだ。
夫には自由な時間がたくさんある。
午前9時。子どもたちが出発したあとも、夫はまだ寝ている。
ゆっくり起きてゲームをして、早めの昼食を食べてから出社する。遅番出社で帰宅は21時過ぎ。
夫が帰ってきたときには、子どもたちは眠っていることも多い。
わたしが一人でお風呂に入れて、一人で寝かしつけを終えた後に帰ってくる夫は、夕食を食べたらゲームをしたり、外に走りに行ったり、サウナやジムに行ったりする。
わたしはその間もずっと家だ。
寝かしつけたあとでも子どもたちは起きてくる。早起きと日中の疲れで遅くまで起きていられない。
しかも、子どもが通園・通学するようになったいまも、日中一人になれるのは5時間あるかないかなので、仕事とお昼ごはんでほぼ終わってしまう。
子どもがずっと家にいる土日や長期休暇は、子どもが寝た後、ここからようやく仕事を始められるのだ。
仕事とわたしと家族と
外で働かない。
好きなことを仕事にした。
たったそれだけで、知人からも家族からも、仕事は”仕事”として扱われない。
「家で仕事できたらラクでいいね」
「……仕事?」
本を書くとか、テレビに出演するとか、”仕事”としてわかりやすいものは応援してもらえた。
たとえば、Zoomを使ってテレビ収録している間、夫は半休を取って、子どもたちを見てくれていた。
自宅で本の撮影したときは、夫が子どもを見てくれるからと土曜日になった。
(ただしこのケースでは、どこでも眠れる夫が、大人4人が集まって撮影をしているワンルームでふつうにベッドで寝ていたので、まったく意味はなかった)
でもそれ以外のことは、”仕事”だと認識されていなかった。
今でも思い出すのは、上の子が生まれたばかりのこと──。
子どもが入園する前は、身を削って書いていた。
子どもが寝ている間以外に”自分のこと”をしてはいけないというからだ。
乳飲み子が昼寝をしているほんのわずかな間。
重たく落ちてくるまぶたと戦いながらコラムの原稿を仕上げ、メールを返信した。
寝かしつけの記憶はなかった。気絶するように眠っていたからだ。時計を見ると、午前0時をとっくに過ぎている。
頭の中は〆切への焦りでいっぱいなのに、どうにも身体が動かなくって、のろのろと布団から抜け出す。真っ暗なワンルームの片すみで、手元灯とパソコンの青白い光だけをたよりに明け方まで資料をつくった。
子は添い寝をしていないと起きて泣いてしまう性質で、わたしは何度もベッドとパソコンを往復し、思うように進まないことに苛立っていた。
そんなふうに思ってしまう自分が母親失格で、恥ずかしくて、消えてしまいたい気持ちにも襲われた。
当時、夫は付き合いだからと毎週飲み会に出ていた。
もちろん、年少者としての役割があり、大変だったことはわかっている。
予約したり、場を盛り上げたり、話を合わせたり。そういう気苦労があったことも、今ならわかる。
でも当時のわたしはいっぱいいっぱいで、人が作ったごはんを毎週食べてくることや、子どもの泣き声を聞かずに過ごせる時間があること、そもそも一人で外を歩けることさえもが羨ましかった。
パソコン作業でバキバキになった肩を回しながらお手洗いに立つ深夜3時。
酔って帰宅した姿のまま洗面所の床で眠り込んでいる夫を見ては(動かそうとしても、布団をかけても怒るのでそのままにするしかない)、とても孤独な気持ちになった。
当時は夫も毎日終電で大変だったから、がまんできていた。
移住して、声を出す日がなくなった
東京を離れたら、飲み会はなくなった。
車社会だ。飲むためには、運転代行を頼んだりといったひと手間が必要で、毎週飲み会というようなことはなかった。
でも、わたしの孤独感は増すばかりだった。前よりも時間ができた夫は、ゲームばかりしていた。スマホのゲームはイベントのようなものがあって、その時間を最優先にした行動をする。
わたしは、家族以外の前で、声を出す機会もなくなった。
