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ギフト—胚培養士はいのちをつなぐ— 第三話〖モノクロームの姫と忘却・二〇二五年 四月十五日 後編〗#創作大賞2025

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海音は、採卵室と培養室を隔てる壁を見つめて、卵子の到着を待っていた。隣の採卵室に響く規則的な電子音が聞こえる。術中、萌絵の心拍は落ち着いているようだ。

「卵採ります」

河瀬の朗々とした声が、培養室の士気を上げる。

「卵出ます」

採卵室と培養室を繋ぐ狭い通路の扉が開く。検体の受け渡しのためだけにある、パスボックスと呼ばれる通路だ。海音は扉を開け、卵子が入っている卵胞液らんぽうえきで満たされたシリンジを受け取った。

「卵、受け取りました」

採卵室にいる全員に聞こえるように、大きな声を出す。卵子は海音に託された。ここから先は、胚培養士の仕事だ。

「#213589、樫木萌絵様」

まずは海音が、検体番号と患者名を読み上げる。

「#213589、樫木萌絵様、確認しました」

芽衣が、再度番号と名前を読み上げる。取り違えを未然に防ぐためだ。胚培養士は、常にペアを組み、ダブルチェックをして、ヒューマンエラーの可能性を一つ一つ潰しながら、業務を遂行していく。

培養液が入ったディッシュに卵胞液を移し、顕微鏡を覗いて卵子を探す。横のモニタには、顕微鏡の画像が映され、芽衣もモニタを見ながら、共に卵子を探す。今回の卵胞液は、血液や雑多な細胞を多く含んでいる。正直、今まで扱った検体の中で最も難易度が高い。しかし、萌絵が過酷なホルモン治療を続けてやっと得られた卵胞液だ。どんな理由があろうと、見逃しは決して許されない。

卵子を探す操作は、マウスピースと呼ばれるチューブを口に咥え、チューブの先端に着いた細い管で、卵子を吸ったり吐き出したりして行う。マウスピースには、肉眼では確認できないほど目の細かいフィルターが取り付けられているので、唾液や呼気が混入することはない。

「違う。そこじゃない。視野の四時方向。顆粒膜細胞かりゅうまくさいぼうの群れに隠れてる。そう。そこ。マウスピースを吸う時の動きに無駄が多い。素早くね」

芽衣の淡々とした声が培養室に響く。芽衣のアシストは強力だ。芽衣は、海音よりも先に、あっという間に卵丘細胞らんきゅうさいぼうに取り巻かれた卵子を見つけた。芽衣は、「神の手」だけではなく「神の眼」も持ち合わせているのか。芽衣の指摘は的確で素早い。言葉遣いは厳しいが、不思議と嫌味が一切なく、素直に感謝して受け入れられる。

卵子は二つ見つかった。萌絵の夫の精液検査の結果から、精子の量が極端に少ないことが解っている。卵子に精子を振りかける媒精法ばいせいほうは適応外だ。成熟した卵子があれば、顕微授精けんびじゅせいになる。

海音は卵子を培養液の中に泳がせ、丁寧にマウスピースを吸ったり吐いたりして、卵子から卵丘細胞を剥がし取った。卵子に直接ガラス針を刺しこむ顕微授精では、まず卵子を完全に剥き出しにし、成熟度合を判断しなければならないからだ。裸化らかというこの工程はとても重要だ。

「芽衣さん、裸化の確認お願いします」
「いいね。第一極体きょくたいが見えるのが成熟卵で、一個。極体を確認できない未成熟卵が一個か。裸化に問題はないから速やかにインキュベーターに入れようか」

海音は、卵子が入ったディッシュを両手で包み込むように持って、インキュベーターに入れた。海音がインキュベーターの蓋を閉じた直後、培養室の電話が鳴った。受話器を取る。

「樫木さんの卵、状態は?」

河瀬の声だ。

「成熟卵一、未成熟卵一です」
「了解。予定通り、顕微授精だね。成熟卵については明日午前中に精子を採取できれば、午後に顕微授精でお願いします。母袋さん、初顕微授精、緊張してる?」

「はい……。あ、いいえ」と訳の分からない応答をして、電話を切った。無意識に芽衣を見つめていた。

一連の工程を終えた海音は、深い安堵のため息を吐いた。

萌絵の卵子は、侍女のような卵丘細胞たちから引き離され、たった一人で夜を明かすのだ。卵子は、慣れない培養液の中で、必死に呼吸をしているように見えた。明日、精子と出会うことを、卵子この子は既に悟っているのかもしれない。

業務を終えた海音が振り返ると、培養室はしんとしていた。

北都大学のキャンパスの空は広い。電線がすべて地下に埋設されているからだ。夕焼けに彩られた金色の雲を見上げながら、海音は駅へと歩いた。

新たな命が始まる瞬間に立ち会える希望に胸が鳴る。夕焼けの中で、白いスニーカーを履いた足が躍った。

そう言えば、事務室のホワイトボードにメモが貼られていた。看護師の杉森からのメモだ。

——四月十五日八時二十一分。電話がありました。発信元は不明。

>>第四話〖人間の手・二〇二五年 四月十六日 前編〗


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