名前のない側から書く
誰にでもあるような、日常の些細なワンシーン。そこから気づきを得る人がいる。わたしにも身に覚えのあるワンシーンから得た気づきは、共感を生み、すこしの自信をくれる。
紡がれる言葉は、洗練されていて思いやりに溢れている。どんな環境でどう過ごしたら、そんな言葉を紡げるのだろう。
あの人は、訪れたカレー屋さんで自分には作ることのできないスパイスの入ったカレーとナンを食べながら、今日の出来事を振り返り、想像もつかないほど多くの人たちの人生の一部を分けてもらいながら、私の一日は成り立っていると言った。
「だれかの、人生の一部を分けてもらっている」
こんなにもたしかで、やさしい視点が存在している。頭のてっぺんからつま先までを1本の柱が貫いたような感覚を覚えた。
わたしは、同じようにカレーナンを食べてもきっとそこに辿り着けないだろう。嫉妬から渇望へと変化していく心の内に気づいてしまうのは、自分がアマチュアとは言え、物書きの端くれなんだと自覚しているようで苦笑いした。
自分のことを、何者にもなれない人だなんて言っておきながらも、書いて与えられる人として生きていたい気持ちは隠しきれない。それは、潮が引いたら見えてきた岩場のようだ。本当はずっとそこにある、本来ある姿。
でも、その岩場は目を惹くわけじゃなくて、どこにでもある名前も付かない岩場だ。
わたしには、独自の視点とやらが足らないのだろう。
エッセイは、エピソードの強さが勝負じゃないと思っている。エッセイって、ごはんを食べる、身なりを整える、寝る、働く、家事をする、学校へ行く、だれかと話す、だれにでもあるような日常に、わたしはこんな色をつけましたよと言葉や表現で伝えることだと思っている。
だれだって自分の人生が明るく健やかでありたい。くりかえされる毎日の衣食住にだって、当たり前じゃないというきれいな色をつけようとする。でも、きれいな色ならわたしじゃないだれかがもうつけている。圧倒的な鮮やかさで。そんなだれかは、名前を見ただけで読んでもらえたり、手にとってもらえる人だ。
もう、きれいなだけじゃだめなんだ。と、つくづく思う。きれいなものはもう見聞きしすぎて、間違っていないのはわかるけど、時にきれいごとだって思う人だっている。
たぶんだれだって、生きる上で大切なこととか、本当はとっくにわかってるし、書けば書くほど、別にわたしが書く必要ないじゃんと思う日が増えていく。
1行2行書いては、何か違う…と閉じるボタンを押す。わたしのnoteの下書きには“タイトル未設定”の文字が並んでいる。
それでも、また今書いている。
家から一歩も出なくても、他人が何をしているかわかってしまうこの時代。一方で、全てがリアルかどうかはわからない。わたしの日常の景色と、画面越しに見るだれかの日常の景色。あれ?どうしてこんなに違うのだろう。
だから、書いているのかもしれない。
独自の視点は持ち合わせていなくても、名前のないものからのリアルな視点。今度、近所のカレーナンを食べに行ったら、インド人の店員さんにありがとうと伝えよう。
カレーナンのお話は、誠に勝手ながら、エッセイスト春野なほ様のエッセイより抜粋させていただきました。🙇🏻♀️
多くの人たちの人生の一部を分けてもらいながら、私の一日は成り立っている
この言葉に胸を打たれて、何度も何度も読みました!
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