移住してから5年。今でこそ、気兼ねなく付き合える友人がたくさんいるものの、はじめの数年間は知り合いが一人もいなかったのだ。
移住してすぐコロナ禍になった。行事がない。バス通園で、園での知り合いもできない。
児童館や支援センターに行きたくて探したけれど、引っ越してから最初に住んだ場所は、電車もバスも近くを通っていなかった。
乗り合いバスは終バスが14時。
行ったら帰れない片道通行。
(しかも、車体が小さいのでベビーカーは畳んで乗せても嫌な顔をされた)
タクシー会社に電話してみた。
「今車いないんで」と素っ気なく言われる。
「何分くらい後なら来てもらえますか?」
質問すると、ため息をつかれた。
「わからないんで無理ですね」
びっくりした。
何度か利用したけれど、終始こういう感じで胃が痛くなった。そもそも電話を取ってもらえないこともあった。
結局利用を諦めた。
予防接種のために片道40分。
市の検診のために片道80分。
ベビーカーを押して、ただもくもくと歩く道は、いくら歩き続けても田んぼが広がっているだけ。コンビニどころか自動販売機もない。
その長い距離を歩く間、たった一人ともすれ違うことがない。
ベビーカーの中ですやすや眠る息子がいなかったら、たとえば、ここでわたしが叫んだとしても、きっと誰の耳にも届かないような……。
「でしょう? だから運転しないと」
会う人のほとんどに、そう諭される。
「運転しないなんて変わってる」
「子どもがかわいそうだ」
「習い事の幅が狭まる」
「車がないとここでは生きていけない」
「誰でもできることだよ?」
理由があって、運転のことを考えるだけで涙が出そうになるわたしには、それも辛かった。
わかっている。
母なのに運転をしないわたしがすべて悪い。
わたしが非常識なのだ。……それはわかっている。
でも、毎年「今年こそは車に乗らなくちゃ」と決意するのだけれど、ひゅっと呼吸が浅くなる。
事故で亡くなった祖父のことを思い出してしまうのだ。
祖父は長生き家系で、皆、享年が90歳以上だった。祖父の母親なんか、100歳を越えても元気だった。祖父も間違いなくそうだと思っていた。
「いますぐ職員室に来てください」
自分の名前が呼ばれたのは、部活の途中だった。怪訝に思いながら職員室に入ると「落ち着いて聞いてくれ」と、ドラマなんかで見るセリフが先生の口から飛び出した。
祖父を含めた数人が事故にあったこと。そのためすぐに家に帰るように、ということ……。
命は一瞬で消えてしまうことがあるのだと知った。
”母としての責任”がある。
今の住まいに引っ越す前は、電車もバスも一切なく、下の子も乳児だったため夫に頼るしかなかった。当時、園では「超イクメンの模範的なパパ」と「働いてなさそうで妊娠もしていないのに送迎をしない謎の妻」としてひそひそ噂されていたらしい。
いまは、徒歩とバスと電車と自転車を使い分けて、何とかひとりで送り迎えをやっている。
それではまだ足りないらしい。
「運転しないことで、あらゆる人に迷惑をかけている」
夫にそう言われると、運転への恐怖や不安だけではなく、さまざまな感情が湧き上がってくる。
引っ越すことでいくつもの仕事を諦めた。家事100%育児95%をひとりでやっている。それなのに、まだこれ以上を求めるのかという怒り。
わたしや子どもたちを車に乗せて遊びに連れて行ってくれるママ友への申し訳なさと不甲斐なさ。
──そうして感情が振り切れて、喧嘩になる。
”母”という生き物
仕事よりも子どもを優先すること。
自分の時間がないこと。
不得手なことでも怖いことでもやること。
”母親だから”。
だから、そんなのはすべて当たり前のことだ──と、”母”という生き物としての生き方をさまざまな”目”が強制してくる中で、わたしは息苦しさと孤独感を覚えていた。
でも、そもそも、そういう息苦しさを感じているのは、わたしだけなのだろうか?
