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短編小説 │ はじまりはいつも船上 《三題噺》



別れの言葉がこぼれたのは、船の上だった。


水平線に夕日が落ちるように、わたしたちは終わった。
静謐に、でも確実に、昨日と今日が地続きではなくなった。──終わってしまったのだ。





5つ年上の夫とは、地元が同じだった。


当時、個人サイトが流行っていた。自己紹介や日記、小説、チャットルーム──趣味の寄せ集めのようなページを、みんな夜な夜な手作りしていた。


わたしもなんとなく、書くこともないまま、白紙のページをひとつ持っていた。


高校の同級生のホームページから、なんとなくリンクを辿っていく。

友だちの中学のクラスメートのお兄ちゃんの、そのまた友だちの高校の同級生……。どこまでもつながるリンクの海に潜っては、見知らぬ誰かを探していた。


自分とぴったり合うだれかに出会いたかったのかもしれない。

その終着点が、直樹だった。


直樹は5つ年上の大学生。

彼はサイトに小説を載せていた。今思うと、ジャンルは純文学。本を読むのは好きではなかったが、なんとなく目にした彼の小説を読んだとき、時間が止まったような錯覚を覚えた。


なにが好きだったのか、今でもはっきりとは言えない。

けれど、彼の文章に触れた瞬間、胸の奥がじんと痺れた。


そこに描かれていたのは、はっきりとしたわかりやすい結末のない物語ばかりだった。けれども、たとえば夜の校舎の匂いや、夕暮れの絶望だとか、知らないはずの情景や感情だというのに、なぜか懐かしさを感じてしまった。


恋、だった。
彼の書く世界に、私は恋をした。



直樹のサイトを見つけたわたしはリンク・ダイビングをやめた。ただひたすら彼のこれまで書いてきたものを遡って読み漁った。




当時よくあったように、彼のサイトにも、足あと帳と呼ばれる、通りすがりの閲覧者が書き込める掲示板のようなものがあった。

わたしは読んだままの勢いで、素直な感想をコメントで残した。すると、ほどなくして返信があった。


《ゆかりさん、ゾロ目のキリ番、おめでとうございます。222って数字は、森の葉っぱに似ていると思いませんか》


《なんの、はなしですか……?》


あとになって知ったのだけれど、キリ番というのはきりの良い番号のことで、100や200などの数字ぴったりのものや、ゾロ目のものを指すらしい。


サイトに訪問した「キリ番」の人を祝う。そういう風習が、あの当時はあったのだ。
222が森の葉っぱに似ているというのはついぞ意味がわからなかったけれど。




そのやりとりから、少しずつ距離が縮まっていった。

好きな本を聞いたら『枕草子』だという。古典の授業で少しふれたけれど、人とは違うそのチョイスがかっこいいと思った。




SNSがまだなくて、ただ待つしかなかったあの頃。
偶然は、強い引力を持っていた。それが正しい道だと錯覚させてしまうような。




やがて二人で会うようになった。大学2年のときにお付き合いをはじめた。卒業と同時に結婚した。





結婚して半年ほど経ったある日、直樹に辞令が出た。
ひとりで残る選択肢はなく、私は彼について香川に住まいを移した。迷いはなかった。


引っ越しのトラックにすべて荷物が積み込まれたあと、わたしたちは愛車のレガシィに乗りこんだ。直樹の運転で、ふたりで新居へ向かう。


途中のサービスエリアではいちいち降りて、わたしは記念スタンプを探したりご当地グルメを食べたりしていたが、直樹はあちこち写真を撮って回っていた。


彼は社会人になっても小説をずっと文学賞に応募し続けていたが、芽が出ることはなかった。





夏の朝だった。久しぶりに休日が合った。

わたしは土日休みで、彼はシフト制だったものだから、なかなか休みが合わなかったのだ。


久しぶりの”デート”に浮足立ち、早起きしてお弁当をつくっていた。

彼が好きなのは、綺麗な卵焼きだ。きちんと丁寧な手順でつくられた、上品な甘さがある淡い色の卵焼き。焦げ目なんてついていなくて、味が濃すぎないもの。


これを作れるようになるまで、ずいぶん、練習したっけ。


直樹はまだねむっている。


春はあけぼの、夏は夜……。彼は枕草子を体現したいと、季節によって起きる時間を変えている。夏は夜ふかしばかりしているので、まだ起きてこないのだ。





わたしたちは、高松港から赤い縞々模様の船に乗った。直樹はどこか不機嫌だった。わたしを港で下ろし、少し離れたコインパーキングに車を置いてもどってきた彼は、わたしを見るなりため息をついた。


