ギフト—胚培養士はいのちをつなぐ— 第四話〖人間の手・二〇二五年 四月十六日 前編〗#創作大賞2025
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樫木萌絵の採卵から丸一日が経つ。午前の業務が終わった。外科手術で萌絵の夫の精子が得られたので、午後一番に、顕微授精を行うことになった。緊張で手が震えませんようにと両手をこすり合わせて、スタッフルームに向かう。スタッフルームは、産婦人科の全スタッフが自由に使える休憩室だ。
扉を開けると、白を基調とした部屋で、研修医の吉田茉莉が泣いていた。吉田は小柄だ。身長は百四十五センチくらいだろうか。子犬を思わせる大きな瞳からは、涙がこぼれている。吉田は、赤紫色のスクラブの上から羽織った白衣の袖で、涙を拭った。後ろ髪は長い三つ編みになっていて、前髪は、眉よりも三センチほど上で真っすぐに切り揃えられている。
吉田の背を、同世代の二十六歳の看護師、杉森はながさすっている。後ろでまとめた杉森の髪は、きちんとネットに包まれていて清潔な印象だ。
「吉田先生。お願いですからもう泣かないでくださいよ」
「杉森ちゃん、無理だよお。やっと、憧れの産婦人科にい、入局できたのにい。初めて立ち会ったあ、帝王切開で気持ち悪くなって、途中退場、しちゃったのお。情けないよお。自分があ、不甲斐なくてえ!」
吉田は、しゃくりあげながら盛大に鼻をかむと、また泣き始めた。
「せっかくの激辛ラーメンが伸びちゃうじゃないですか! 朝から楽しみにしてたのに」
杉森は叫んで、蓋の上におにぎりと箸が乗ったカップ麺を、恨めしそうに睨んだ。
「母袋さん、何とかしてくださいよ!」
杉森が縋るように海音を見つめる。困ったことになったと、海音は頭を掻いた。
「吉田先生、帝王切開になった患者さんのお名前は?」
「朝田陽菜さんです」
ぐすん、と鼻をすすり、吉田が赤い目で海音を見上げた。
「朝田陽菜さん……。確かPCOS——多嚢胞性卵巣症候群の方で、今回が二回目のご出産ですよね?」
「え? 何で知ってるんですか?」
吉田の目が点になった。
「うちのリプロセンターで、芽衣さんが顕微授精した赤ちゃんですから。よかった。一時は切迫早産になりかけていたって、河瀬先生から聞いてたんですよ。無事にご出産されたんですね」
ほっと胸をなでおろす海音の視界の端で、杉森が口を尖らせながら、吉田の鼻水で汚れたティッシュペーパーをゴミ袋に入れる。
「朝田陽菜さんって、確かストークベビークリニックからの転院でしたよね?」
杉森に問われ、海音は頷いた。
「そうです。河瀬先生と芽衣さんがストークベビークリニックにいた時に、一人目を授かったらしくて。二人目も河瀬先生と芽衣さんにお願いしたいって、強いご希望があって。だから河瀬夫婦を追いかけて、うちに転院されたんですよ」
「さすが、安定のエース夫婦ですね。朝田陽菜さんの他にも、沢山フォロワーさんがいますもんね」
海音と杉森の会話を聞いていた吉田が、涙を拭って突然立ち上がった。
「見えた! 私、ついに見えた!」
「ちょっと……。吉田先生、急にどうしたんですか? ていうか、鼻をかんだティッシュペーパーくらい自分で片づけてくださいよ!」
「杉森ちゃん、母袋さん。私、今から河瀬先生を目標にします! 患者さんから厚い信頼を得られる河瀬先生みたいな医師になりたい!」
海音と杉森が面食らっていると、吉田はテーブルの上に乱雑に置かれた医学書と論文の束を掴んでトートバッグに入れた。
「こんなところで泣いてる場合じゃない。夕方のカンファレンスに向けて、今日の手術の振り返りと、症例研究を怠るわけにはいかないんだから!」
吉田は、笑顔で海音と杉森に手を振ると、駆け足でスタッフルームを出て行った。海音は杉森と顔を見合わせて、吹き出した。
「ものすごく打たれ弱いけど、立ち直るのはめちゃくちゃ早いですね、吉田先生」
海音がぽろりと呟くと、杉森はお腹を抱えて笑い、前のめりになった。杉森が、「やれやれ」と、すっかりスープを吸いきった激辛ラーメンに手を伸ばす。海音も、パン屋で買ってきたバインミーの袋を開けた。一口齧ると、硬めのパン生地と、酸味のあるなますとサバが、絶妙に美味しい。