ママ友たちとも、個別に仲良くなってみると、意外な過去や、スキルや、趣味があって驚くことがある。
でも、”個”として関わることのない、その他大勢のことは、お互いに”◯◯ちゃんママ”としてしか見ることができない。
個性や背景ある一人の女性としてではなく、名もなきたくさんのママの一人。そんなふうに目に映ってしまう。
だから、汚い言葉で怒り続けるママや、ママらしくない振る舞いの人を見ると、背景もわからずに眉をひそめてしまうし、環境に恵まれているママには妬みの感情が生まれたりもしてしまうのではないかと思う。
「母親らしい姿」から逸脱してはいけない。
そういう、なぞの義務感は、いったいいつの間にインストールされたものなのだろう。
「お母さんが自分のことを楽しんで笑顔でいるのが一番大事」
「ママの幸せがみんなの幸せ。罪悪感なく自分の時間をつくろう」
……と、子育て本の多くに書かれている。
わたしはそうした文章を見ると、苦しくなってそっと本を閉じる。
似たようなことは、家事の本でも言えることだ。
ママの笑顔のために、
「高額な家電は投資。罪悪感を持たずに導入しよう」
「家事はムダなこと。適当でいい」
「家事なんか代行しちゃえばいい」
近年は、そういう傾向にあるような気がする。
もちろん、わたしに響かないだけで、このメッセージで救われる人がいるのもわかっている。迷っている人の、背中を押してくれる文章だ。
ただ、わたしの場合は、自分のことを楽しんだり、”当たり前のこと”である家事を自分でやらないのが許されない環境で。
だから、悩んでいるのだ。
わたしが家事のことを書き続けているのには、ここにも理由がある。
同じような環境にある人に、自分自身の力だけで改善できる工夫として「これ良かったよ」「らくになったよ」と伝えたくて。
家族を変えることはむずかしい。
だから、自分の姿勢と行動を変える。大変だけど、じつはそのほうがずっとはやくて確実。
だからわたしは、日常のなかにあるむだな時間を1秒でも削りたいし、1%でもいいからラクをしたい。そう思いながら、日々の家事を観察している。
夫だけを責めているわけではない。
夫の視点に切り替えれば、運転をしないママがクラスで3人しかいないような環境だというのに、運転を異常に怖がり、何年経っても頑なに避けているわたしこそが、"変わってくれない家族"なのだから。
「ないものねだり」と午前0時のママチャリ
いつもは子どもを乗せて走る坂道を、わたしは一人で駆け下りていた。大通りから一本入ったその道は、田んぼや畑が続き、街灯のひとつもない。
風を切るような感覚は、まるで同級生と塾に向かうときに通った坂道を思い起こさせて、わたしは勉強と遊びだけしていればよかったずっとずっと昔にタイムスリップしたような清々しさを覚えた。
12年ぶりに一人で真夜中に外を走っていたわたしは、そのとき、”ないものねだり”をしていることも改めて実感していた。
その日わたしが外にいたのは、夫が出かけてきたらと言ったからだ。
5歳の下の子が、姉の真似をして子ども部屋で寝たがるようになった。そして、それが習慣化した。
「最近だれも起きなくなったし、寝たあとに、銭湯とか行ってきたら? 夜なら別に俺がいるし」
銭湯でゆっくりした。家を出るときはまだ子どもたちが起きていたので、何度も不安になった。
土曜日だったから、いつもより混んでいる。
遅い時間だというのに、子どもたちと同じくらいの年齢の子どもを見かけると、あの後すぐに眠れたかなと心配になる。
家族で行くときは早い時間に帰るので、客層もずいぶん違って、大学生くらいの子たちが楽しげに過ごしているのを見ると、不思議な感じがした。
まだ湯上りの火照りを残したまま、自転車を走らせた。
大通りを長いこと走り、坂道を登って、そして降りて──。
確かに、今のわたしには”自分の時間”がない。
けれども、同級生と塾の帰りに坂道を駆け下りていたころ、あるいは一人暮らしの大学生時代、あるいはふいに涙がこぼれるのに驚きながら終電に揺られていたころ……。
そんな、これまでの人生で憧れていたものを、わたしはすべて持っている。
喧嘩をたくさんするし、価値観の違いも多いけど、一番の理解者であり、この人と生きていくと思える相手がいること。
子どもたちが、いつも「ママ大好き」と手紙に書いてくれること。
幼稚園に行けば声をかけてくれるママ友がたくさんいて、誰にも貶められないこと。
ママ同士としてだけではなくて、わたし個人として仲良くできる友だちもできたこと。
10歳からの夢だった「書くこと」を仕事にしたこと。
中学生のとき。
わたしは自分でごはんを作らなくてもいいし、勉強や遊びに打ち込んでいればよかった。自分の時間は山のようにあった。
でもいっしょに塾に通っていた同級生は違うクラスで。学校に行けばクラスの中でわたしは孤立していた。休み時間のざわめきが苦しいけれど逃げる場所なんかなくって、ただ教科書や本と向き合っていた。いつかここから抜け出せる。その思いだけで生きていた。
大学生活は毎日が楽しかった!