「結局、ゆかりは運転しないままだったな」

どこか気まずいまま、船は出港した。

わずか20分で女木島についた。


直樹についていく。船を降りてすぐのところに案内所があった。彼はふたりぶんのチケットを買った。

バスに乗り込むと、たくさんの乗客を引き連れてほどなくバスは出発した。

ぐるぐると山を登っていく。三半規管の弱い直樹は、青い顔をしている。わたしはそっと彼の背をさすった。



バスを降りたあとは、山の斜面に作られた階段を登っていく。けっこう急で、息を切らしながら登った。やがて、鬼をモチーフにした像が見えてきた。


女木島は、じつは「鬼ヶ島」と呼ばれている。桃太郎に出てくる「鬼ヶ島」ではないかという説があるのだ。


山を登ると「鬼ヶ島大洞窟」と呼ばれる人口の洞窟が広がっている。ここが女木島の有名な観光スポットだ。入口で観覧料金を払う。地元のひとらしいスタッフが「写真撮りますよ! スマホ貸してね。無料です」と豪快に笑った。


わたしはスマホを渡そうとしたが、直樹が首を振る。──なんだか、嫌な予感がした。




洞窟に一歩足を踏み入れて驚く。

外は汗ばむくらいだったのに、ひんやりした冷気が広がっていた。灯りは取りつけられているものの薄暗く、不穏な気配が漂うなかに、コミカルな鬼の人形が配置されている。


「ここって、海賊の拠点だったっていう説があるんだって」


もらった資料を読みながら言うと、直樹は「ふうん」と気のない返事をした。いつもなら、こういう小説の舞台になりそうな場所に来ると目を輝かせてメモを取るのに。


わたしは不安になって、直樹の腕に追いすがろうとした。

彼は、するりと避けた。






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腕に硬い胸板が当たる。



私はしょうがないなあと思いながら、自分より背の高い”恋人”を見上げた。


湊みなとは「マジこええ」と震える声で言いながら、私の腕にしがみついている。


「監禁室ってやばくね? こわっ……うわ」


湊はぷっくりしたくちびるを歪めて言った。


鬼たちがさらってきた婦女子を閉じ込めた監禁室……。物語の世界のようで現実味はなかった。こんなにも寒く、冷たい場所に閉じ込められたらと考えるとぞっとする。


「やばいって、ぜったい霊とかいるって」


私は背伸びして湊の頭をぽんぽんと叩くと歩みを進めた。一歩踏み出すたびに靴底にじゃりじゃりした小石の感触があった。





怖いことなどはなにもなく、そのあと、私たちは山頂の展望台に向かった。むしろ怖かったのはここからだ。


頭のすぐそばで大きなクマンバチがぶんぶん音を立てて飛んでいる。

左には崖、右には鬱蒼とした茂みがあり、人がすれ違えないくらいの細い道だ。後ろにも観光客がいるから、進むしかなかった。


「ゆかりちゃん、だいじょーぶ」


湊がわたしの頭の周りでぶんぶんと手を振って追い払ってくれる。

これまで後ろに着いてきていたのに、さっと前に出てくれた。わたしは彼の後ろに隠れるようにして、山道を登り続けた。






「すっげー。こっから高松港見えるじゃん」


湊がはしゃぎながら海の向こうを指さした。

先ほど船に乗り込んだ高松港が、ふんわりと霞みながらもしっかりと見えている。




「ずっと高松住みだけど、女木島って来たことなかったわ。近いなあ。俺、春の午後って好き。ぬくくてさ」


「春はあけぼの、じゃないの?」


「枕草子? あれって、清少納言の感想ですよね?」


湊がわざとらしく言う。わたしたちは、笑った。目尻に滲んだ涙に、彼は気づいていないだろう。





山頂には屋根付きの四阿があった。私たちはそこでお弁当を食べることにした。


「きょうの弁当はねえ、卵焼きサンド」


じゃーん、と効果音をつけながら、湊が持ってきた保冷バッグを開けた。



