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短編小説「イーディスの荷ほどき」(「第二回すべて失われる者たち」期待賞受賞作品)

 窓の外ではロンドンの冬特有の、色のない雨が降り続いていました。
空は朝からずっと同じ鉛色で、昼と夕方の境目すら曖昧です。濡れた舗道を走るタクシーが水を裂くたび、街全体が小さく震えました。向かいのレンガの壁は濡れて滲み、まるで記憶の輪郭が静かにほどけていくようです。
 暖房を止めた部屋は冷え、壁紙の継ぎ目からにじむ湿気が、ここで過ごした年月の匂いを浮かび上がらせます。新しいフラットの鍵はすでにバッグの内ポケットの中です。それは必要以上に重く感じられました。五十八になった私がこの慣れ親しんだ古い家を出る決心をするには、それだけの時間が必要だったのです。
 ここでは朝の紅茶の湯気が冬の光を柔らかく曇らせ、夜になると階段がわずかにきしみ、家そのものが眠りにつく合図をくれました。誰かと暮らす時間より一人で過ごした年月の方が長いのに、私はこの家にいて、孤独だと思ったことはありません。
この家は私の代わりに、ずっと待ち続けてくれていたからです。

 段ボール箱の山に囲まれ、床に座り込んでいると、クローゼットの奥から革製の古いスーツケースが顔を出しました。
埃を払うと乾いた粉が指先にまとわりつきます。革のひび割れに爪が引っかかり、私は思わず手を止めました。三十年前のあの日から、一度も開けていない遺物です。
「イーディス、それも持っていくのかい?」
 この家を買うと申し出た友人のマーロウが、トラックを貸してくれていました。彼の声には礼儀正しさと同時に、この家がすでに彼の中ではただの土地である軽さも混じっていました。私は首を振ります。

「いいえ。これは整理すべきものなの。少しだけ時間をちょうだい」
 彼の足音が遠ざかると、家は再び私だけのものになりました。時計の秒針が妙に大きく聞こえます。私はしばらくスーツケースを見つめていました。
開ければ何かが終わり、開けなければ何も進まない。そんな均衡が三十年も保たれてきたことが不思議でした。
 やがて私はラッチに指をかけました。
乾いた金属音が鋭く部屋に広がります。中にはかつての恋人が置いていったものが、昨日のことのように収まっていました。厚手のウールセーター、数冊の詩集、彼が愛用していた古いパイプ。詩集の間から劇場の半券が落ちました。
舞台の内容は思い出せないのに、終演後、寒さで手をこすりながら笑っていた彼の姿だけが思い出されます。さらに奥には小さな砂糖の包み紙が一枚。
彼が紅茶に五つも入れるたび、私は呆れて笑っていた。そんな取るに足らない記憶が、急に鮮明に蘇りました。愛とは劇的な出来事ではなく、こうした他愛のない習慣の集まりなのだと今さら理解します。

 あの日彼は玄関に立ち、振り返ることなく言いました。
「また迎えに来るよ」
 

ドアが閉まる音は小さかったのに、その後の静けさは、家全体が空洞になったように大きく響きました。
 彼は二度と戻りませんでした。事故だったのか、裏切りだったのか、それともただ人生の戯れなのか。答えはわかりません。私は問い続ける代わりに、いつかという言葉を信じることを選びました。クローゼットの暗闇にスーツケースをしまい込むことで、未来を保留したのです。未来が来なければ、終わりも来ないから。
 その間、私は別の男性と出会い、別れ、仕事を変え、肩書きを得て、そしてすべてを手放しました。祝福された日々もあり、深く疲れた夜もありました。
それでもどこかで、人生の本筋はまだ始まっていない気がしていたのです。あの扉が再び開くまではと。
「もし彼が戻っていたら」
 私はつぶやき、ウールのセーターの感触を確かめました。
しかし答えは明白です。私の三十年は、彼に奪われた時間ではなく、彼を待つことで自分を止めていた時間だったのです。

 階下から声がしました。

「イーディス、トラックの準備ができたよ。あとはそれだけかい?」
 私はスーツケースの蓋を閉じました。革の擦れる音が長い沈黙に終止符を打ちます。
「ええ。でもこれは運ばなくていいわ」
 私はそれを持ち上げました。
三十年前より軽く感じたのは、きっと中身の重さが変わったからではありません。外に出ると雨は霧のように細かくなっていました。
通りの角まで歩き、私は一度だけ振り返りました。
窓にはもう誰の背中も映っていません。
この家に置いてきたのは彼ではなく、待っていた私なのだとようやく理解します。
「処分場まで歩くわ」
 マーロウは少し驚いた顔をしましたが、何も聞きませんでした。そして私はスーツケースを引きながら歩き出しました。
迎えに来る誰かのためではなく、
自分が進むために。


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