友だちもたくさんできた。
でも、高校時代に出会った彼氏(夫)とは遠距離恋愛で、新幹線に乗らなければ会えなかった。彼を駅で見送るとき、胸が引き裂かれそうなくらい不安だった。
就活では50社落ちた。未来が見えなくて、就職とか結婚とか、そういうものができるのかわからなくて、不安で仕方がなくて、眠れない夜が続いた。
長い長い就活の末に、大手企業に入社できた。配属先も希望通り。23区のデザイナーズマンションを借りて、わくわくしていた。
長い遠距離恋愛も終わった。
ようやく生活が安定した。
……ところが半年ほどして、先輩に”お菓子はずし”をされるようになった。
わたしだとわからないように言われる悪口にも、挨拶しても戻ってこない返事にも心を刺された。
「贅沢」な悩み
社会人時代。
改善が趣味のわたしは、自分の業務をどんどん効率化していた。
仕事にも慣れてきて秋ごろになると、定時前には自分の仕事は終わっていて、いくら探しても電話を取る以外にほかに出来そうな仕事は無い状態になっていた。
でも、帰れないのだ。
先輩が仕事を終える終電まで。彼女はいつも、午後の間中ずっとおしゃべりをしたり、おやつを食べたりしてサボっている。そうして、定時が過ぎたあとから急に焦って働きはじめる。
彼女が「帰る」と言い出すまで、横で雑務をしながら待たないと、ただでさえ多い悪口が何十倍にもなって降り注ぐ。
それならと手伝いを申し出ても不要だと突っぱねる。
ほかの上司に掛け合ってなんとか雑務をもらい、自分のこととしか思えない悪口を聞きながら、ひたすらパソコンに向かう。
1日中隣で「使えない」とか「非常識」とか「今日なんで笑顔なんだろうね、気色悪い」と言われ続けるのは、離れられない分つらかった。
あまりの言葉に驚いてそちらに目をやると、先輩はにやにやしながら「どうかした?」と聞いてくる。
「わたしのことですよね?」わかっていても、その言葉はぐっと喉の奥に吸い込まれていった。
食べられなくなり、眠れなくなり、胃にこれまで感じたことのない痛みを覚えて病院に行った。
胃潰瘍だった。
夫は細かいし、自分は動かないのに求めているもののハードルが高い。それが悔しくてぶつかることもよくある。
でも、すっかりやせ細り、胃を押さえて荒い呼吸をしているわたしに
「会社なんか辞めて結婚したら?」
と言ってくれたのは夫だ。
「適当にバイトとかしてさ、空いた時間で小説書けばいいじゃん」
当時の彼は、まだ学生だった。
突き上げてくる胃痛にぽろぽろと涙を落とすわたしの背中をさすりながら、明るい調子で言った。
あまりにも軽く言うので、なにかの冗談だと思っていた。でも、そうだったら。なんて幸せな夢だろうと思いながら眠りについた。
次の日のわたしは「電話対応中だったせいで他の電話を先輩に取らせてしまったこと」を責められていた。
「あーあ、誰かサンが電話に出ないせいで、あたしが対応しなくちゃいけなくなっちゃった」
わたしは一人しかいないのだから、電話中に別の電話を取れないのは当たり前では…? と思いながらも、心は死んでいた。
終電の一本前に乗れた。意外と人は少ない。長い通勤時間の間に、先輩との間にあった出来事と、心のうちを、SNSにふわっと吐露した。
すぐに、友人からコメントがついた。
「贅沢」
同い年の彼女は、かなり若いうちに結婚して、3人の子どもを育てていた。
「私は毎日、子どもの世話に追われてる。働けることって幸せじゃん?