ラップで包んだだけのサンドイッチがたくさん詰め込まれている。

ていねいにラップを剥がして持ち手をつくりながら、湊はわたしに差し出した。


ぱくり。塩気が口いっぱいに広がった。こんがり焼き目のついた卵焼きは、中に細かく刻んだハムが入っている。直樹との思い出の玉子焼きとは、まったくの別ものだった。……こっちのほうが、好きかも。


最近食欲がなかったけれど、食べきれた。





LINEの通知が鳴った。

高校時代の同級生が送ってきたのは、ニュース記事のリンクだった。



《作家・青山直樹さん、文化小説大賞を受賞──。妻が支えてくれたお陰です》


おめでとう!というクマのスタンプが添えられている。

彼女とは、それほど親しいわけではなかった。LINEが来るのも10年ぶりくらい。──直樹ととっくの昔に離婚したことは話していない。


だから、こんなものを送ってきたのだろう。
心がしんと冷えていく。



せっかく湊がつくってくれたサンドイッチが、紙を食べているかのようにぼそぼそと味を変えていった。



今が幸せだからといって、過去の傷が癒えたわけではないのだ。
別れるときの直樹の言葉は今でもふとした瞬間にわたしの心を抉るので、何年経ってもじくじくと化膿したままだった。






数年前、この島からの帰り道、夫だった直樹から離婚を切り出された。


「俺だけが、お前を守っている」


それが別れの理由だった。

納得できなくて食い下がったけれど、どうにもならなかった。彼は仕事を辞めて地元にもどった。私はふたりで暮らしていたマンションにそのまま残り、仕事も変えず、──湊と出会うまで、ただ灰色の日々を送っていた。


「おまえは、ままごとがしたいだけなんだよ」








そのときだった。


「うわあああ」


湊が叫んだ。驚いて顔を上げると、鳶がいる。


あっという間にサンドイッチが入った袋を持ち去って、高く、高く飛び上がっていった。残された私たちは呆然としていたが、互いの間の抜けた顔を見て、どちらからともなく笑った。


「それにしても、5時に起きてがんばったのになあ」


しょんぼりと肩を落とす湊が愛おしくて、私は背伸びをして、キスをした。そのあとで周りを確認。誰もいなかった。




山頂から降りて、バス停へ戻る。屋根付きの停留所があり、たくさんの人がスマホを見ながらぼんやりと待っていた。

「きゃああああああ」


悲鳴が上がった。


「虫、虫……!」


女性たちは座っていた場所から飛び退いている。彼女たちが先ほどまで座っていた場所に、うねうねと虫が蠢いていた。尺取りだ。




わたしたちはバスを待たずに、停めておいた車に向かった。


「俺が運転しようか?」と湊が聞いたけれど、私はにっこり笑って、ラングラーの運転席に乗り込んだ。背の低い私には乗り降りがちょっと大変な車だけれど、自分で働いたお金で買った。


湊と出会う前のことだ。


長身の湊に合わせてセットされた座席を、自分の足が届く位置に直す。
鍵穴にキーを差し込み、ぐるりと回すと、ぶおんとエンジンがかかる音がした。




「ゆかりちゃん」


湊が困ったような笑顔で言った。

帽子をかぶった視界の端に、にょっきりとなにかが顔を出す。

ひっと息がつまる。湊はわたしの帽子からそっと尺取り虫をつまむと、窓向こうの木の葉の上に乗せた。





ふもとに降りると、戻りの船が出るまではまだ少し時間があった。

フェリーに車を積み込む人のための駐車スペースにラングラーを停め、わたしたちは一度車を降りた。



「おなかへったなー」


湊は口をとがらせる。私は玉子焼きサンドをひとつ食べたけれど、彼は食べる前に持ち去られてしまったのだ。あのときの驚きを思い出し、くつくつと笑うと、湊は口を尖らせた。5つ年下の湊は、かわいい。




