ギフト—胚培養士はいのちをつなぐ— 第五話〖人間の手・二〇二五年 四月十六日 後編〗#創作大賞2025
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顕微授精の難易度は、精子を卵子に振りかける媒精法とは比べ物にならない。一ミリメートルのさらに百分の一の精度が要求されるからだ。だが海音の傍らには芽衣が控えている。最適なタイミングで、いつもの芽衣らしく、的確な指摘をくれるはずだ。芽衣の存在がもたらす計り知れない安心感を味方にして、海音は深呼吸を繰り返した。
顕微鏡下のディッシュの上には、表面張力を保って盛り上がった「ドロップ」と呼ばれる培養液の滴が、精子用、卵子用に分かれて点在する。顕微鏡の脇に配置されたマニピュレーターの先には、極細のガラス管が装着されている。海音は、マニピュレーターに触れ、ドロップの中のミクロの世界を覗き込んだ。今朝の外科手術で得られた、樫木萌絵の夫の精子を見つめる。数は決して多くはない。精子たちは、鞭毛を揺らし、それぞれが無作為な方向へ泳いでいる。
人間の性別を決める性染色体には、XとYの二種類がある。卵子は必ずX染色体のみを持ち、一方の精子は、X染色体かY染色体のどちらかを持つ。卵子と精子が融合後、性染色体の組み合わせがXXであれば女性、XYであれば男性が生まれる。従って、性別の決定権は、精子にある。
つまり、海音が選んだ精子が、萌絵の子供の性別を決定することになる。
性別だけではない。精子がもつ遺伝子のパターンは、精子ごとに一つ一つ違う。どれだ。どの精子にすればいいのだ。そもそも神様でもない一人の人間に過ぎない自分が、赤ちゃんを作る遺伝子を選んでいいのか。
海音の額に汗が浮かぶ。動悸が激しくなる。これが、「神の選択」なのか。だめだ。重すぎる。頭の中が、白黒の砂嵐に侵食されていく。
——できない。
「形状に問題がなく、よく運動する精子を選びなさい」
芽衣の落ち着いた声が左後ろから聞こえた。
「私たちは神様じゃない。だから一人の人間の目で見て、一番いい子を選びなさい」
息を吸って、止める。海音の眼が、よく動く、美しい円錐形の頭部をもつ精子を捉えた。極細のガラス管で精子の尾部を捕捉し、ガラス管にパルスをかけ、振動させる。精子がしびれたように運動を止めた隙に、精子をガラス管の中に吸い込む。
さて、次は。
卵子の直径よりもやや太く、先が丸まっているガラス管で、卵子の左側を吸引し、保持する。右側から、精子を吸ったガラス管を近づける。卵子を覆う透明な膜にガラス管を当て、パルスをかける。ゆっくりと透明な膜を貫いて破り、一度ガラス管を抜く。
一度息を吐いて、また吸う。ここからが受精だ。ガラス管の中に入った膜の一部をガラス管の外に吐き出す。先ほど膜に空けた穴の中を通り、ガラス管を卵子にゆっくりと刺しこむ。卵子の細胞質に、ガラス管が侵入する。
『行ってこい』
心の中で呟いて、精子を細胞質の中に吐き出す。卵子の中に放り出された精子は、最後に嬉しそうにくるりと回ると、じっと動きを止めた。
卵子から、静かにガラス管を抜き去る。
終わった。
なんとか集中を保ち、卵をインキュベーターに入れる。蓋を閉じた瞬間、酸素の濃度が極端に低く感じられ、海音はぜえぜえと息を吸った。
「かなり緊張していたけれど、手技に問題はなかった。いい顕微授精だった」
声のする方を見ると、めったに笑わない芽衣の目元が綻んでいた。春の初めに残雪の間隙に咲く福寿草のように、無垢な微笑みだった。
「母袋さん、筋がいいよ。もっと自分の手技に自信を持つべきだと思う」
——ほらね。「無感情の機械」なんかじゃない。
芽衣に褒められて、涙が出るほど嬉しかった。全てを出し切った海音は、培養室の床に崩れ落ちた。
*
翌日の午後、樫木萌絵の卵は、受精から二十五時間後に最初の分裂を始めた。海音は、芽衣と河瀬と共に、撮影された画像を時間と共に追いかけ、受精卵を観察した。
張りのある透明な球体は、意思を持っているようだ。柔らかそうな細胞質が、ぽよん、ぽよんと分裂していく。二個から四個、四個から八個と分裂を繰り返し、細胞たちは指数関数的に増殖していく。これだ。この光景が見たくて、海音は胚培養士になったのだ。海音自身も、母親の胎内で同じような時間経過をたどったはずだ。海音は、顔も声も知らない母親と過ごした時間に思いを馳せた。
五日間かけて萌絵の受精卵は順調に分裂し、細胞の数は百個ほどになった。受精卵は、無事に胚盤胞期を迎えた。
「比較的短めの時間経過で胚盤胞に至っているし、グレードも4AAか。いいね」
河瀬が、画面を見たまま嬉しそうに笑う。萌絵の胚は、細胞が密で数が多く、着床して正常に育つ可能性が高い状態だ。
「あとは、母体の周期に合わせて胚移植をすることだけど、樫木さんは排卵周期が特に読めないタイプだから、このままホルモン治療を続けて見極めよう。最良のタイミングで、大事な卵が着床してもらうためにね」
河瀬は、芽衣を見た。
「芽衣さん。母袋さんと一緒に、胚凍結をよろしくお願いします」
「はい」
芽衣が、冷静な声で応じた。
河瀬夫婦の間には、馴れ合いが決してない。だから、とても眩しい。
萌絵の胚は凍結され、着床に最も適した時を待つこととなった。胚は、母胎に帰る日を待ちわびているように、液体窒素の中で、じゅう、と悲鳴を上げると、そのまま眠りについた。
この胚は夢を見ている。
萌絵の中で芽吹き、無事に生まれてくる日を夢見ている。