なんで恵まれてるってわからないの?もっと辛い人だっていっぱいいるよ。
世界には恵まれない子どもたちがたくさんいるよね? その子たちと比べてちっぽけな悩みなのに、私よりずっと良い環境にいるのに、なんで悩んでるの?贅沢だよ」
今のわたしならわかる。
”彼女”も自分の時間がなかったのだ、きっと。
満員電車に揺られる時間も、一人で食べるコンビニ弁当も、もしかしたら、きっとそれさえ羨ましく思えたのではないか、と。
でも当時のわたしは、そんなことなど想像もできないので、心をずたずたに引き裂かれただけだった。
震える指でアカウントごと消した。
そうか、わたしの感情は贅沢なんだ。でも、この行き場のない気持ちは、不安は、どうしたらいいのだろうーー。
夫がわたしにくれたもの
泣きながらふらふらと帰宅すると、彼がいつになく真面目な顔をしていた。
「オカンに電話した。結婚していいって」
それから彼は、ぽかんと口を開けているわたしに、結婚するためにどうするのかを建設的に提案してくれた。
明るい茶髪を真っ黒に染め、翌週には就職先を決めてきた。
そして翌月にはわたしの実家がある青森に飛んでいた。
ほんの数ヶ月前まで、彼は「結婚は30歳を過ぎるまでしない」と言っていたのに。生活が安定して、初めて結婚に踏み切れるのだと。
だからそれは、弱っていくわたしを思って、彼が人生を変えた決断だったのだ。
──3ヵ月後。わたしは仕事をやめた。
その日は最後の勤務日で、同期が送別会と結婚祝いを兼ねた飲み会を開いてくれた。
終電までみんなで飲んだ。駅に着いて、商店街の中をふらふらと歩く。いつもは涙で滲んでいた灯りが、キラキラして見えた。ドアを開けると、彼が「おかえり」と言った。
それが今から12年近く前。
わたしが最後に、一人きりで、真夜中に外へ出た日の記憶だ。
数カ月後、籍を入れた。
新入社員の結婚は前代未聞だったらしくて、肩身の狭い思いをさせてしまった。
わたしのささやかな幸せは、23歳だった夫の、当時の決断がなければ、そもそも存在していないものなのだ。
わたしには今、確かに自分の時間がない。
”母”という枠に、自分をぐちゃぐちゃに押し込められる不自由さも感じている。
でも、すでに手にしているものはたくさんある。
何度でも不満は生まれると思う。
それはそれで、仕方がないことだと思う。苛立つことも、さみしいことも、悲しいことも。
感情はすべて、"今"を軸にして生まれるものだと思っている。
いつか、友人が言ったことを思い返す。
「自分よりもっと辛い人(苦しむ世界の子どもたち)がいるから、悩むのは贅沢だ」
そう考えてしまうと、何一つ悩めなくなってしまうのではないだろうか、と。これまでのどんなライフスタイルでも、それぞれ恵まれていることと、苦しんでいることがあった。
だから、悩む気持ちは否定しないと決めた。否定するときっともっと苦しくなる。
不満を持ってしまう自分のことを受け入れることにした。
でもそれだけだと、”今”を大切にできない。
だから、何度でも、あの日のことを思い出すことにしている。胃の痛みも。日々貶められる辛さも。
自分が手にしているものに目を向けて、昔何をほしかったのか思い出したいのだ。
”今、ここ”にある小さな幸せを取りこぼさないように。
夜に出かけていいのは、あの一度きりなのかと思ったら、あれからもたまに「今日も銭湯行ってみたら?」と夫は言ってくれるようになった。
だから、前は「ずるい!」という気持ちでいっぱいだったのに、わたしも夫に「今日サウナ行って来たら?」と笑顔で聞ける。
運転するのはまだ怖い。意識がないまま何年も眠り続けた祖父を思い出してしまう。
でも、夫が運転している様子を、同じ方向を向いて、観察している。
午前0時、ママチャリで坂道を駆け下りながら、わたしは決意していた。
夫が自分の姿勢を変えてくれたから。
だから、わたしもまた、一歩でも変わらなければ、と。
▼後日談を書きました。
追伸、
みくまゆたんさんの企画に参加したくて、すこし書き直しました。
企画を知ったのがこの記事を投稿した直後だったので、後からリンクを貼る形になってしまうし悩んだのですが、ほかの方の作品を読んでいたらどれも面白くて──。
やっぱり参加してみたいと思いました。
明るい話題ではないし、新しく違うテーマで書くことも考えたのですが、わたしのいまの自分語りはこれかなって。
運転をしていないくだりは、責められるべきことだとわかってるので、書くのが怖かったのですが、夫のことだけになっちゃうのもなあと思い勇気を出しました。
この長い長いお話を読んでくださった方がいたら、本当にありがとうございます。
※夫には、以前、書くことの許可をもらっています。
※実在する人とのやりとりは、ある程度フィクションを加えて、本人に届いて傷つくことのないようにしてあります。
▼お仕事のことはここに書いています…
▼エッセイはこちら。
▼自己紹介はここ。
いいなと思ったら応援しよう!
最後までお読みいただき、ありがとうございます♡