「あ、キッチンカーがある」


『惣菜屋・こもれび』と書かれたキッチンカーを見つけた私たちは、その列に並んだ。中にいるのは、まるでむくむくとした大きな男性だった。胸につけられた名札には「鬼島桃太郎」と書かれており、湊が小声で「いやどっちだよ」と突っ込んだ。


「ほとんど売り切れ。俺は木曜日だけここにいるんだ。週替わりはもう売り切れちゃって玉子焼き弁当しか残ってないよ」


「いいですもうおなかぺこぺこだし、玉子焼きは好きです。それください」


間髪入れずにひと息で言いきった湊を見て、鬼島さんは目を細めた。




ラングラーの中で弁当を広げる。


玉子焼きの中には、海苔が巻かれていた。渦巻き模様でかわいい。
おいしそうにほおばる湊を見て、昔、これとそっくりな玉子焼きを作ったことを思い出した。



たまにはいつもと違うものを、と出したら、直樹はひどく不機嫌になったっけ。


「なんで君はこんな邪道なものをつくるんだ。王道こそが美しくて、最高なのに」


彼は玉子焼きだけをこれみよがしに残してから出社していった。すっかり冷めた海苔入りの玉子焼きを、ひとりで泣きながら食べた。


本当はずっと前からわかっていた。わたしたちは、合わなかった。


SNSがまだなくて、ただ待つしかなかったあの頃。偶然は、強い引力を持っていた。それが正しい道だと錯覚させてしまうような──。






湊が運転席に乗り込み、座席の位置をもどしている。私に合わせた配置だと、彼には窮屈なのだ。


ひらひらと手を振る。順番に船の中に車を積み込むので、彼だけ残らなければいけない。私は先に甲板に上がって待っていた。



もうすっかり春だというのに、夏も近づいているのに、船のうえは寒かった。


「ゆかりちゃーん」


視界の端に、湊が登ってくるのが見える。


「さむいね」


それには答えず、わたしは言った。


「赤ちゃんできたよ」


彼の顔は、見られなかった。

長いスカートをはたはたと風が揺らした。視界の下に広がる海には、赤茶けたくらげが弾かれるように泳いでいた。


長い沈黙だった。


顔を上げると、湊の瞳がかすかに揺れていた。

怖くなってぎゅっと目をつむる。


「ゆかりちゃん」


おずおずと頬に触れた手の感触におそるおそる目を開く。湊の目から、つ、つ、と涙がこぼれ落ちていった。その手には小箱がにぎられている。






誓いの言葉がこぼれたのも、船の上だった。








(5,000字)




あとがき


今週もヤスさんの三題噺に挑戦。

《今週の三題噺》
1.ゾロ目
2.思い出のたまご焼き
3.枕草子

三題噺すっごく楽しくて。
5月に書いたのは夫婦の”その後”のはなしばかりだったから、連作短編にしつつ、瀬戸内(というか香川)を舞台にして改稿を重ねています。今回の作品を入れたら完成できそう。

今回は本当に思い浮かばなくて困ったので、最初に”キャスト”を考えてから書いてみました。

ゆかり:趣里さん
直樹:平岡祐太さん
湊:菊池風磨さん

演じてもらうイメージで書いてみると、ぶわっと景色がひろがるというか、書きやすくなりました。


今回のお話ですが、以前、lionさんの企画で読んでもらったときの言葉がすごく印象に残っていて。無意識でやっていたらしいことを、実験的に意識してやってみました。
今週のお題は本当に苦戦したんだけど、構造から考えたらなんとかゴールにたどり着けました。こういう書き方も面白いかもしれない。

#33日ライラン
#木曜日は3ースデイ
#なんのはなしですか







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三條 凛花 最後までお読みいただき、ありがとうございます♡