「こうして、私たち胚培養士とか、看護師さんとか、医師の先生とか、色々な立場の人間が集まれる空間って、楽しいです」
海音が微笑むと、杉森が海音のバインミーを覗き込んで、頷く。
「河瀬先生って、いつもどこでお弁当食べてるんですか?」
激辛ラーメンをすすりながら、杉森が聞く。
「お弁当じゃなくて、いつも芽衣さんと一緒に医学部食堂に食べに行ってますよ」
「へえ。夫婦仲は良好か」
杉森の言葉に何か含むものを感じ、海音は、杉森を見た。杉森も、海音の視線の意図を汲んだようで、ペットボトルのお茶を飲み込むと、小声で囁いた。
「河瀬先生、全方位から狙われてますよ。他科の看護師にも、医療事務員にも、医局の秘書にまで。河瀬先生が結婚してるかどうかって、すごい頻度でいろんな人に聞かれますもん。ほら、先生、敢えて結婚指輪しない人だから」
「芽衣さんに合わせてるのかな。芽衣さんも、指輪しない派なんで」
「母袋さん。芽衣さんって、実際どんな人なんですか?」
「え?」
「いや、看護師の間でもちょっと噂になってるんですよ。芽衣さんが、うちに就職が決まったのは、完全に河瀬先生のコネだって」
海音は、一瞬言葉に詰まった。
「やっぱり、そうなんですか?」
杉森は、少し不安げに瞳をくるくると動かした。噂を信じるかどうか、迷っている様子だった。
「同じ胚培養士の立場からすると、芽衣さんの就職にコネは全く関係なかったはずです。芽衣さんの実績を見れば、採用しない施設はないと思います」
「母袋さんから見ても、芽衣さんってやっぱりすごい人なんですか?」
「はい。すごいっていうか、もはや神がかってます」
「例えば?」
「まず、無駄な動きが一切ないんです。卵子とか精子って、どうしても体外の環境では劣化してしまうんですけど、芽衣さんは、極力劣化をさせないように、最速で操作ができるんです。頭の中に、完璧なイメージがあるみたいで。あとは、常に落ち着いていて、どんなに難しい検体が来て、難易度の高い手技を要求されてもパニックになることがない」
杉森は、おにぎりに齧りつき、咀嚼して飲み込むと、意を決したように口を開いた。
「看護師の間で、芽衣さんがたまに、『無感情』って言われてるの、聞いたことあります。機械みたいだって」
海音は驚いて瞬きをすると、落ち着かない様子の杉森を見た。
「それって、はっきり言うと、仕事ができる人への一種の嫉妬ですよね。確かに芽衣さんの指摘は簡潔で厳しいけど、ただそれだけです。相手を責めるとかじゃなくて。負の感情が一切入っていないから、素直にありがたく受け止められるんですよ。私、芽衣さんから手技を学べて、自分が成長していくのが分かるんです」
「そうなんだ……。私、ちょっと芽衣さんのこと誤解してたかもしれないです」
杉森の視線の揺らぎが止まった。
「今度また芽衣さんの噂になったら、芽衣さんのデスクを見てみろって、言っといてください。芽衣さんの手技で誕生した子ども達の写真がたくさん飾られてますから。全部、笑っている写真ですよ」
時計を見ると、昼休みがあと十分で終わる。
「そう言えば、昨日は事務室のホワイトボードにメモ、ありがとうございます。あの電話、杉森さんが出てくださったんですよね?」
「そうなんですよ。でも、何か変な電話で。何も言わないから、『どちら様ですか?』って聞いたら、無言のまま切れてしまって」
「え?」
「今流行りの詐欺電話かな、とか考えたんですけど、やっぱりリプロセンターにかかって来るなんて変ですよね」
「そうですね。単純に間違い電話かも知れないですね」
「はい。だといいんですけど」
腑に落ちた表情で頷く杉森に軽く会釈し、海音はスタッフルームを後にした。
海音は唇を噛んだ。芽衣のことは、心から尊敬しているし、先ほどの杉森との会話には全く嘘がない。だからこそ、海音の中にいるもう一人の自分が叫び声をあげ、徐々に歪みが蓄積していく。仕事と真っすぐに向き合う天才技術者の芽衣を妬めたら、嫌いになれたら、蔑めたら、どれだけ楽だろう。
海音は息を吐くと、頭を振って余計な考えを散らし、背筋を伸ばして培養室に急いだ。私情に引きずられている場合ではない。頭の中で回路を切り替える。
いよいよ、顕微授精だ。また一つ、新たな命をこの手で始める時が来たのだ。
